逆接表現の拡張用法とその語用論的効果に関する構文文法的考察―ケドの終助詞的用法を例に―

 こんにちは。夜ゼミ3グループの阿部千尋です。初投稿で緊張してしまい、なかなか書き上げられませんでした。見づらいところもあるかもしれませんが、これから先2度、3度と投稿していく中で修正していきますので、今回はご容赦ください。

  さて、今日は以下の論文を紹介します。

 横森大輔(2005)「逆接表現の拡張用法とその語用論的効果に関する構文文法的考察―ケドの終助詞的用法を例に―」、『日本語用論学会第8回大会研究発表論文集』1巻、pp.137-144、日本語用論学会

  今日話し言葉において多用されるようになった逆接の接続助詞ケドの文末用法(以下、ケドの終助詞的用法)については、今までに様々な研究がされてきました。この論文では、従来の研究の問題点はケドの終助詞的用法の語用論的効果について様々な要素が混在した状態で分析・考察されている点であると指摘しています。

  (1)(息子について)学校でいじめられていなければいいけど。 (不安・疑問を暗示する)

  たとえば、(1)の例文は、水谷(2001)では「不安・疑問を暗示する」とされていますが、(1)が不安や疑問を暗示するのは、「息子は学校でいじめを受けていない」という、話し手にとって良い事態への期待を述べているという効果があるから、不安や疑問を暗示するという効果を「ケド」に与えるのであって、「ケド」による効果ではないというのです。この問題点を解決するために、著者はケドの終助詞的用法の語用論的効果を決定する要素として以下の3点をあげ、特に(2)について詳しく述べています。

   (2)[PケドΦ]という抽象的な形式に対応する意味

 (3)従属節Pの意味

 (4)当該の文脈・発話状況で発話すること事態ママの効果

 ケドの終助詞的用法を用いた文の意味は、(1)でも示した通り、接続助詞ケドそのものの意味にはよらないので、著者はケドの終助詞的用法を用いて作られる[PケドΦ]を1つの構文と仮定し、その構文の持つ語用論的効果を、ケドの使用に伴う構文[XケドY]の効果と、接続助詞での言いさしに伴う構文[P conj.Φ]の効果の二つの構文効果からなるものであるとし、[PケドΦ]の効果を(5)のように定義しました。

 (5)背景情報Pから予測されることに対し、前景情報である「発話の場において利用可能な何らかの情報」が逸脱的である。

 以下、(5)を定義するために用いた[XケドY]、[P conj.Φ]のそれぞれの構文効果についてまとめていきます。なお、「conj.(=conjugation)」は接続表現となる要素のことを示す記号として使用します。

 まず、[XケドY]の効果は、「P{ケド}、R。」というような文があった場合「PからQが予測/期待される{ケド}、実際にはRである。但し、実際の発話ではQは発話されることはない。」というように定義した渡部(1995)の説が支持されています。その上で著者は、以下に示した例文(6)(7)ように接続助詞ケドの効果は、認識の上もしくは文脈の上で聞き手が予想するであろうことからの逸脱を表わすものであるとし、[XケドY]の効果を「背景情報Xから予期されることに対し、前景情報Yが逸脱的である」というように示しました。

 (6)授業は厳しいけど、楽しい。 (認識の上での逸脱)

 (7)こんなこと訊くのもなんだけど、君ってロッテファン? (文脈の上での逸脱)

 次に、[P conj.Φ]の効果について著者は、話し手と聞き手が共通の情報を持っていることを前提として接続助詞で言いさすことでその情報を言外に引き出す効果を持っていると考え、[P conj.Φ]の効果を、「Pは、「発話の場において利用可能な何らかの情報」に対する背景情報としてはたらく」としました。

 この論文では、以上に示した[XケドY]と[P conj.Φ]の効果から[PケドΦ]がなるとすると、その効果は(5)のようになり、「[PケドΦ]という抽象的な形式に対する意味」が明らかになったと論じていますが、著者はこの論文だけでは具体的な語用論的効果を予測するには不十分であるとして、今後さらに(3)や(4)に言及していきたいとまとめています。

