会話に見られる「なんか」の機能拡張

 こんにちは、夜ゼミ2年の栗田です。受験シーズン目前のうえ、人が足りていないせいなのか、バイトのあまりの社畜っぷりに、ここにきてバイトを変えようか考え始めている今日この頃です。

 さて、今し方他の方々の要約を拝見して見たら重複するテーマになってしまいましたが、自分の口癖で気になっていたこともあるので、以下の論文を紹介したいと思います。

福原裕一(2009) 「会話に見られる「なんか」の機能拡張―フェイス・ワークの観点から―」 『国際文化研究』 15号、pp.181-195、東北大学国際文化学会

 この論文では、若者が多用する「なんか」の用法を、フェイス・ワークの理論の視点から考察し、若者が使う「なんか」の用法は、文法化によって意味拡張した、と主張している。フェイスとは、お互い、相手にこう思われたいというイメージのことで、フェイス・ワークは特に聞き手のフェイスを重んじるポライトネス理論である、と福原は説明している。その際、フェイス・ワークの枠組みを、Brown and Levinson(1987)のPositive Face(PF)とNegative Face(NF)の概念から、以下のように再定義した。

 PFの【肯定的特徴】:理解されたい、仲間になりたい(以下:【PF+】)
 PFの【否定的特徴】:非難されたくない、嫌われたくない(以下:【PF-】)
 NFの【肯定的特徴】:自由でいたい、独立していたい(以下:【NF+】)
 NFの【否定的特徴】:束縛されたくない、押し付けられたくない(以下:【NF-】)

例えば以下の例での、

 (1)a「俺の財布盗ったのおまえだろ」
   b「だから俺じゃないって、何度も言ってるじゃん」  (作例)

(1)のbの言うことが本当であったら、相手のフェイスを脅かしてでも、自分の意見を理解してもらおうと、自分のフェイスを守ろうとする。この場合、ポライトネスの考え方では扱うことはできないが、筆者は相手のフェイスをつぶす行為も一種のフェイスと考え、今回の論文で扱っている。また次の例の、

(2)「田中君とか、女の子と付き合ったことないでしょ?」  (作例)

では、相手のフェイスを傷付ける発話行為(Face Threatening Act、FTA)に際して、「とか」という言葉を入れて、「でも付き合ったことがないのはあなただけではない」とFTAの度合いを緩和しているものである。これは、聞き手の「嫌われたくない」というPF-を侵害する代わりに、「仲間が欲しい、理解されたい」というPF+に配慮しているものである、と言っている。このように、おなじPFでも様々な側面を持つことを指摘している。

 次に、福原は「なんか」を、いくつかの先行研究を参考に、品詞ごとに分類している。(田窪・金水1997、鈴木2000、内田2001、メイナード2001など)

 ①不定代名詞の「なんか」
 (3)F4W0052:F1T004はさぁ、やりたいことほんとにないの?
   F1T004:%%ないっていうか- -見つからない。
   F4W005:今はね。
   F1T004:あたしは- -まぁ甘えなんですけどできれば今のままでいたいと思っています。
   F4W005:あのさ- -具体的じゃなくていいしさ- –
   F1T004:はい。
   F4W005:何バカじゃないの?って思われてもいいから、なんかないの?
   F1T004:国家資格を取りたいなって思っています。    (2005年3月21日放送)

 (3)の例のように、「未知の物事」「不特定の物事」や「はっきりしない物事」を指示するとしている。

 ②副助詞、とりたて詞の「なんか」

 (4)山下君と鈴木さんなんかと一緒に行こうと思ってるんだ。  (作例)
 (5)羨ましいね。ぼくなんか、とうに卒業してしまった。      (沼田1986)
 (6)お前なんか相手にしていたら、牛川の名がなくぜ。      (沼田1986)

 副助詞・とりたて詞の「なんか」は、先行する名詞句に「一例であることを示す」「対比させて強調する」「価値の低いものであることを示す」意味を添加するものとしている。また、とりたて詞の「なんか」は、(ⅰ)例示・同類、(ⅱ)叙述の弱め・和らげ、(ⅲ)話し手の評価を暗示する、という用法を持つとしている。

