こんばんは。昼ゼミ2年の張リンブンです。自分は試験期間中テストがないため、思い切り(というか勝手に)春休みをはじめましたが…残られた宿題を忘れてはいけませんね。自分の書いたボロい文章が皆さんに読まれてしまうなんて…想像するだけでもう日本海に飛び込みたいくらい恥ずかしいです。しかし仕方ありませんね…宿題ですもの。変な日本語使い方があっても、スルーしてくださいm(_ _)m
今回私は以下の論文を紹介したいと思います。
岡本雅史(2007.12.)「比喩表現における意味論的主観性と語用論的主観性」、『日本語用論学会第9回大会発表論文集 第2号』、p.9-16、日本語用論学会
この論文では、従来の認識言語学的な主観性の議論が認識主体と話者の混同から生じる「主観性の帰属問題」と言語表現に埋め込まれた主観性を発見し認知しる「主観性の理解過程」の軽視という二つの問題を抱えていることを指摘しています。
従来扱われてきた認知言語学の主観性に関する言語現象は次のようなものです。
1) Vanessa is sitting across the table from me.
2) Vanessa is sitting across the table
例のように、どちらも話し手を参照点(reference point)とした言語表現ですが、1)では話し手が言語的に明示されているのに対し、2)では明示されていません。Langacker(1991)は1)のような文を発話する場合とは例えば自分がVanessaと一緒に写っている写真を見ながら説明するような場面であり、2)のような文を発話する場合とは、実際にVanessaと向かい合って座っている場において発話している場面であると解釈されると説明し、2)のような場合は本来認知的に把握される対象となる事態に中に話者自身が入り込んでいるため「主観化(Subjectification)」が生じると主張しました。
しかし、こんな言語表現はある意味で「主観的」なものですが、問題なのはこうした言語表現の主観性がどこまで「いま・ここ」の話者に帰属されるべきなのかは、まだ曖昧のままです。一見主観的な言語表現であっても、その主観性が過去の認知主体に帰属するものなのか、「いま・ここ」の発話主体に帰属するものなのかを問う必要があります。これについて、Langackerは「話者(Speaker)」と「概念化者(Conceptualizer」の区別をつけましたが、深田(2001)が指摘するように、現在「主観化(Subjectification)」をめぐる議論はほどんどに両者を混同しています。
<意味論的主観性>と<語用論的主観性>の区別を行うもうひとつの背景として、「言語表現の交換可能性」についてこんな例が挙げられました。
(美しい女性を見かけて)
ア)彼女は美しい。
イ)彼女は素敵だ。
ウ)あのコはイケてるね。
エ)あの女性は薔薇のようだ。
こうした言語表現における話者の主観性を捉える上で問題となるのは①同一の対象や事態について言語化は本当に複数可能であるのか(客観的事態の主観的把握)、②解釈者(聞き手)は発話に対し一様に安定した主観性の指標を適用することが可能か、という二つの点です。しかし、話者の言語表現は言語習慣やその場のコンテクストからの要請や制約があって、発話の内容を話者の「認知の直接的な反映」と捉えると、不適切な部分もあります。例のように話者にとって「美しい女性」や「素敵な女性」は同じレベルでない上、それが指し示すものの同一性を保証するものは存在しません。従って、言語表現の交換可能性は認知言語学の「用法基盤(usage-based)」の不徹底を表すんものであることを指摘されるべきと、この論文が述べています。
当該の言語表現が主観的であるか否か「認知主体」の側から問題にする限り、従来の言語表現の主観性(=意味論的主観性)と、その言語表現を使う時点での話し手の主観性(=語用論の主観性)を明確に切り分けるのは難しいですが、発話者からではなく、解釈者からの立場から主観性の問題を再把握すると、実際に「いま・ここ」の発話者がどの程度主観的であったかという客観的な実在論を超え、解釈者によって認識論的に見出されるものとして捉えることが可能になります。
この論文の一番面白い部分は、岡本他(2006)の<意味論的主観性>と<語用論的主観性>の概念を導入してから、メタファーや直喩などの比喩表現がどのように解釈者に理解されるについて、主観性の議論に新たな視点を投じるところです。例えば習慣的で使われている「Time is money」など<意味論的主観性>だけがメタファーではない、次の例のように、後続する表現によって、<語用論的主観性>の高い表現も解釈できます。
(指導する学生に将来の進路を相談されて)
ア)君は違う道を行きなさい。
イ)君は違う道を行きなさい。君が選ぼうとしている道はあまりにも険しい。
ウ)君は違う道を行きなさい。君が選ぼうとしている道はまだ全然舗装されていないし、普通の人間が気楽に歩けるものではない。
一方、直喩はメタファーと違って、事態認知が聞き手や読み手と共有せず、話者や書き手の主観性だけを直接に表す表現だと認識されています。しかし日本語における典型的な直喩「~のような」「~みたいな」は言語形式の観点から単純に直喩とみなすにも問題があります。「彼ってバカみたい」「玉のような汗」みないな<語用論の主観性>が薄れ、<意味論的主観性>が強い表現はむしろ直喩とは言いがたいです。従って、メタファーも直喩も、改めて主観性の観点から捉え直すべきだと思います。
【参考文献】
岡本雅史(2007)「比喩表現における意味論的主観性と語用論的主観性」『日本語用論学会第9回大会発表論文集 第2号』、p.9-16、日本語用論学会