こんにちは。昼ゼミ3年の小川です。もうすぐ2月ですね。つまり私がAKB48のたかみなとしてサークルの合宿で「ヘビーローテーション」を踊ってから早1年。一刻も早く記憶から消去したいものです。
それでは、以下の論文の報告をしたいと思います。
三宅知宏 「モダリティとポライトネス」 『言語』大修館書店 28号 pp.64-69
この論文の論点は「モダリティ」と「ポライトネス」の接点を探る、です。モダリティとは命題に対する心的態度を表すもので、意味論で扱われます。一方で、ポライトネスは、丁寧さなどの対人関係的修辞、またはコミュニケーションにおける方略に関わるもので、語用論において扱われます。つまり、この2つは異なるレベルにある概念で、これまでその関係性が論じられることはほとんどありませんでした。三宅は、日本語の質問表現「ダロウカ」をとりあげて、両者のどこに接点があるのかを論じています。
まず、筆者は日本語のモダリティ研究において盛んに議論の対象となってきた「ダロウ」を考察し、「不定推量」という用法が「弱い質問」と「丁寧さの加わった質問」という用法に拡張されることを指摘しています。
ダロウの最も基本的な意味は、「命題を想像の世界において認識することを表す」というものです。ダロウが平叙文に現れる場合は、「命題が確定的である、命題が真であると、想像の世界で認識する」という意味になります。例えば、「雨が降るダロウ」と言ったら、「雨が降る」ことが真である、と認識していると言っても、それは想像の世界での認識で、実際に雨が降るかはわからない、ということが表現されます。これを「推量」と呼びます。
また、ダロウが疑問文に生起した場合は「命題が不確定である、命題の真偽が定められないと、想像の世界において認識する」という意味になります。これを「不定推量」と呼びます。
(1) 明日は雨が降るダロウカ
これは、独り言や心内発話で自然に用いられることなどから、疑問表現ではなくあくまでも話し手の認識を表すモダリティだ、と三宅は主張しています。
そしてこの「不定推量」が、「弱い質問」と「丁寧さの加わった質問」という2つの用法に拡張します。まず、「弱い質問」からみてみましょう。
次の例文は、聞き手もまだその映画を観ていないことが明らかな状態での発話です。
(2) A 今度上映される「タイタニック2」って映画、おもしろいか?/ですか?
B 今度上映される「タイタニック2」って映画、おもしろいダロウカ?/デショウカ?
Aは、聞き手が話し手に返答できないことが明らかなので、不適切な表現です。一方、Bのダロウカによる質問文は自然で、Aとは異なった表現効果を持っていることがわかります。それは、確定的ではなくてもなにかしら関与性がある情報を要求する、というものです。つまり、Bに対する返答は、「あの監督ならきっとおもしろいんじゃない」などの予想を含んだ不確定なものでもよいのです。聞き手に明確な返答を要求しないことから、三宅はこれを「弱い質問」と呼んでいます。ダロウカが本質的に聞き手への質問性を持っていないということは先述の通りです。しかし対話で用いられると、聞き手になんらかの応答を要求してしまいます。このことから三宅は、「弱い質問」は不定推量から拡張した用法である、としています。
次に「丁寧さの加わった質問」です。
(3) A どちら様ですか?
B どちら様デショウカ?
AとBに意味的な違いはありませんが、Bの方が丁寧に感じられます。Bでは、ダロウカを使って、質問性は表わさず不確定性だけを表しています。つまり、聞き手に間接的な要求を行っているのです。間接的に表現することが丁寧さの表出につながるということはよく知られています。「丁寧さの加わった質問」とは、このような原理により不定推量から拡張した用法である、と三宅は言います。このような発話の間接性という観点は、ポライトネスに関する理論と関わりを持ちます。間接性が大きくなるほど、丁寧さが高くなる、ということです。
モダリティは、文の意味を最終的に決定するという性格上、「発話文」の表現効果の入力となるものです。そのためモダリティの分析は、ポライトネス等の対話における表現効果の分析とも関係を持つことになる、というのが筆者の主張です。
助動詞「よ」と「ね」の用法を研究していく中で、モダリティにも関係が深いということで、この論文を読んでみました。「よ」や「ね」は聞き手が心的態度を表す表現形式としての特徴が強く、それによる丁寧さとの関わりについて論じられていることはあまりないことに気がつきました。(私がまだ読んでいないだけ、という可能性もあるので探してみようと思います。)しかし、目上の人に対して「よ」を使うのが適切でない場合があることから、「よ」や「ね」をポライトネスという観点から考察することもできるのではないでしょうか。