こんにちは。夜ゼミ2年の山崎です。寒い日が続いていますが、試験期間もあと少しで終わりですね。今日も私は1限から試験があり、ここ数日間は試験だらけで寝不足気味です。あと3科目も試験が残っているので、眠気に耐えて頑張りたいと思います。
さて、今回私が要約した論文は、飯干和也(2008)「「ヨウダ」の意味に関する認知言語学的考察」(熊本県立大学大学院文学研究科論集 1.lxxxi-xcvi.2008-09)です。私は後期のグループ研究のテーマが、「認知言語学」で主にメトニミー、メタファーを扱ってたのでこの論文に興味を持ち選びました。以下、要約です。
この論文は幅広く意味の解釈できる「ヨウダ」が複数の意味を表すようになった経緯を、特に「比況」や「推量」と呼ばれるものを中心として認知言語学における概念を用いて考察している。
まず、考察をするにあたって飯干(2008)は『CD-ROM版 新潮文庫の100冊』(1995 新潮社)の中から戦後に書かれた作品(日本文学48作品、海外翻訳文学1作品)を用いて、主節、並列節、確定条件節に表れた文末用法の「ヨウダ」を抽出している。「ヨウダ」の形態については「ヨウダ」「ヨウダッタ」「ヨウデス」「ヨウデシタ」「ヨウデアル」「ヨウデアッタ」を、さらに、用例数の最も多かった動詞に接続した「ヨウダ」961例を考察対象としている。
(1)槍を持つ一隊が進む様は、林が動くようだった。―【比況】
(2)犬は一匹だけではなかった。五、六匹はいるようだった。―【推量】
(3)(社長専用車が近づいてくるのを見ながら部下が)
社長、お車が参ったようです。―【婉曲】
飯干(2008)は「ヨウダ」という語の成立について、「ヨウダ」またその古語である「ヨウナリ」は、「ありさま、様子、様」の意味である形式名詞「よう(やう)」に断定の助動詞「だ」「なり」が接続したものから成り立っていると考えた上で、「……のありさまです」「……の様子です」の意味に解釈できるとしている。この意味を「様態」と呼び、「様態」を「話者が外界に実在する視覚で捉えた事態について「そのような様である」と単に述べること。話者の心的態度は「それがそのような様である」という断定のみ。」と定義している。
本来は「様態」を表すに過ぎなかった「ヨウダ」が認知言語学で言われるメタファーやメトニミーが作用する文脈において使われることにより、話者が「比況」や「推量」の意味を見出し、それが繰り返されるうちに「比況」や「推量」の意味と用法が「ヨウダ」のうちに取り込まれていった。そして、この過程は「語用論的強化*1」によって説明が可能であると、飯干(2008)は述べている。
(*1「語用論的強化」…ある表現をある状況の下で実際に使用する際の話者の解釈が、いつの間にか次第にその語の意味に取り込まれてしまうこと。)
「比況」の「ヨウダ」については、メタファーの概念に基づいて見ている。ある事態をより正確に理解、表現するために、その事態と類似した別の事態から共通点を見出して例えている。このようなある事態の様態をメタファーに基づき別の事態の様態に例えて表現することが頻繁に行われると、話者はいつの間にか比況を表すことが「ヨウダ」の用法であるのだと認識し、聞き手も「ヨウダ」を比況として解釈するという現象(=「語用論強化*1」)が起こる。
「推量」の「ヨウダ」については、メトニミーの概念に基づいて見ている。話者が確実に認識している事態Aがあり、話者がそうではないかと思う事態Bがあると仮定して、話者が参照点能力によって事態Aから事態Bを把握し、事態Bについて「……そういう様です」と様態を聞き手に伝える。そして、事態Aと事態Bは因果関係にあることから、事態Bに言及することは事態Aが起きた原因や理由を推測することに等しいことになる。そこで話者は「ヨウダ」には「様態」ではなく、「推量」を表す役割があるのだと認識し、やがて完全に「推量」を表す形式として解釈されるようになった(=「語用論強化*1」)のではないかと飯干(2008)は述べている。
最後に飯干(2008)は、「ヨウダ」の解釈が揺れる時についても触れている。
(10)「大抵のスポーツは体をいびつにしちゃうんです」と店員が教えてくれた。「洋服にとっていちばん良いのは過度な運動と過度な飲食を避けることです」私は礼を言って店を出た。世界は様々な法則に満ちているようだ。
(10)のように、「あるれっきとした確かに観察される事態があり、話者はその事態を成立させた原因や理由が何であるか理解しようとしてはいるのだが、当然の帰着として考えられる元の事態が何なのか定かでない」といった文脈において、「ヨウダ」が「比況」なのか「推量」なのか解釈が難しい。そして、こういった場合にこそ「そのような様です」とただ単に述べる機能を持っている「様態」の意味に解釈するのが最もしっくりくるのではないだろうかと飯干(2008)は述べている。
最後に、「ヨウダ」の「婉曲」の意味、用法についてほとんど触れられていなかったので気になりました。