 ③副詞の「なんか」
 「なんか匂う」「なんか寂しそう」などというように、副詞の「なんか」は漠然と感じられるが特定できないものがあることを表す、としている。

 そして、福原は文法化の過程における「意味の漂白」の観点から考察して、

 ①不定代名詞 「不特定な指示」「他の可能性の示唆」
    ↓
 ②とりたて詞(ⅰ)例示 「他の可能性を示唆」
    ↓
 ②とりたて詞(ⅱ)叙述の和らげ 形式上「他の可能性を示唆」
    ↓
 ②とりたて詞(ⅲ)話し手の評価 「価値の低い(時に高い)ものの例示」

と、意味が拡張したと考察している。また、③副詞は、①の「不特定な指示」の拡張だと、述べている。

 また、「なんか」の談話調整機能として、鈴木、田窪・金水が取り上げた「言いたいことが頭に浮かんでいるにもかかわらず適切な言葉がすぐに出てこない時などに見られるつなぎ言葉(filler)」をあげ、発話権を獲得・保持する場面でも使用されると指摘している。また、

 (7)話題:就職先選び
   084G:なんかやっぱ、ね化粧品メーカーって、楽しそうだよね、
   085:普通のとこより。
086H:うーん。
088H:(089Gと同時)なんか自分の興味が、かなり
089G:(089Hと同時)なんか、そー
090:なんかさ、いっこ下前バイトで一緒だった子大坂の薬学で、  (鈴木2000:74)

(11)の例のように、先行する話し手の発話と重なる場合が多く、相手の発話に重ねるよう、この「なんか」を発話することにより、発話権を確保し次の言葉を準備する余裕を作り出している、という鈴木の指摘も取り上げている。また、このような用法は最近確認された用法で、若者の特有の用法であるとしている。

 以上から、福原は文頭で使用される「なんか」をフィラーとして扱い、フェイス・ワークの視点から、話し手と聞き手双方のフェイスがどのように保持されているのかを着目して、「なんか」の分類を行った。

 (ⅰ)フィラー(1):「今、適切な言葉を探している」ことを示す
    a. とりあえず「なんか」と発話することで、今ある自分の発話権を保持する。
    b. 聞き手の注意を自分に喚起すると同時に、聞き手に発話権を奪われない ようにするための、話し手      の【PF+】保持機能。
   例:「あたしは自分はななんか、なんか、その、なんか、それを言われた時は…」
 (ⅱ)フィラー(2):新たに発話権を獲得することの前置き
    a. 直前の話題との関連性が保たれている場合→発話権獲得
      直前の話題との関連性が保たれてない場合→新しい話題の導入
    b.  これからの発話権獲得・新しい話題の展開を聞き手に喚起するための、話し手の【PF+】保持機能と       なり、聞き手の【NF-】を侵害することもある。話し手が沈黙を回避する際に使用することもある。この場      合は、聞き手の【PF+】保持となる。
    例:(直前の発話と重なる形で「なんか」を発話)「なんかあたし、そのまま付き合ったこととか何回かあった       んだけど」(発話権獲得)
    例:a (bの沈黙の後)「なんか、俺が思うに、bはランキングが自分にとって本当に必要なものを選ぶのを         邪魔してるってことじゃないの?」
       b 「あ、はい。そういうことです」(聞き手に助け舟を出す)
 (ⅲ)フィラー(3):相手の発話を引用し、それに対する自分の評価を示す
   a. 展開されている話題や聞き手、または第三者の発話を引用し、それに対す る話し手の評価や態度を      示す。
b. 前置きとして「なんか」を発話することで、形式上引用する内容が「不確か」であることをメタ言語表示す
     る。「不確か」を示すことにより発話責任を回避し、話し手の【PF-】保持機能を持つ。同時に評価の根拠
     が不確かなため、話し手の評価は正しくない可能性を示唆するための、聞き手の【PF+】保持機能を持
     つ。
   例:「M1K001 きみはさーさっきなんか学歴とりゃいいと思ってるやつは?…だめだみたいなこと言ってた       けど…」