 この論文を読んで面白いと思ったことは、ケドの終助詞的な用法について考察する際にケドを単体で扱わず、構文[PケドΦ]として扱った点です。ケドの終助詞的用法に関して述べた論文で今まで私が読んできたものは、分類を目的としていたものが多かったため、どのようにしてケドの終助詞的用法が生まれたのかについてみてみようと思いました。その結果この論文にたどり着きましたが、ケドの終助詞的用法を前件と合わせて構文としてみる見方もあるのだということを知りました。ただ、この論文では、[XケドY]と[P conj.Φ]の二つの構文があるから、それを合わせると[PケドΦ]になるということしか書かれておらず、その根拠となるものが具体例をあげて述べられていなかったので、今は、考え方の一つとして理解しておこうと思います。また、この論文はケドの終助詞的用法の成立過程について言及した論文ではないので、成立過程について特に論じている論文を探していきたいと思います。

引用文献

・水谷信子(2001)『続日英比較 話しことばの文法』、くろしお出版

・渡部学(1995)「ケド類とノニ―逆接の接続助詞―」、宮島達夫・仁田義雄(編)『日本語類義表現の文法(下)複文・連文編』pp.557-564、くろしお出版

「要約レポート」で注意すべきポイント

1.最低限必要な情報

論文とは、著者の研究成果がまとめられている文章です。その研究内容を分かりやすく他者に報告することを念頭に置いて、要約を書く必要があります。要約する上で必要になる(盛り込んで欲しい)情報は、次のようなものです。

<1> その論文で論じるテーマ、もしくは扱う問題の説明(具体例を挙げて)
<2> 従来の研究が不十分/間違っているという根拠
<3> 従来の研究に代わる筆者の分析/主張(立脚する理論や分析手法の紹介も)
<4> 筆者の分析/主張を支える根拠/証拠/具体例
<5> それ以外に何か特筆すべきこと

要約レポート(書評など)を書く際には、できれば<1><2><3>は第一段落に書いてくれると分かりやすいです。第2段落以降は、<2><3><4><5>について詳細に紹介してくれればいいです。ただし、上記の内容が全ての論文に書いてあるとは限りません。無ければ書かなくて結構です。<5>については、例えば「筆者に主張に対して予想される反論を想定し、筆者がそれに先回りして答えている部分」かもしれませんし、「筆者の主張が言語理論全体に及ぼす影響について論じている部分」かもしれません。一概には決定できませんが、上記<1>~<4>のどれにも当てはまらないけど重要と思われるものについてもまとめて下さい。(要約者による批評でも構いませんが。)


2.自分の言葉で

論文中には難しい表現がよく使用されています。中には、表現自体が難しいというよりも、それ以前の問題として論文の中身が分からないという場合もあるでしょう。こういう場合によく行われるのが、本文の「切り貼り」です。自分の言葉を使わず、論文中の表現(つまり筆者の表現)の中から重要そうに見える部分だけを切り取って、それらをつなぎ合わせて文章を作るという手法です。

これは、現在の受験勉強重視型の学習がもたらした最大の弊害です。たとえ部分的とはいえ、著者の文章(=著者の思考が言語化されたもの)をそのまま書き写すことは、著者の思考を理解できていなくても出来る盗作であり、自分で思考することを極力避けようとする非生産的な行為です。そんなことばかりやっていれば、読解力/表現力の著しい低下を招くであろうことは火を見るより明らかです。「理解したふり」をするには最良の手法なのですが(だから大学受験テクニックとして多用される)、そんな「ふり」をいくらやっても、本当の理解に達することはありませんし、自分の実力が伸びることもありません。

さらに問題なのは、文章の全体像を掴む練習も出来ていないことです。受験勉強では、部分点を稼ぐためにキーワードを切り貼りしただけの文章が推奨されますが、そうやって作った切り貼り文章は、局所的には綺麗な文になっているのですが、全体を通して見ると繋がりの悪い不自然な文章になっているものが多く見られます。つまり、「木を見て森を見ず」になっているのです。もしくは、様々な人体部位を寄せ集めて作ったフランケン・シュタインのような文章といっても良いでしょう。このような文章作成ばかりやっていると、携帯メールのような短い文章しか書けない人間になってしまいます。

