「Vてみる」の多義性と文法化

 こんばんは。夜ゼミ2年の古城里紗です。親権者の同意なしでクレジットカードが作れないお店があり、初めて早生まれについて考えさせられました。

 期限間近に失礼します。こうならないと始めない性分は小学生の頃から変わりません。三つ子の魂なんとやらと言いますが、これと寝坊は人に迷惑をかけないよう調教しつつ一生付き合っていくつもりです。

後期のグループ発表で「文法化」を扱い、調べ始めるまで意識せず使用していたことに驚き、またその種類の多さに興味を持ちました。そこで今回は発表で触れなかった文法化のひとつ「Vてみる」について考察しているこの論文について紹介します。

嶋田紀之(2009)「「Vてみる」の多義性と文法化」『日本認知言語学会論文集 9』pp. 132-142

 この論文は、話し言葉でも書き言葉でも高頻度で使用される「Vてみる」が文法化により全体が補助動詞化して本来の「見る(see)」の意味から「試す(try)」の意味に変化したそのプロセスを認知言語学の視点から分析している。

 まず嶋田は文法化前の「て、見る」の構造について分析している。基本構造を『知覚主体(省略可)が、知覚対象に対し、見るための準備行為(V1)を行い、その結果を見る(V2)』とし、「て形」はV1とV2(見る)が並行して行われる「同時(付帯状況)」とV1の後にV2(見る)が行われる「継起(時間的継起)」の場合がある、と述べている。

(1)手を叩いて、見る。 【同時】

(2)花に近づいて、見る。【継起】

 他にも、V1は見るための準備行動や様態(姿勢)に限定される点や、知覚対象を表す格が「ヲ格」の場合は準備行為の対象と見る対象が同じだが、「二格」は準備行為の対象にはなるものの見る対象にはならない点を特徴として挙げている。このことから文法化以前の「見る」は、視覚的に対象を捉え同定する(例:花を見る)、あるいは理解・判断する(例:新聞を見る)という基本的な意味を表していると述べている。

 次に、文法化後の「Vてみる」について分析している。文法化前の本動詞が「見る」であることとは異なり文法化後はVの方が本動詞となると述べ、加えてそのVに来る動詞が文法化前は見るための準備行為等であったが文法化後は「試す行為」となることを指摘している。また、文法化前の「て形」は「同時」と「継起」を表していたが、文法化後は「同時」のみとなるのは本動詞Vと試みる(てみる)行為が一体で、各々行う「継起」の場面は起こり得ないためである。

 中には文法化の特徴で、以前の用法が残っていて曖昧な場合もあると指摘している。

(3)花にちかづいてみる。(「見る」とも「試みる」ともとれる)

 文法化による以上の変化を踏まえて「て、見る(see)」が「てみる(try)」に意味変化する動機を先行研究も取り入れつつ3つの可能性を提示している。「見る」の多義性の中の「試す」が特に抽出されたとする①意味の抽出化からの説明と、文法化の動機付けのひとつ「語用論的強化」によって「てみる」の意味に「試す」が組み込まれ、慣習化・定着化した②語用論的強化からの説明と、文法化前は「結果(を見る)」ことに焦点が当たっていたがメトニミーによる焦点シフトが生じ、「行為(試しに行う)」の方が焦点化され意味変化が生じたとする③近似性に基づくメトニミーによる説明、である。しかし、「見る」の多義性の中で「試す」の意味は薄いことからこの部分のみが抽出されたとする①は根拠が乏しいことから②と③の説が濃厚であると述べるに留めている。

「語用論的強化」…ある表現のある状況での語用論的解釈が、歴史的な経過を経てその表現の意味に組み込まれること。)

 また嶋田は、通時的な視点からも「てみる」を考察している。土佐日記の書き出しや平家物語に「て形」を伴った「てみむ」が「試す」や「こころみる」と訳されていることから、少なくともこの時期には「てみる」の文法化が進行しているとした。万葉集にも「て」を伴わない「見」が他の動詞と結びつく形で登場し、訳文で「試す」の意味になってはいるが文法化前の意味でも通じるため断言を避けている。

 最後に嶋田は「見る」、つまり視覚が五感中で優位なことが文法化に繋がった可能性を指摘している。視覚は他の感覚よりも大量の情報を外部から受動的に受けているだけでなく、必要な情報を能動的に受けている。このため他の五感は「てきく」や「てさわる」のように文法化せず「見る」のみ文法化したとしている。また、行動の殆どが視覚を通じて行われ、結果も視覚を通じて確認されることから行為と結果のメトニミー的シフトが起こり「結果のsee」から「行為のtry」の変化に繋がったのではと述べている。

 結局、筆者は語用論的強化説とメトニミー説とどちらを支持するかについて触れられていなかったのですが、個人的には語用論的強化説の方が無理なく説明できているような印象を受けました。グループ発表で苦労した分、文法化に妙な愛着が湧いてしまいました。別のパターンも考察していきたい衝動に駆られておりやや困っています。