 そして、フィラー(1)と(2)は、③副詞の「なんか」の拡張であるとし、「不特定な指示」や「他の可能性の示唆」の意味が完全に消失しており、発話権の保持や獲得に関する機能に特化したと主張している。また、フィラー(3)は②とりたて詞からの拡張であるとし、相手の発話を引用し、それに対する自分の評価を示しているとしている。
 最後に、フィラー(1)と(2)の、「不特定な指示」の意味が完全に消失したという主張は正しいのか、発話権の獲得であっても、まだ「漠然とした何か」を指す意味は残っているのではないかと、疑問に思いました。

以上になります。来学期に皆様に会えることを楽しみにしています。

出会いのあいさつ言葉におけるコードと機能の変化

こんばんは。試験期間目前に所属している部が廃部寸前の事態に陥り、師範・OBの先輩方に振り回されテストどころじゃない夜ゼミ2年の有瀧です。家にもあまり戻れず、ストーブの暖かさやベッドの寝心地の良さなど日常の何気ないものの有難味を今とても感じています。とりあえず体を横たえて寝たいです。

さて、自分は後期、社会言語学について勉強していました。その中でも自分はあいさつの機能やコードの変化について興味を持ちました。この論文もそんな中で見つけたものの一つです。
以下論文の要約です。

倉持益子(2010)「出会いのあいさつ言葉におけるコードと機能の変化」『言語と交流』第13号pp.28-37.

日本語で、人と出会ったときに交わすあいさつは朝なら「おはようございます」、昼間なら「こんにちは」だろう。この二つのあいさつには「おはよう」から派生したおはよう系あいさつと、「こんにちは」から派生したこんにちは系あいさつがある。以下はその二つの系統のあいさつに見られたバリエーションである。

「おはよう」系:おはようございます・おはよう・おはー!

「こんにちは」系:こんにちは・こんちは・こんにちわっす・こんちわっす・ちわ・ちわっす・ちわーす・ちゃす・ちーす・ちっす 等

このことから「こんにちは」系あいさつが「おはよう」系あいさつよりバリエーションを多く持つということは明らかである。
では、なぜ「こんにちは」系あいさつは多様な派生コードを持つようになったのだろうか。

私立大学の一年生を対象にキャンパスにおける午後のあいさつの種類を調査した。
結果は全体的に目上の人に対しては「こんにちは」系が圧倒的に使用され、一方で友人・同級生に対してはその他(よっ、おう等)が目立つが「こんにちは」系の使用は少ない。
これは「こんにちは」というあいさつが出会いを表すコードのため、メッセージ性が感じられなく、親しさを強化する必要がない「ソト」の人に対して使うあいさつだからだと考えられる。

「こんにちは」系あいさつに込める気持ちを比較してみると、指導者には親しみよりも敬意を込めている。敬意は相手と適当な距離を保ち、丁寧でへりくだった態度を表すネガティブポライトネスストラテジーである。指導者に対してはネガティブポライトネスとして「こんにちは」系を使用していると言える。
一方、教師・先輩に対しては敬意と親しみのバランスはさほど変わりはない。敬意を表しつつ、少々くだけた言い方のポジティブポライトネスストラテジーを用いて親しさを感じさせようとする意図が見られる。

「こんにちは」系あいさつが敬意・親しみを表すためにどのようにファティック化(コミュニケーション上の不具合、メッセージ性の弱さなどを解消する目的で形を変えること)を進行させたのだろうか。