大学生の間に本物の実力を身につけたいのであれば、「なんだかよく分からないから、筆者の言葉をテキトーに切り貼りしとけばいいや」と考えるのではなく、「よく分からないままだと要約も書けないので、もっとよく理解できるように努力しよう」と正攻法で考えてください。そして、なるべく自分の言葉でまとめる癖をつけて下さい。受験で部分点を稼ぐための勉強法では、就職に必要な実力は身につきません。パソコンのことが分からなくて売り場の店員さんに質問した時に、パンフレットにも書いてある言葉と同じ説明がそのまま返ってきたら、客はどう思うでしょう? 自分が真に理解していなければ、相手に理解してもらうことも不可能なのです。



3.セクションの区切りに惑わされるな!

論文はどれもセクション(節)ごとに分かれていますが、その分け方に従って要約を書かなければいけないというルールはありません。長い文章であれば、セクションごとに区切ってないと読みにくいものになってしまいますが、要約のような短い文章では、区切る必要はありません。段落を改めるだけで十分です。(ただし、要約文を箇条書きにするのはやめてください。)

セクションを区切るのが、かえって危険なこともあります。というのも、自分で考える意欲と気力と能力のない人ほど、論文のセクションの区切りをそのまま要約の段落に流用してしまうからです。論文と同じ分け方で要約を書くということは、2節で触れたことと重複しますが、「訳も分からないまま、筆者の表現を流用すること」と同じです。筆者の書き方をそっくりそのまま真似るだけではいけません。何故そのような構成になっているのか自分で考えてみましょう。そして、自分の中で論文のストーリーを再構成してみましょう。(その際に役立つのが1節で挙げた5つの視点です。)

セクションを区切ってしまうと、「とりあえず、このセクションだけをまとめればいいや」という安心感が出てくるのも事実です。長い文章を要約するより、短く区切った方が要約はしやすくなります。しかし、それでは論文の全体を通しての流れみたいなものが感じられなくなってしまい、結果的に「でたらめに散乱しているパズルのピース」を見せられたような印象を受けます。例えばTVドラマ化されて有名になった『ドラゴン桜』を例にとって考えてみると分かりやすいでしょう。TVでは毎回45分のストーリーに区切られていましたが、それらのストーリーを1ずつ要約したものを全11話分並べても、『ドラゴン桜』の紹介にはならないのです。ではどうすればいいのか? Wikipedia(2007年5月2日現在)には以下のような紹介文が掲載されていました。

「元暴走族の三流弁護士・桜木建二(さくらぎ けんじ)が自分の業績を上げるため、破産管財人になった平均偏差値36、大学進学率2%の落ちこぼれ普通科高校、私立龍山高等学校を、このまま破産させるより毎年100人以上の東大合格者を出す日本一のエリート校に生まれ変わらせた方が、自分の名前を世に売り出すことが出来ると考え、取り組むストーリーである。桜木は学校の経営状態を良くするためには進学実績、それも東大の合格者数を上げるのが手っ取り早いと考え、落ちこぼれ生徒を東京大学に合格させるために特進クラスを開設。そこに以前から受験指導に大きな実績を上げつつも、いろいろな事情で表舞台から消えていた個性溢れる教師を集める。一方で元々同校に在籍していた教師に対しては大規模なリストラを実施したため、当然のごとく教師からは反発する声が挙がる。果たして建二の思惑通り、落ちこぼれは東大に合格し、同校は立ち直ることができるのか…?」

物語の紹介なので、さすがに結末(論文では結論に相当)は書いてくれていませんが、それ以外は非常に参考になりますよね。「なぜ弁護士の桜木が教師をやっているのか」、「桜木は何をしようとしているのか」、「それをするにあたり、どんな方法を採っているのか」、「それをするにあたり、どんな困難が生じるのか」など、ストーリー全体にかかわる内容がちゃんと盛り込まれています。各エピソードの紹介ではないのです。

これは論文でも同じで、局所的に要約してもあまり効果がありません。『ドラゴン桜』が全体を通して「大きなストーリー」になっているのと同様に、論文のストーリーをつかみ取ってください。(そのために、冒頭で挙げた5つの点を常に考えながら読みましょう!)


