日本語の補助動詞「‐てしまう」の文法化 : 主観化、間主観化を中心に

こんばんは。夜ゼミ3年の岩本です。テニスの全豪オープンの決勝5時間53分すごかったですね。3年生は就活が早く決まるように頑張っていきましょう。

今回私は以前から興味のあった「間主観化」を取り上げている論文を要約しました。

一色舞子(2011)「日本語の補助動詞「‐てしまう」の文法化 : 主観化、間主観化を中心に」『日本研究』第15号 pp.201-221 高麗大学日本研究センター

以下要約です。

本稿は、文法化の観点から日本語の補助動詞 「 ―てしまう」 の意味変化に伴う主観化、間主観化の様相を明らかにすることを目的としている。

1,「―てしまう」のアスペクト的意味

まず、従来の研究において決まって指摘されてきた「―てしまう」のアスペクト的意味について論じる。従来の研究では「アスペクト的意味を本質的にみる」ものと「それとは異なるものを「―てしまう」の本質とみる」ものの二つの論がある。

 まず、「アスペクト的意味を本質的にみる」論では、金田一(1976)、吉川(1971)、杉本(1991)の先行研究が挙げられる。以上の先行研究によると、「―てしまう」という形には「終結態」と「既現態」の二つがあるという。終結態は「ある動作・作用が完全に行われる」つまり「完了する」という意味を持つ。既現態は「その動作・作用が実現する」ということを表す。

 一方、「それとは異なるものを「―てしまう」の本質とみる」論では、藤井(1992)と大場(1999)が挙げらる。藤井(1992)によると、「―てしまう」は感情ㆍ評価的意味の方がより一般的であって、限界達成はむしろ部分的、あるいは付随的であるという。大場(1999)は「―てしまう」は動作ㆍ作用の過程の、客観的に指摘できるある部分を表す形式なのではなく、「決着がつく」という述べ方であるため、その解釈は相当に文脈に依存しており、それゆえアスペクトを表すように見えたり、話し手の情意を表すように見えたりするという。

 一色は藤井(1992)の論を認めつつ、自身で調べたことを根拠に、どの「―てしまう」も何らかの主観的意味が付きまとっている場合が多いとしている。ただ、複数の出来事の継起的発生を表す複文または重文に用いられた場合は、一切の主観的意味を排除したアスペクト性が現れやすくなる。以下例文である。

(1)  a.太郎がカードを配ってしまうと、皆はそれを一斉に手に取った。

b.太郎がカードを配ると、皆はそれを一斉に手に取った。

(1)aは「配る」という動作の完了を表しているが、(1)bの場合は太郎がカードを配りはじめた瞬間か、あるいは配っている途中に皆がカードを一斉に手に取ったと解釈することも可能である。

さらに、金田一(1976)のいう終結態及び既現態という観点から検討した。結果として、「動作ㆍ作用の<完了>としての終結態は継続動詞であるという前接動詞の性質によるものというよりは、複数の出来事の継起的発生を表す複文あるいは重文という限られた文脈において現れやすいということ」と「動作ㆍ作用の<実現>としての既現態も瞬間動詞であるという前接動詞の性質のほか、発話状況も含めた文脈によっても解釈され得るということ」が明らかとなった。アスペクト的意味が本質的なものか、付随的なものか問題はあるが、「―てしまう」には何らかの形でアスペクト性が関与しているといえる。

2,「―てしまう」の主観的意味

 本稿では「―てしまう」の主観的意味として<一掃>と<遺憾>を挙げる。これらは固定的な意味というよりは、発話状況を含めた文脈によってその都度実現する語用論的意味である。「―てしまう」の主観的意味は主観化の結果帯びたものであると一色は考える。まず「一掃」についてみていく。

 一掃は「動作主体が意志を持って行為を行って負担感などを一掃し、その結果、話し手が爽快感を感じること」を表す。また、「―てしまう」 の一掃の主観的意味は、意志形や命令形、願望の「-たい」と共起した場合に現れやすいのである。その理由として、藤井(1992)のいう、「話し手にとって都合のいい状態への転換をうながす心理というものは、命令に限らず、自身の意志や願望にも共通して存在している」ということ挙げている。

