日本人の言語感覚

こんにちは。夜ゼミ2年の澤井です。先日、『ONE PIECE』という漫画の100巻が発売されました。私は『ONE PIECE』がとても好きなのですが、作者の尾田栄一郎によるとあと5年で終える予定とのことです。読者としては、20年以上積み上げたすべての伏線を回収して物語を終えるのは5年以内に間に合わないのではないかと思っています。

浅田 孝紀(1992)「「言語感覚」の概念に関する一考察」『人文科教育研究』第19号、101―110

本論文では、「言語感覚」という用語について先行研究を継承しながら、概念や規定をとらえなおすというのが目的とされている。

従来の概念規定

「言語感覚」には二通りの解釈があるようで,一つは「言語についての感覚」すなわち「言語に関して人間が持っている感覚」,もう一つは「言語自体の感覚」すなわち「言語そのものに付随している感覚」ということである。

そして筆者が先行研究から問題として挙げた箇所は以下の3つだ。

①「言語感覚」における「判断」と「評価」

→表現する場合でも理解する場合でも,ある具体的な言語表現に関し、何らかの「認識」また、「感得」をすることが「言語感覚」の働きとして重要なものであると考えられる。

②「能力」としての「言語感覚」

→a.いにしえの奈良の都を思う。

 b.の奈良の都を思う。

aとbの2つの文を比べた時,ある人がaをbより美しいと感じたとする。aの文だけを見て美しいと感じた場合,表面的には1つの表現を見ているだけであるが,実際にはbのような表現との比較が,意識的にせよ無意識的にせよ行われていると見られる。身につけているものがなければ美醜を感じることはできないはずである。このような観点からすれば,「言語感覚」を「能力」と見ることは十分可能である。

③「言語感覚」によって感じる「何か」とは

→「正邪」、「当否」、「美醜(ニュアンス)」について表現また、理解される個別的な言表と、通常の杜会言語体系との間の差異を認識や感得するということがあるわけであるが、それに加えて,個別的な言表相互の差異を認識乃至感得するということをも加える必要性が出てくる。

以上の分析から、言語主体が言語を表現・理解する際,表現・理解される個別的な言表と,その言語主体が属する集団における通常の社会言語体系との間の差異や、個別的な言表相互の差異を,認識・感得する能力と規定した。

自分の意見としては人によって異なる感覚を一概に規定するのは難しいのではないかと思う。しかし、人が言語への意識をどこに向けているのかというのは調査対象として面白いと思う。

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