こんにちは、昼ゼミ3年の横山です。いまだに正月ボケを引き摺り怠惰な生活を送っております…。
さて、私は前回の発表で「ひとつ」の副詞的用法について調べ、「一」という数字には特別な意味・用法があるということがわかったので、今回はそれに関連した論文を要約して紹介したいと思います。
林佩芬(2010)「数詞「一」からなる数量詞表現について―日本語と中国語との比較を中心に―」『多元文化』(10),p35-48
この論文では、数詞「一」に助数詞がついた数量詞表現について、日本語と中国語を比較し両者の機能の類似点および相違点を分析しています。なお、ここでは“一个”のような中国語の数量詞を「“一”+助数詞」、「一人」のような日本語の数量詞を「一+助数詞」とそれぞれ表記することとし、例(1)(2)のような表現を数詞「一」からなる数量詞表現と称しています。
(1) 他是一个好学生。
(2) ??彼は一人のよい学生です。
例(1)のように中国語では“一个”を付けることが可能であるのに対し、例(2)のように日本語では「一人(の)」を付けると不自然になります。先行研究では、これは中国語の名詞の特徴である「複数読み」に起因すると指摘されています。例えば「茶碗と皿がある。/有飯碗和碟子。」といった文の場合、日本語の無標識の名詞(「茶碗」と「皿」)は単数・複数いずれの解釈も可能ですが、一般的には単数と捉えられやすいのに対し、中国語では複数として捉えられる傾向にあるということです。しかし筆者は、中国語でも日本語と同様に単数・複数いずれの解釈で読むことも可能であり、どちらかを決めるには一般常識や文脈からの推測等、名詞の単数・複数読み以外の要因も考慮する必要があると述べています。そこで筆者は、数量詞の個体化機能に焦点を当て、様々な観点から「“一”+助数詞」と「一+助数詞」の数量詞表現を比較・検討し、両者の機能の類似点及び相違点を考察しています。
はじめに日中両言語における「数量詞の個体化機能」についてですが、中国語の数量詞には指示物の数量をカウントする「計数機能」以外に、大河内(1985)が指摘しているような、「“一”+助数詞」を付け加えることで類名や総称という抽象的・非加算的な事物を具体的・加算的な個別物に変える「個体化機能」があると述べています。これはヨーロッパ言語の不定冠詞にきわめて近いものです。これに対し日本語では、一般的に文脈などから数量が明らかである(例(1)のように「彼」はこの世に唯一の存在であり、数量は「一人」に決まっている)場合には、「一+助数詞」の計数機能が働いていないため不自然な文になります。
しかし、日本語でも、「一」を用いて「冠詞的(不定冠詞)な働き」をする場合があると加藤(2003)は述べています。
(3)ひとりの中年の日本人男性が緊張した面持ちで証人台にたった。(毛利恒之「地獄の虹」)
(4)京都の下鴨に一軒の寿司屋がある。(加藤2003:52)
上のような文の場合、「一+助数詞」は、計数機能としてよりも、名詞の存在を顕著な形で指し示す「個体化機能」としての役割を果たしていると考えられるのです。
このように「一+助数詞」と「“一”+助数詞」のいずれにおいても、計数機能とは別に個体化機能というものが日中両言語に共通して存在していると主張しています。しかしその個体化機能には相違がみられるといいます。
そこで次に、事物の存在という観点から類似点、相違点を考察しています。数量詞の付加が事物の存在と密接に関係しているというのが筆者の主張です。
例えば「ここには一つのフランス語の学校はない。」「このあたりに一つのフランス語を学ぶ学校はありますか?」などと、否定文や疑問文で、事物が存在しない、或いは確認できない場合に数量詞を付加すると不自然な表現となります。これについては日中両言語で共通しています。
ただし、「ここに{一本のペン/ペン}があります。」といった存在義を有する文と、「これは{??一本のペン/ペン}です。」といった存在義を有さないコピュラ文(「A(主語)はB(補語)である」つまりA=Bの形である名詞文)の場合では異なる場合があると指摘しています。中国語では存在義を有しているか否かに関係なく、個体化機能が顕著である場合には数量詞の付加が自然であるのに対し、日本語では存在義を有さないコピュラ文おいて、数量詞が事物の属性として捉えられない場合、数量詞は付加されにくいとしています。
筆者はこの考察結果から、中国語の数量詞は日本語の数量詞と比較して、より強い顕著性を有すると推測しています。
次に「聞き手に対する注意喚起の用法」という観点から考察をおこなっています。建石(2005)は、「仕事を終えて男が帰宅すると、郵便受に一枚のチラシが入っていた。」のように「一+助数詞」は聞き手に新情報を提示する、または談話主題を導入する手段としても用いられると指摘しています。この聞き手に注意を喚起させる用法は中国語の「“一”+助数詞」の表現にも存在します。
ただし、日本語の場合は初めて登場した事物のみに「一+助数詞」を用い、二度目以降にその事物が言及される場合には、通常「一+助数詞」の形は用いられないのに対し、中国語では、事物が初めて登場するものであるか否かに関わらず、新情報のような注意を引き起こす要素が名詞に付加されている場合は、「“一”+助数詞」が用いられるという違いがあることを、筆者は指摘しています。
最後に「情報の焦点」という観点からの考察です。筆者は、助数詞は描写的な性質を有しているため、数量詞(「一+助数詞」「“一”+助数詞」)が付加される名詞が情報の焦点になると述べています。例えば、「一名の選手」と「一介の選手」ではニュアンスが異なり、後者には貶す意味合いが含まれます。また、中国語の場合は、“一位老师”、“一个老师”はいずれも「一人の先生」の意味ですが、前者の方が相手を高める、丁寧な言い方だということです。助数詞の持つこの描写的な性質によって、それと修飾関係にある名詞が指示する事物をより描写性の強いものに換えるため、情報の焦点になりやすいと考察しています。
以上のように、数詞「一」からなる日中両言語の数量詞表現には相違点が存在するものの、両者に共通する数量詞の個体化機能は、事物の存在、聞き手に対する注意喚起、情報の焦点と密接な関係にあると筆者は結論づけています。
この論文を読み、同じ表現を中国語と日本語で比較することで、やはり「一+助数詞」には日本語特有の機能があるのだということが分かりました。このことについてもっと深く調査し、自分の研究につなげていきたいと思います。
引用文献
加藤美紀(2003)「もののかずをあらわす数詞の用法について」『日本語科学』13号,pp.33-57,国書刊行会
建石始(2005)「日本語の限定詞の機能―名詞の指示の観点から―」博士学位論文 神戸市外国語大学大学院外国語学研究科