基礎語の地理的分布と語彙史の交渉:「家」(イエ)と「家」(ウチ)の併存をめぐって

昼ゼミ3年の中村仁美です。提出たいへん遅くなりまして申し訳ありません。テスト等お疲れ様です。いよいよ二月ですね。

このたびは、以下の論文について要約しました。ウチとイエに関する論文です。

日野資純(1982) 「基礎語の地理的分布と語彙史の交渉:「家」(イエ)と「家」(ウチ)の併存をめぐって」 『人文論集』33、pp.123-153.

この論文では、家屋を示すイエと家庭を示すイエの使い分けが家屋を示すウチと家庭を示すウチへと変化したという佐藤(1979)の推定に対し、実際は家屋を示すイエと家屋を示すウチは並存しており、使い分けはイエは文語体の改まった文脈か話し言葉でも重々しい文章に現れ、ウチは話し言葉の砕けた文脈に現れるといったようになされており、この形が江戸の下町言葉から明治以後の中央後に受けつがれていったということを主張しています。

まず日野は、国立国語研究所『日本言語地図』(以下LAJ)の調査について意見を述べています。その調査内容と結果を示したうえで、日野の主張を簡単にまとめます。

一つ目の調査は、三軒並んでいる家の絵を見せて「何が三軒あると言いますか」と質問したというものです。その結果、イエは福島・新潟以北青森まで、近畿以南鹿児島まで用いられており、茨城東部、千葉南部、山梨にも小さいまとまりがありました。ウチはイエを東西に分けるような形で関東、中部、北陸を中心に分布しており、東北地方南部や近畿にも点在していました。この結果から、イエがかつて全国に広く分布していた後に、関東を中心にウチが広まってきたと推定されるということです。

二つ目の調査は、「あそこは子供の多い〈うち〉だというふうに言いますか」と質問したというもので、その結果は、東北地方はまばらだがほぼ全国区で言うという結果になっています。

この二つの調査から、もともと外に対する内の意味であったウチが、まず自分の家族または家庭の意味に用いられ、それが自分の住んでいる家屋の意味になり、一方では一般の家庭または家庭の意味になり、さらにその二つの意味が合わさり変化して人家の意味になった、とJALの研究結果は述べており、ウチは新しい表現であるとも言っています。日野はこれに対し全面的に同意を示しており、ウチが「自分の家庭」の意になるのは虎寛本狂言『右近左近』あたりから始まり、さらに滑稽本『浮世風呂』に「家庭」の用法が見られ、歌舞伎『お染久松色読販』には「家屋」の意の用法が現れ、それが明治以後に受けつがれた、とその補足をしています。また、現代東京語ではイエはやや改まったことば、ウチはくつろいだ言葉というような相違があることを述べ、その一方で東北地方、たとえば青森県などではイエが場面の相違などに関係なく用いられていることに着目し、イエを基本とする形が東北地方などでは歴史的に続いてきているのではないかと推測しています。また、LAJの研究結果ではイエとウチの両方を使用するという地点が60数点にのぼるという事実からも、イエとウチの並存関係がかなり以前から続いてきたとを推測しています。

ここでの問題点は、なぜイエがかつて全国に広く分布していた後に、関東を中心にウチが広まってきたと推定されるのか書かれていない点と、調査結果が結論とあまり結びつかないのではないかという点です。

次に、日野は佐藤亮一『日本の方言地図』(1979)について意見を述べています。佐藤の論文の内容を簡単にまとめたうえで、日野の主張を簡単に以下にまとめます。

佐藤は、『万葉集』に「いへ」が家屋を示す例が見られることを述べ、時代を下るとともに「いへ」が「や」の意味で用いられる傾向が強まっていき、現在東北などに見られるイエ(家屋)とイエ(家庭)の使い分けが成立したといいます。もともと外に対する内の意味であった内が、「こなたもじゃと思召ては、又例の我儘が出ませう程に」(『虎寛本狂言・右近左近』)などのように自分の家族や家庭を示すようになり、「わたしはあのの女に」、すこしはなし合がありやす」(『東海道中膝栗毛』)などのように一般の家庭・家族を示すようになり、その結果イエとウチとの間で意味分担が行われ、イエ(家屋)とウチ(家庭)の使い分けが成立した、と佐藤は主張しています。そしてウチの用法がさらに広がり、家屋の意味を含み、関東・中部でのウチ(家屋)とウチ(家庭)の使い分けが成立したと述べています。

日野はここで佐藤の示す『東海道中膝栗毛』の例は「アノ」が間投詞であるためたまたま文脈上「この家の女(女中)」という意味になるが「一般の家族・家庭」の意味ではないと指摘し、本文中の他の例を示しました。(弥二「コウどふぞいきな女のある内へとまりてへの」/順礼「……わし共の内で養生のウしている内、……」)

次に日野は、『東海道中膝栗毛』のような例からイエ(家屋)とウチ(家庭)という使い分けが発生し、そのウチが家屋の意味を示すようになったという佐藤の主張に対し、『東海道中膝栗毛』の中にすでにウチ(家屋)が現れており、イエ(家屋)も見られることを述べ、イエ(家屋)・ウチ(家屋)とウチ(家庭)というような使い分けがされており、家屋を指すイエとウチは並存関係にあるのだと主張しています。ウチ(家屋)の例としては、「コウむかふの内がいきだぜ」「ソレソレ去年おらが山へいつた時にとまつた内だ」などを挙げ、イエ(家屋)の例としては、「大森といへるは蕎麦ざいくの名物にて、家ごとにあきなふ」「家ごとにかどの戸をたてたるが、くぐりばかりを開きて」などを挙げています。このウチとイエの例から、筆者は「ウチ(家屋)」が主として会話文のくだけた文脈に現れ、「イエ(家屋)」は地の文に現れる傾向があると主張しています。また、この主張の説得力をより高めるため、近世後期の江戸の下町言葉を写実的に写したと言われている式亭三馬の『浮世風呂』『浮世床』からも例文をいくつか挙げています。ここでもウチは話し言葉のくだけた文脈に現れ、イエは文語体の改まった文脈か、話し言葉でも重々しい文脈に現れていることから、筆者はこのウチとイエの使い分けが江戸の下町言葉などでは一般的なもので、このようなイエとウチの関係は、明治以後の中央後にも受け継がれていったと主張しています。童謡・童話、小説のうちとけた会話文、小学校国語教科書の主として低学年の単元の文章などにオウチ・ウチが多く現れ、小説の地の文、小学校国語教科書の主として高学年の単元のやや改まった文章(地の文中心)にイエが多く現れている傾向があると述べ、いくつか例を示しています。

ここでの問題点は、日野はまず『東海道中膝栗毛』の例文を否定しているが、日野が述べている例文も一般の家族や家庭ではなく家屋を示す例文に見える点でしょう。後半部分は現代の感覚と同じで、納得できます。

最後に、全体を通して気になった点を述べます。

この論文では、初めからイエとウチを家庭と家屋という二つの意味に分類しており、その分類理由や基準について書かれていなかった点が資料としては物足りなく感じました。

また、ここで引用される例文のウチは「内」表記であり、今のウチの表記と異なっています。現在の表記では「家」もしくは「ウチ」ではないでしょうか。この点においては一切触れられていなかったので、課題にしたいと思います。

参考文献

佐藤亮一(1979)『日本語の方言地図』中公新書