誘導推論が引き起こされるとき

こんにちは。夜ゼミ2年の田中です。バイトしかしておらず、特に書くこともないので、秋におすすめの曲を紹介していこうと思います。

今日おすすめするのは倉橋ヨエコの『色々』というアルバムに入っている『今日も雨』です。もしかしたら梅雨の曲かもしれないですが、夏前の生ぬるい雨というよりは秋口の冷たい雨のほうが合っていると私は思います。なんとか私と現実とをつなぎ止めてくれている歌です。是非聞いてみてください。

さて、今回私が要約するのは以下の論文です。

西村香奈絵(2008)「この壺を買えば、運勢が上昇する-この壺を買わなければ、運勢が上がらない?」『月刊言語』10月号pp.60-67

本論文では条件文「pならq」から「pでないならqでない」を導く推論について複数の例文を用いてそのような「誘導推論」が行われる背景を明らかにしている。

さて、「誘導推論」とは、論理的ではないが、日常の言語活動において我々がそのように導かれてしまう推論全般のことである。例えば以下のような文である。

  • テストで百点をとれば、おもちゃを買ってあげる。

   ⇒テストで百点を取らなければ、おもちゃを買ってあげない。

(1)の条件文ではテストで百点を取る場合のみについて述べており、論理的には誘導推論は導かれない。しかし、我々はこのような条件文を聞いたとき、誘導推論が成り立つと考える。

 一方、我々は常に誘導推論を導くわけではない。

(2)魚釣りに行けば、天然の黒鯛が食べられる。

   ⇒魚釣りに行かなければ、天然の黒鯛が食べられない。

 (2)の条件文では我々は誘導推論を導かない。しかし、文脈が与えられると誘導推論は成り立つようになる。

(3) a[文脈]天然の黒鯛は入手困難で、そこらの店では手に入らないことが周知である。

  b魚釣りに行けば、天然の黒鯛が食べられる。

   ⇒魚釣りに行かなければ、天然の黒鯛が食べられない。

つまり、誘導推論の可否は文脈次第であることがわかる。文脈さえ与えられれば、(2)の条件文でも誘導推論が可能になるのである。ではなぜ(1)の条件文には文脈がいらないのだろうか。

それは前件pと後件qの表す事態の起こりやすさの相対関係に起因する。(1)ではpの方がqよりも起こりやすい(p>>q)事態を表している。それに対して(3)はqの方がPより起こりやすい(p<<q)字体を表している。また、条件文の前件は、典型的な状況を表すと理解される。命題が成り立つ状況は複数あるが、その状況の間には起こりやすさ・典型度に関して順列がある。そのため、後件命題の表す状況と起こりやすさを比較する際には、前件命題の成り立つ典型的状況を対象としなければならない。従って誘導推論は通常p>>qで引き起こされる。

誘導推論が常に得られるのは、p=qが成り立つ文脈のみである。

(4)芝を刈ってくれたら、5ドルあげる。

これはpがqを完全には含まないp<<qの例であるが、ベビーシッターをしても5ドルあげるという文脈でも用いられ得る。しかし、特に要請のない限りこの文脈は想定されない。この傾向はグライスの協調の原則の一つ、「量の公準」に基づく会話の含意によって説明されるとしている。これを(4)の例に当てはめると、もし芝刈りだけでなくベビーシッターをしても5ドルくれるのであれば、話し手はそう述べるはずであり、芝刈りにしか言及していないので、話し手は芝刈り以外では5ドルあげないと考えていると理解される。これがp=q文脈へ文脈を限定する役割を果たしている。

 また、因果関係を述べるという文脈が前提として存在しても、p=q文脈の成り立つ文章において誘導推論が導かれる。

(5)DHAを摂取すれば、知能が向上する。

この文において誘導推論を可能にするのは「DHAを摂取する以外の知能向上に関わる要因は取り除いてある」という前提だ。

以上のことから筆者は、pの方が起こりやすい事態であり、会話の含意や因果関係を述べるための前提といった要因により、限定された「p=q文脈」で条件文が解釈される場合に誘導推論は引き起こされるとまとめている。

前件と後件の相違点から事態の起こりやすさの相対度が誘導推論の可否を分けているというのが参考になった。