 遺憾は「動作主体が意志を持って行為を行い、あるいはコントロール不可能な状況下で行為を行い、その結果話し手が残念な気持ちになること」を表す。また、遺憾の用例は主体の意志的行為の場合にも見られるが、主体の無意志的状況で実現したことを表す場合が多い。理由としては、通常、当該行為や作用が、話し手のコントロールの範囲に及ばない、他者の意志による行為や自然発生的現象として実現するときに、話し手が自分にとっては好ましくないと否定的に捉える傾向が高いということを反映しているからとする。ただ、これは傾向に過ぎず、「―てしまう」が遺憾の意味を表すわけではない。

3,「―てしまう」の間主観的意味

 「―てしまう」の間主観的意味として<言い訳><照れ隠し><配慮>が挙げられる。

<言い訳>は、話し手が 「―てしまう」 を付加して行為の意図性を軽減させることにより意図的にその行為を行ったという印象を弱めその行為に対する反省の念を聞き手に伝えるもの。

 <照れ隠し>は、明示されない主体の意図性を、「―てしまう」によってさらに軽減することにより、たとえそれが主体=話し手の働きかけによって実現した事態であると話し手が認識していようと、それが主体=話し手の働きかけによるところではないという意味合いを敢えて聞き手に伝え、話し手自身にとって好ましい事態が実現したということを控えめに伝達するものである

 <配慮>は、「―てしまう」 の付加によって主体の意図性が軽減され、表現が直

接的なものから間接的なものへと変わる、つまり主体である聞き手に対する配慮が生じるものである。

 以上の「―てしまう」の意味には意図性の軽減がみられる(ここでは非意図化と呼ばれている)。非意図化ということは、つまり主体の後景化を意味しており、主体=聞き手を後景化させて主体の関与性が希薄化したより間接的な表現をすることによって、聞き手への配慮の意味を生じさせるのである。この後景化は先行研究においてすでに言及されていて、Ivan・酒井(2003)、益岡(2007)を一色は挙げている。

 以上見てきた「-てしまう」の<言い訳><照れ隠し><配慮>の意味においては、さらに話し手の聞き手に対する認識的ㆍ社会的注意(配慮)を表す意味へと変化するという 「間主観化」 が起こっていると考えられる。これは、「-てしまう」 の 「非意図化」に基づく<言い訳><照れ隠し><配慮>という意味が、話し手の事態(命題)に対する聞き手への発話ㆍ伝達態度を表していると考えられるからである。したがって、本稿ではこれら<言い訳><照れ隠し><配慮>の意味を、「-てしまう」 の間主観的意味として提示する。

4,「―てしまう」の音韻縮約形「―ちゃう」

「―ちゃう」は「―てしまう」が頻繁な使用の中で音韻縮約を起こした形式である。意味面では大きな差はないものの、運用面で異なる特徴を見せるということ、音韻縮約によって一形態素化した 「-ちゃう」 は 「-てしまう」 の文法化における形態的な証拠であるということが言える。

以上、要約でした。今後、語の間主観化をテーマに研究するにあたって参考にしようと思います。

<参考文献>

Ivana, Aㆍ酒井弘(2003) 「敬語文の構造と軽動詞」 『日本言語学会第127回大会予稿集』

大場美穂子(1999) 「日本語の補助動詞 「しまう」 の意味と用法」 『日本言語学会第118回
             大会予稿集』

金田一春彦(1950) 「国語動詞の一分類」 『言語研究』15巻
        (1976) 「日本語動詞のテンスとアスペクト」 金田一春彦編 『日本語動詞のア
        スペクト』, むぎ書房, pp.27-61.

杉本武(1991) 「「てしまう」 におけるアスペクトとモダリティ」 『九州工業大学情報工学部
          紀要』, 人文ㆍ社会学編4, 九州工業大学, pp.109-126.
_____ (1992) 「「てしまう」 におけるアスペクトとモダリティ(2)」 『九州工業大学情報工学
          部紀要』, 人文ㆍ社会学編5, 九州工業大学, pp.61-73.

藤井由美(1992) 「「してしまう」 の意味」 言語学研究会編 『ことばの科学5』, むぎ書房,
            pp.17-40.

益岡隆志(1991) 『モダリティの文法』,くろしお出版.
            (2007) 『日本語モダリティ探求』,くろしお出版.

吉川武時(1971) 「現代日本語動詞のアスペクトの研究」 金田一春彦編(1976) 『日本語動
            詞のアスペクト』, むぎ書房, pp.155-327.