こんばんは、昼ゼミ3年の佐藤真悠です。
いまのアルバイトを始めて1年半になるのですが、下っ端だと思っていたのもつかの間、気付けば周りには年下の後輩がわんさか。高校1年の子と5歳も年が離れていることに衝撃を覚える今日この頃です。5歳年上に感じる年齢差よりも、5歳年下に感じる年齢差の方が心もち大きく感じるのは私だけでしょうか…。
さて、私が個人研究のテーマにしているのは「図書館に行かなきゃです」のような「~しなきゃです」という表現についてです。これまではこの表現を構成する「しなければならない」と「~です」に関連付けて進めてきました。今回は末尾に「です」や「でした」を付けることによって「~しなきゃ」という独り言が公に向けた表現へと変わっているのではないかという視点からみていきたいと思います。
私が紹介する論文はこちらです。
廣瀬幸生(1988)『私的表現と公的表現』『文藝言語研究. 言語篇 14』pp.37-56,筑波大学
廣瀬はまず思考表現を「公的表現行為」「私的表現行為」の2つに分け、それぞれで用いられる言語表現を「公的表現」「私的表現」という用語で表した。これら表現の区別から話法の文法を論じ、また思考表現行為の主体を「公的自己」「私的自己」に分けることで日英比較も行っている。
公的表現とは思考を表現する際に聞き手の存在を考慮している場合の言語表現のことで、伝達的機能を果たすものだ。
これに対して、私的表現は聞き手の存在を考慮しておらず、純粋に思考表現の機能のため用いられる言語表現である。
※論文中で廣瀬は私的表現を<>、公的表現を〔 〕で、表わしているため、それに従って進めていく。
公的表現と私的表現について、廣瀬は雨が降っているのが分かった場合の発話で説明している。
「雨だ」という表現について、一人で部屋にいる際には他者への伝達を意図していないので<雨だ>は私的表現であるといえる。ただし、自分に〔雨だよ〕〔雨だね〕と言い聞かせる場合には、話し手と聞き手が同一人物であり、2つの役割を同時に演じているとし、公的表現に区分している。
他者へ伝える際には、聞き手思考の表現がもちいられることが多いと指摘している。これには芳賀(1954;1962)が「伝達の主体的表現」として特徴づけたもの(「よ」や「ね」など一定の終助詞、「走れ」などの命令表現、「おーい」などの呼びかけ表現、「はい」などの応答表現)、「です」「ます」などの丁寧語、「僕」「私」「君」「あなた」などの客体的表現を挙げている。そのままの形よりも〔雨だよ〕〔雨だね〕のように終助詞が付く方が普通なのは、終助詞が本質的に公的表現であるため、私的表現を公的表現に転化する働きを持つからだと述べている。
丁寧語は聞き手に対する敬意を表すものなので、「雨だ」の「だ」を「雨です」「雨でございます」のように入れ替えることで、公的表現に転化する。
また、この表現を聞き手の側からみると、雨が降っているという状況とともに、話し手が「雨だ」と思っていることが伝えられている。このため、公的表現は私的表現に還元されて理解されるとも指摘している。
さらに、心的状態のありかたを「雨だ」の断定から「雨に違いない」「雨だろう」「雨だったらなあ」のようなさまざまなものに拡大し、動詞の文法について以下のようにまとめている。
・思考動詞(例:思う)は、その引用部として私的表現しかとることができない
・発話動詞(例:言う)は、その引用部として公的表現も私的表現もとることができる
発話動詞で公的表現を引用すると「AはBに〔おーい雨だよ〕と言った。」のように直接話法になり、私的表現を引用すると「AはBに<雨だ>と言った。」と間接話法になる。
ただし、会話の部分ではないのに公的表現が用いられている場合も存在する。心内文のような形態がこれに当てはまる。これはあくまでも自己伝達の描写であって、内的な意識の世界ではないため、私的表現では不適切になる。
最後に、私的自己と公的自己についてだが、私的自己は「聞き手のいない話し手」に、公的自己は「発話状況において聞き手と対峙する話し手」にあたる。廣瀬はここで日英の違いについて論じており、日本語は本来的に私的表現行為と、英語は公的表現行為と密接に結びついた言語であると指摘している。その根拠は次の通りである。
日本語には私的自己を表す固有のことばとして<自分>がある一方で公的自己を表す固有の言葉はないため、〔僕〕〔私〕〔先生〕〔お父さん〕などその場に応じた様々な言葉で代用されている。
英語では公的自己を表す固有の言葉〔I〕があるが、私的自己を表す固有の言葉はなく、人称代名詞によって転用されている。
私的表現/公的表現という区分と、話し手/聞き手との組み合わせによる対応が興味深いですが、私が特に気になったのは「聞き手思考表現」である終助詞や丁寧語が用いられると公的表現になるという部分です。「~しなきゃ」という私的表現が丁寧語付加により「~しなきゃです」という公的表現になる、というふうに当てはめられるのではないかと考えました。引き続き、この表現について探っていきたいと思います。
参考文献
芳賀綏(1954)「“陳述”とは何もの?」『国語国文』第23巻第4号pp.241-55
――.(1962)『日本文法教室』東京堂出版