4.TVのスポーツ解説者になれ!

要約する人は、筆者と読者の間に立って、読者に解説しなければいけません。しかも、その本や論文を読んだことがない読者に対して説明するつもりで書かなければいけません。その意味では、スポーツ中継の解説者に似ています。野球の解説であれば、「ピッチャーが何故カーブを投げたのか」や、「どうしてこの場面で送りバントの指示が出たのか」などを視聴者に分かりやすく解説してくれますよね。同じように、「どうして筆者は、従来の分析が間違っていると考えるのか」、「どうして筆者は○○○理論を使って分析するのか」、「どうして筆者はこのセクションで視点を変えて考察しているのか」、「どうして筆者は○○の研究を引用したのか」など、筆者の意図を読者に解説してあげなければいけません。(私が授業で皆さんに解説しているように。) 本当に良い書き方がされている論文は、そのような筆者の意図がかならず論文中に書いてあります。全く書かれていないものは無いはずです。あるとすれば、それは論文ではなく小説でしょう。小説のような物語では、登場人物の意図を解説したりしません。(だって、それをいちいち言葉で解説してしまったら、読者が自由に解釈・想像する権利を奪うことになって、小説がつまらなくなってしまいましからね。)

小説(物語)の話が出たところで、ちょっと視点を変えてみましょう。先ほどの『ドラゴン桜』も物語なので、これを例にとって考えてみましょう。論文を要約するという作業は、『ドラゴン桜』を一度も見たことがない人にストーリーを教えてあげる作業に似ています。つまり、単なるエピソードの紹介を11回分やるのではなく、このドラマの背景となる知識(「なぜ弁護士の桜木が教師をやっているのか」、「桜木は何をしようとしているのか」、「それをするにあたり、どんな反発があったのか」、「結果的に、それは成功したのか」などの情報)を教えることが必要になります。「どうしてあの場面で直美(長澤まさみ)が怒ったのか?」と説明するためには、「彼女は主人公とは幼なじみで、密かに彼のことを想っている。でも主人公にはカノジョがいて、、、」という情報も必要になるでしょう。そのような背景は、内容を理解する上で必要不可欠な情報であり、それを知らないままストーリーを完全に理解するのは不可能なのです。

ストーリーを解説するわけですから、全体像を紹介することも忘れてはいけません。例えば、要約の冒頭で、「この論文は~~について考察しており、その原因は~~だと主張している。論文の構成は、まず○○の紹介があり、続いて3つの具体例を提示し、最後に~~の視点から~~との関連についてまとめている。以下、この流れに沿ってまとめる」といったまとめ方をすると、要約を読む人にとっては、非常に分かりやすい文章だと感じるでしょう。このとき、「以下、この流れに沿ってまとめる」という表現が重要な役割を果たします。これは、要約文がどういう構成になっているのかということを予告する表現であり、読者にとっての「道しるべ」となるからです。こういった表現があると、読者にとっては心の準備をすることができるので、より一層理解が進わけです。


5.主客の分離を!

最後になってしましましたが、これは私が一番強調したい点です。これは2~4節で述べたことと半分重複しますが、非常に重要な点です。これができるかどうかで、大人らしい文章になるかどうかがきまってしまうと言っても過言ではないでしょう。それは、筆者とは別の視点、つまり第三者の視点から要約を書くということです。例えば、論文中でよくこんな文を見かけます。それは、「~~~という視点から考察する」、「~~~について考えてみよう」、「~~~に他ならない」、「~~の理由は~~なのである」等々。これらの表現は、実際に考察した本人、つまり論文の著者が使用するのであれば問題ありません。しかし、これらの表現をそのままコピペして要約を書いてしまうと、まるで要約者が考察したような印象を与えてしまうので、決して要約では使用してはいけません。要約者は論文著者の考えたことを要約しているだけであり、自分で考察したり分析したりしたわけではないからです。

