日付が変わってしまいました。期限内に提出出来ず、申し訳ございません。
こんばんは。昼ゼミ3年の早川美華です。
相変わらず寒いですね。通学に使っている路線の沿線に、一週間ほど前に降った雪が未だに残っている場所があって驚きました。
我が家周辺では次の日にはもう雪がなかったんですが……私が知らない間にまた降雪してたりするんでしょうか?
さて、今回はこちらの論文を要約しました。
熊谷智子(2011)「敬語のイメージの世代差―大学生の「です・ます」への意識を中心に―」『待遇コミュニケーション研究』 pp.17-32
まずこの論文は熊谷(2007)でコミュニケーション言語に関する面接調査を行った際のことを引用している。
ある女子大学生が自分の母親からの携帯メールについて「お母さん、最初、敬語しか使えなかったんですよ」と述べた。
そのときに女子大学生が例として挙げた文面が「ご飯、いるんですか?」「わかりました」といったものである。つまり、女子大生は「です・ます」の使用を指して「敬語」と言った、というものだ。
筆者はこれに対し、確かに「です・ます」は丁寧語であり、敬語である。しかし、「ご飯、いるんですか?」を敬語の発話と呼ぶ感覚は、果たして全ての年齢層に共通であろうか。という問いを持った。
この問いを出発点とし、熊谷(2011)では大学生を中心とする若年層に近年見られる「です・ます」への意識に着目し、それをもとに、敬語のイメージあるいは同じ言語形式に対する待遇度意識の世代差を生む要因について考察している。
1.調査
国立国語研究所が1953年、1972年、2008年の3回にわたり、愛知県岡崎市において行っている敬語と敬語意識に関する調査、それに使用されている例文と同じものを用いて筆者が2009年と2010年に行った東京の大学生に対する調査、また文化庁の「国語に関する世論調査」の結果の3つの調査をもとに考察している。
まず、国立国語研究所が使用した例文は以下のものである。
(1)あの人は駅へ行かれた
(2)一つお持ち下さい
(3)きょうはお野菜が安い
(4)ここにあります
(5)これはいただいたものだ
(6)知事のお車はもう駅を出発した
これらの例文から、どれが敬語であるか選択する調査である。
一方、「国語に関する世論調査」では、
(7)私は野菜を食べます
(8)お茶を飲みましょう
というような10個の例文をあげ、それが敬語であるかどうかを問う調査である。
第一次~第三次岡崎調査の結果では、敬語の種類によって指摘率やその経年的な変化に違いがあった。「行かれる」「お持ち下さい」「いただいた」などの尊敬や謙譲の形式は調査ごとに指摘率が伸びる傾向にあった一方、尊敬語や美化語の「お」は指摘率が下がっていた。
「です・ます」の敬語とされる率は岡崎調査でも「世論調査」でも低く、この指摘率の低さは「です・ます」がそれだけ文末形式として日常的に広く用いられ、敬語としての印象が非常に希薄になっている可能性を強く示唆している、と熊谷(2011)は述べている。
2.大学生の「敬語」への意識
以前筆者が参加した研究で、秋田、東京、大阪の大学生計88人を対象として面接調査を行い、日頃のことばの使い分けについて話を聞いた際の事例を取り上げ、論じている。
前述した母親の携帯メールについての発言は、「ご飯、いるんですか?」を「敬語」と言及していることから、「です・ます」のみの(尊敬語や謙譲語のない)形式を敬語として認識していることを示す事例であった。大学生への面接調査で得られた発言の中には、「です・ます」の発話形式を「敬語」で言い換える、あるいはその逆のパターンが少なからず見られた。彼らにとって、敬語というときにはまず、尊敬語や謙譲語よりも「です・ます」使用を典型的にイメージしていたと熊谷()は考えている。
しかし、だからといって、「です・ます」を敬語のすべてだと思っているわけではない。さらに「丁寧な」敬語形式との対比も意識しているのである。
(1)やっぱり、塾での保護者の対応ですね。<中略>その、丁寧語じゃなしに、尊敬語であれ、謙譲語であれ、ちょっと、もう1個レベルの上がったやつを使おうと(うん、)しますね。
こういった発言からうかがえるのは、敬語の中にも異なるレベルがあり、「です・ます」は尊敬語や謙譲語や「ございます」などと比較するとレベルの低い敬語であるという認識である。このような敬語の種類間のレベル差に関する意識は中高年層も同じと考えられる。
しかし、大学生はまだ社会人ほどに日常生活の中で多様な敬語形式と接する機会がなく、多くの大学生にとっての敬語は「丁寧でない形=タメ口」とそれに対する「丁寧な形=です・ます」がレパートリーの主たる構成要素となっているようだと熊谷(2011)は述べる。
3.考察
実際に用いることばにおいて「です・ます」が丁寧さの代表とも言うべき話者にとっては、「です・ます」を敬語とするのは自然なことである。また、さらに丁寧な形式として尊敬語や謙譲語、「ございます」などもレパートリーに含む社会人の年齢層にとっては、「です・ます」は相対的に丁寧さの印象が低くなるはずである。そして、「丁寧な形=尊敬語、謙譲語、ございます」と「くだけた/ぞんざいな形=タメ口(普通体)」の中間にあって、「です・ます」のみを使用する形式が「普通の(特に丁寧でもくだけてもいない)形」と位置づけられているとすれば、中高年層にとって「です・ます」が空気のように無色透明な、とりたてて敬語とはイメージされにくい形式であることも理解できる。こうしたことから熊谷(2011)は、若年層は「です・ます」を敬語と指摘する率が高く、中高年層では低いという差が生まれてきていると述べている。
4.おわりに
熊谷(2011)は「です・ます」を「特に丁寧でもくだけてもいない形」とし、「丁寧な形」と「くだけた形」の中間に存在するものだとしました。
敬語という広いくくりの中にも丁寧さの階級があり、場面に応じて使い分けているのです。
これは、私の研究している「っす」にも繋がる部分があるのではないかと考えました。
「特に丁寧でもくだけてもいない形」であったはずの「です・ます」が次第に丁寧で堅苦しい表現であるように思われるようになり、「特に丁寧でもくだけてもいない形」と「くだけた形」の中間に存在する形で「っす」という表現が使われるようになったと思われます。
では、その「です・ます」に対する意識の変容はどうして起こったのかということにも興味を持ちました。
参考文献:熊谷智子(2007)「『敬語』をどうとらえるか」『社会言語科学会第20回大会発表論文集』 pp.288-289