おはようございます。夜ゼミ2年の米光です。先日2年ぶりにディズニーランドに行ってきました。そして、今日は10数年ぶりにディズニーシーに行きます。ディズニーにあまり行かないので、2週連続はとても貴重だなと思いました。久しぶりのシー思いっきり楽しんできたいと思います。
さて、今回は以下の論文を要約しました。
大倉美和子(1985)「「ほとんど」の副詞用法」『大阪外国語大学学報』70巻1号、pp.55-70
この論文は、基準値を示すと見なし得る語が文中に存在する場合でも文の意味の多義性が避けられないようなときに、文の意味解釈をめぐってどのような条件下で一つの意味が選択されるのか、その際に「ほとんど」は文中のどの要素と結び付いてその機能を発揮するのか、そして、それぞれの意味の「ほとんど」が表れる文にはどのような構文的特徴があるのかを探っている。
「ほとんど」の二つの用法
・「程度」を表すとみなされている用法
・数量を表す用法
副詞用法の「ほとんど」
肯定文中の「ほとんど」と否定文中の「ほとんど」に分けてそれぞれの場合の基準値を整理しつつ、その基準値がどの構文レベルに関わっているかを見ていく。
・肯定文に現れる「ほとんど」
肯定文中に「ほとんど」が表れる場合の構文的特微…基準値指示語すなわち極限状況を示す語(以下極限状況設定語とする)と同一文中に表れること、さらにそれが「ほとんど」に下接していること。
基準値になりうる極限状況設定語をその意味により分類してみると、数量(時間量を含む)、頻度、位置を表す語、ある状態の上鰻・下限を表す語であることが分かる。
基準値が明示的ではない場合
「ほとんど」に下接する述部に表れる語の特徴…「似かよい」の対象が基準値になる場合は主体の状態を、事柄実現の完遂状態の場合には主体の状態変化や動きをその語彙的意味として持つ。
「極限状況に極めて接近した程度を表す」という「ほとんど」の用法では説明できない例…「ほとんど」に下接する語の中に基準値となりうる極限状況設定語としての性格を持つ語が表れていない。「ほとんど」は、基準値となる総量の枠組みを示す語を先行詞とし、その中の部分量をとりたてる機能を果たしているわけである。
多義性の場合の構文上の特徴
「ほとんど」が表れる文に述語動詞と格関係にある主体や対象などの文成分が複数性を暗示して存在するとき、そして、その総量の枠組みが明確に設定されている場合には「ほとんど」は数量を表す。しかし、総量を基準値として設定することも可能で、しかも「ほとんど」の後続語の中に基準値がある場合には文の多義性は避けられない。
・否定文に表れる「ほとんど」
否定辞「ない」は肯定度ゼロとして基準値になりうる。
「ない」に「なる」が結合した「なくなる」の形に「ほとんど」が結び付いて用いられることも多いが、非存在というゼロ値を基準値にしている点では変わりがない。
その総量の枠組みを設定する先行詞として機能しうる語がないために、「ほとんど」は同一文中のもう一つの基準値たる「ない」に結び付くことになる。
否定文中の「ほとんど」は、述語動詞の格関係に関わるレベルで働く場合には肯定文中の「ほとんど」と同じように数量を表すが、動詞との格関係を持つ文成分の中に総量枠組みを特定する語がない場合には時間量や頻度に関わるレベルで作用する。
しかし、一部の文は「ほとんど」は「ない」を示す事態成立の肯定度ゼロという基準値に極めて近い程度であることを表しているのみである。時間量に関わるゼロ値なのか、頻度に闘わるゼロ値なのかは「ない」が文中で何を否定するかによって決定されるものである。
「ほとんど」は文中で結びつく相手の語の性質によってさまざまな働きをしていた。私は「ほぼほぼ」をテーマにしたいと思っているが、その中でも多義性の部分には興味があったので参考にしていきたい。