筆者の言葉をそのまま切り貼り(コピペ)するだけでは、まるで著者本人が要約したような文章になってしまうので、第三者(=要約者)の存在が消えてしまいます。これでは内容を客観的に読者へ伝えることが出来なくなります。論文著者とは違う、第三者が要約して読者へ報告しているというニュアンスをきちんと出すためには、次のような表現を使用して下さい。例えば、「筆者は~~の問題に対して、~~の視点から分析を行っている」とか、「従来の~~分析では不十分であるとし、代わりに~~という分析を提案している」、「~~を説明するために、~~の例が使用されている」、「~~を主張するために、3つの具体例が挙げられている」、「以上のような主張を行うにあたって、著者は3つの具体例を出している」等々。(ただし、全ての文をこうやって各必要はありません。あまり頻繁に使用し過ぎると、文体がワンパターンになってしまい、非常に不自然な文章になってしまいます。)

(論文要約サンプル2) 「言語使用者における動機のあり方について」

※以下のようやくレポートは、あくまでもサンプルとして掲載しているものです。
※要約は、本文の切り貼りではありません。他者に報告する文体を意識して下さい。
※この論文を選んだ動機や、自分の研究テーマにどう関係するかも書いて下さい。
※自分の意見も少し書いてみましょう。(2年生にはちょっと難しいかもしれませんが)
※抽象的な批判、論文の目的から逸れる批判は書かないで下さい。

—————————–以下、要約レポートのサンプル————————

こんにちは、夜ゼミ4年の○○です。昨日は夜ゼミの忘年会でした。明日は昼ゼミの忘年会ですね。肝臓と財布が危機的状況に陥る年末年始ですが、どうぞ皆さん健康には気をつけましょう。ところで、今日は以下の論文について簡単に報告したいと思います。

加藤重広(2002) 「言語使用者における動機のあり方について」 『富山大学人文学部紀要』第36号、pp.43-49.

この論文では、言語使用者が特定の表現を用いる動機にには色々あるのだけれども、大別するとそれらは主に「正の動機」と「負の動機」という2種類に分類できるということを指摘しています。前者は新たな表現形式を積極的に用いたいという動機であり、後者は旧来の表現形式を用いたくない(回避したい)という消極的な動機のことです。このことを確かめるため、加藤は表記、統語論、語用論の3つの側面から具体例を挙げ、この順で議論をしています。以下、この順に沿って簡単にまとめます。

まず表記の選択に関わる動機について、加藤は外来語を例にとって説明しています。外来語は「コーヒー」や「メロン」のようにカタカナで表記するのが一般的ですが、ひらがなで表記する場合もあります。この時、加藤はおおむね以下のような動機が存在しており、それらは「正の動機」か「負の動機」のいずれかであるとしています。

1) 通常の表記から逸脱したいという動機 (負の動機)
2) カタカナの持つ特殊な効果を避けたいという動機 (負の動機)
3) ひらがなの持つ効果を利用したいという動機 (正の動機)

ひらがなとカタカナのような二項対立の場合は、負の動機だけでも表記選択が一義的に決定されますが、さらに漢字も含めて三項対立として考えれば、「負の動機」が1つだけではどの表記を選択するか決定できず、さらに複雑になります。

次に、統語面における2つの動機についてですが、論文では「有名」と「無名」の例が挙げられています。「有名」は「有名な作家」ということからわかるように連体ナ形が用いられ、「*有名の作家」という用法は許容されません。しかし「無名」の場合は「無名の兵士たち」や「無名なタレント」のように、連体ナ形も連体ノ形も用いることができます。加藤は、ここでどちらの形式を選択するかは正と負の動機が関係していると考えています。ある種の評価軸を導入し、段階的な属性として見た場合が前者であり、不連続な評価で非段階的な属性として見ている場合は後者が選択されると一般に言われています。そのため、この二者はごく緩い二項対立が想定され、連続的に評価したいという「正の動機」と、非連続的に評価したくないという「負の動機」が表裏一体の関係になっていると加藤は述べています。(確かに、ナとノの選択ということになれば統語論の問題ですが、その選択は極めて意味論的な判断に基づいているため、この問題は同時に意味論の問題でもあると思います。)

