こんにちは、昼ゼミ二年の田口です。2月の一週目は2月4日以外ゲレンデにいるというハードスケジュールを組んでしまったため、荷造りが大変です。
さて、今回わたしが紹介する論文は、龐 黔林(2004)『モダリティ形式としての「そうだ」について』です。モダリティ研究の先行研究において、様態の助動詞「そうだ」の位置づけが曖昧なため、新たに位置付けてみようという論旨です。「ようだ」「みたいだ」「らしい」といった表現は判断のモダリティとして認められていて、過去形のあとにも接続でき、対応する否定表現がありません。一方「そうだ」は過去の事柄に対する判断をあらわすことができず、さらには幾つかの否定形も持ちます。このような形式的な特徴からモダリティとして認められませんが、「そうだ」には、話し手の事柄に対する推測的判断を表す働きもあるので、モダリティとしての位置づけも考えなければならないと龐は述べています。
龐は、様態の「そうだ」の意味に影響する重要な要素は、話し手の心的態度であるとしています。そして、「そうだ」の意味分類として「状況把握」と「予想」を挙げています。前者は、話し手が単純にものの外への表れ(状態)を述べること、後者は、ものの外への表れに基づいて自分の推測的判断を述べることです。
(1) この金魚は死にそうだ。
(2) (自分の身体の調子について)腹がへって死にそうだ。
例文(1)は金魚の状態を見て「まもなく死ぬだろう」という事態を推測しているので「予想」、例文(2)は単純に自分がどんな状況かを述べただけであるので「状況把握」となります。しかし、宮崎(1993)では『「そうだ」は外観的な判断を表すため、判断の主体となる人物と判断の対象となる人物とは、必ず別人でなければならない。』と述べています。寺村(1984)は、これが「客観的な様態の表現を自分のことにいう誇張表現」としていますが、龐は寺村のいうような特殊な用法ではなく、「状態把握」にまとめています。
また龐は、「そうだ」は主観性と客観性をあわせ持つとしています。
(3)(花瓶がテーブルの端からはみ出ているのを見て)花瓶が落ちそうだ。
この例文(3)では、二つの解釈が考えられます。というのも、話し手が、ただ花瓶がテーブルからはみ出ている状態を述べているのだとしたら「状態把握」だし、眼前の状態により花瓶が落ちることを推測して述べているのだとしたら「予測」に分類されます。つまり、話し手が現実の事柄をどう把握するのかという心的態度によって、「そうだ」が「状況把握」を表すのか「予測」を表すのかが決まるのです。
「状況把握」の意味の時、「そうだ」は客観性を帯び、「予測」の意味の時主観性を帯びますが、このように話し手の心的態度を考えないといけないため、意味分類が難しいのです。
最後に、龐は、「そうだ」を簡単にモダリティ形式から排除すべきでもないが、単純にある特定のモダリティ形式を表す形式とみることもできない。「そうだ」は「状況把握」と「予想」という基本的意味により二種類のモダリティを表すことができる。また、この二つの意味を持っているということは、主観性と客観性が相連続していることのあらわれであると述べています。
論文を読んでいて、最初は龐が示している例文(1)と(2)は、「状況把握」と「予測」のどちらとも取れるのではないかと考えながら読んでいました。「この金魚は死にそうだ。」というのは、単に状況を述べているだけともとれるし、目の前の金魚の受胎を見て、死にそうだと推測しているとも考えられたからです。しかし、論文を読み進めていくと、「そうだ」には主観性と客観性をあわせ持っているという記述が出てきたので納得しました。その時の話者の心的態度を読み取らないと意味分類は難しいのです。前後の文脈を踏まえないとどちらのモダリティか判断できないので、龐が挙げている例文では短すぎると感じました。