「~的」に関する考察

みなさまこんにちは、夜ゼミ2年の齋藤です。いよいよ春休みに突入いたしましたが、いかがお過ごしでしょうか。私齋藤は、自堕落な惰眠貪り生活を送りたいという思いと、せっかくの春休みを有意義に過ごしたいという思いに揺れております。おそらく前者の誘惑に負けると思いますが、やるべきことはしっかりやり、この論文レポートもしっかりと期日を守りたいと思います。(1月31日現在)

 

 さて、今回私が紹介する論文は靳園元(2012)「「~的」に関する一考察」(『北海道大学大学院文学研究科研究論集』(12), pp.235-248, 2012)です。この論文では本来、語の接尾辞として、次に続く名詞・助詞を連体修飾するものであった「~的」が、語だけでなく句や文に後続するようになり、さらには「~的な」の形を取り、文末表現として使われるようになったことを指摘しています。

 

(1)義務的に活動させる必要がありますね。

(2)黒は黒でもスウェードっていうのが「冬物」的なイメージにどうしてもなっちゃいますよね。

(3)私的にはそう思います。

(4)最初は「新人のくせに」的な感じでしたが、間違っているものは間違っている。

(5)もし、「そこに行くならこっちの方がいいんじゃない?」的な情報を頂ければ幸いです。

(6)「何あれ、ハイヒールハマってる的な?」

 

一気に6つも例文をあげてしまいましたが、変化の流れは(1)から(6)の順に進んだと主張しています。まず、「義務的」、「恣意的」など<漢語+「的」>の形で使われていた「~的」が(2)のように「冬物」など漢語ではない名詞や、「私」など人称名詞にまでつくようになりました。変化は進み、(4)、(5)のように句や名詞にまでつくようになり、いよいよ(6)では、言いさし文のように「的な」で文を終わらせるように変化を遂げているのです。靳(2012)では、(1)から(5)までの用法を接尾辞、(6)の用法を付加句と分類し、特に付加句としての用法を中心に、同じように文末で使われる「みたいな」と比較しながら「的な」の機能について分析をしています。この付加句「的な」ですが、靳(2012)では先行研究としていくつか論文を紹介しているものの、新しい表現のため、付加句や文末表現として「~的」を取り上げている論文がほぼないことを指摘しています。唯一「的な」、「みたいな」の意味機能に関連するものとして、加藤(2003)の「メタ的言及」を挙げています。この「メタ的言及」とは、要する「的な」の前接部分の要素が句であれ文であれ、名詞として扱われるようになるとしており、この作用が文末表現として使われるようになった起因ではないかと分析しています。

 さて、早速結論に移りますが、付加句「的な」は「メタ的言及」することによる凝縮、さらには言いさしの形で終わらせることによりぼかし表現としての機能を持っているとしています。文末に「的な」をつけることにより、それまで話していた部分を「的な」の前接部分として括ることができ、「メタ的言及」によって名詞、つまり語として捉えられるようになります。そうすることにより、事実上は完璧な文なのですが、長い文が語として一つにまとめられます。これを凝縮と靳(2012)では定めており、簡潔的な表現を使いたいという話し手の使用心理によってこの凝縮作用が使われていると分析しています。また「みたいな」のように断言しないことによるぼかし表現としても機能しているとしています。これは若者言葉に関する論文ではよく目にするかと思われますが、物事を断定しない曖昧な言い方をする表現であり、靳(2012)では日本独持のあいまいにして、相手を責めず、場の雰囲気を穏やかに保つための処世術として、これが日本人らしさであると述べております。

 以上この論文では、今まであまり研究されていなかった文末表現「的な」の機能についてまとめていました。この論文ではいわゆる少納言をデータベースとして取り扱っていたのですが、実際の会話文で研究したら、より面白い用例が見つかるのではないかと思いました。

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