最後は、語用論の領域における正負の動機について、「Xになります」という表現を取り上げて考察しています。本来、「Xです」や「Xでございます」という表現が選択されるべきところで、「Xになります」という表現が選択されるのは、正の動機の発動結果ではなく、負の動機がいくつか重なって一般化したものと見るべきだと指摘されています。例えば、「スパゲッティーです」は「そっけない感じがあり、やや丁寧さに欠ける」という負の動機が発動し、「スパゲッティーでございます」は「古めかしく、やや過剰な品位がある」ということで負の動機が発動するため、「Xになります」という表現が生き残ったのだろうと述べています。勿論、負の動機だけが働いている訳ではありません。「スパゲッティーになります」には「私が決めたのではなく、もうそういうことになっている」という責任を回避するニュアンスを伴うことから、これが正の動機としても機能しているとも指摘されています。

以上のように、加藤は様々な場面における表現選択の動機に正と負の2側面が関与していると指摘していますが、これは私の研究テーマである若者言葉についても非常に有用な考え方です。常に新しい表現が求められる若者言葉においては、新しいものを追い求める若者心理もあるのでしょうが、逆に、古いものはかっこ悪い(だから使いたくない)という心理も働いているはずです。これらは正と負の動機と密接に関係していることは間違いないと思いますので、この点に注意したいと思っています。

この論文の面白いところは、積極的な「正の動機」と消極的な「負の動機」という2分法だと思います。このような2分類は、Brown and Levinson (1987) の提唱したポライトネス理論でいうポジティブ・ポライトネスとネガティブ・ポライトネスの2分法と似ていて、興味深いものがあります。ポライトネス理論は、いわゆる語用論の分野に属するものですから、ここで論じられている2種類の動機も極めて語用論的な概念ものかもしれません。

そうすると、最初に挙げられていた表記の問題も、実は(最後に述べられていた)語用論的な問題と同じなのではないかと考えられます。「ひらがな/カタカナの持つ効果」とありましたが、その効果というのは語用論的な意味情報なのではないでしょうか。後半の「Xになります」の場合も、「「Xでございます」という表現が持つ効果を避けたい」や「「Xになります」という表現が持つ効果を利用したい」と言い換えても問題はないように思います。とすれば、中盤に挙がっていたナとノの選択も含め、意味論もしくは語用論的な要因としてまとめて考えることもできそうです。

引用文献

(論文要約サンプル1) 論文のタイトルをここに書く

  こんにちは。夜ゼミ@グループの@@@@です。最近ちょっと夜が寒くなってきましたね。今まで近所のコンビニにはTシャツと短パンで出かけていましたが、さすがにもうできなくなりました。

  ところで、今日は@@@@で読んだ以下の論文をレポートします。

  著者名(発行年) 「論文のタイトル」 『論文を収録している書籍、雑誌のタイトル』 ?巻?号、pp.??-??、出版社

  この論文では、以下の例文(1)や(2)のような~~~~について~~~~の観点から分析されています。~~~~というのは、一般的には~~~~のことなんですが、ここでは~~~~という意味で用いられています。

(1) ~~~~
(2) ~~~~

  ~~~~に関する先行研究としては、他にも吉田(1999)や鈴木(2003)などが挙げられています。しかし、~~~~は~~~~が不十分であり、~~~~については~~~~の点で間違っていると著者は指摘しています。

  そこで著者は、@@@@を@@@@の観点から分析し、@@@@@を以下のように@@つに分類しています。

分類1
@@@@@@@@で使用されるもの
例) 「@@@@@。」

分類2
@@@@@@@@@で使用されるもの
例) 「@@@@@@。」

分類3
@@@@@@の場合
例) 

  この論文で特に面白いのは、@@@@@@@@の観点から分析している点です。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@。

(以下、論文の内容を分かりやすく説明する。)
(最後に、本文中で引用した文献一覧を掲載する。)

引用文献一覧
吉田~~ 1999 「~~~~」 『~~~』 ~巻、~号、pp.XXーXX、~~出版
鈴木~~ 2003 『~~~~』 東京:~~出版