①「こんにちは」から「こんちは」「ちは」へ
多少くだけた言い方でも受け入れてくれるだろうという親しみの強化。

②「こんにちは」から「こんにちわっす」へ
新敬語「す」を付けることにより親しさと同時に敬意を表す。

③「こんにちわっす」から「ちわっす」へ
敬意と同時に表す親しさの強化。

④「ちわっす」から「ちゃーす」へ
敬意も表せ、仲間意識を表す機能が強いため、普通の友人関係にも使用される。

⑤「ちゃーす」から「ちーす」へ
敬意はなくなり、友人間の軽いあいさつになる。

このようにファティック化が進行することによって語に備わっていた制限に風穴を開け、新たな機能も加えることができようになったのである。

「こんにちは」が多様な派生語を持つようになったのはメッセージ性に乏しくよそよそしさが出やすいが、午後の出会いのあいさつとしては一番妥当であるため「こんにちは」に敬意と親しさを付加させようとコードが変化したからだと考えられる。

以上です。寒い日が続きますが皆さん風邪には気をつけてお過ごしください。
ありがとうございました。

バリエーション研究

こんばんは、テストはあらかた終わったのにインフルが終わらない夜ゼミ2年の平村です。書き間違わないように気をつけたいと思います。

今回私が要約した論文は、『日本語学』より高野照司(2011)「バリエーション研究の新たな展開」です。
卒論では方言研究を調べていこうと思うのでその足掛かりになればということでこの論文を選びました。以下要約です。

この論文ではウィリアム・ラハブがもたらした研究成果を土台とした「バリエーション理論」について、その進化のプロセスを三期(三つの波)にわけることでその歴史を説明し、言葉のバリエーション研究がもたらしえる言語研究の新たな可能性について考察している。

第一の波:言語運用に潜む秩序の発見

ここではニューヨーク市英語における母音直後の(r)の発音における社会階層とスタイルの規則的相関から、そこに「社会的次元」から発生する「規則性」を示し、言葉の変化はその性質上「上からの変化」と「下からの変化」に分類できることを提唱した。

「上からの変化」とは話者自身が言葉の変化が進んでいくことを察知している場合のへんかであり、この変化は先進国において強く推し進められる傾向にある。

一方で、「下からの変化」とは社会的評価がいまだ与えられていない新しい変化であり社会の中間的社会階層が牽引役になりやすい。

第二の波:集団から個へ~質的視点の融合~

ここでは言語人類学や社会心理学といった隣接分野からの知見を利用しながら言語知識固有の要素としての「社会的次元」の定義や解釈をめぐる問題について述べている。

これまでのバリエーション研究では「話者属性」を画一的に定め、個々の話者を特定の社会集団に振り分ける方法が主流だったため、特定社会集団が示す揺れのパターンから逸脱する話者や不変的法則に適合しない話者といった「個人差」をないがしろにし、バリエーションの実態を単純化してしまっていた。

こうした事態を避けるため、質的視点を計量的分析に融合しようとするアプローチが唱えられ、これに関連して、話者属性「性別」を巡る議論も活発化し、社会的に構築される動的な概念として「性」の再解釈が唱えられた。

第三の波:バリエーションが投影する社会的意味の探究

近年のバリエーション研究では言葉の主体である話者の社会生活や心理面など社会的次元への質的洞察を加えることで計量的分析から特定されるバリエーションの持つ「社会的意味」へと進展を見せており、さまざまな実生活要因が複合的に絡み合う動的な社会構築概念として再解釈が行われている。

急速なグローバル化が進む今日の日本社会において地方方言の共通語化は極めて自然な成り行きではあるが、しかしその一方で地域の固有性や土着性を誇示・主張するイデオロギーの芽生えやそれと密接にかかわる地域方言の保持といった地域復興についてはいままでのバリエーション研究では行われてこなかったものである。

筆者は今後の研究課題として方言使用意識や実際の言語運用におけるローカリズムの現れ、それと相乗的にある地方方言保持の可能性について追及するとしている。

曖昧表現「まあ」について

こんにちは。冬休み気分の抜けないまま春休みを迎えようとしています。昼ゼミ2年吉田です。
さて、今回は曖昧表現のひとつと考える「まあ」について以下の論文を要約しました。

冨樫純一(2002)『談話標識「まあ」について』(筑波日本語研究 (7), 15-31)

この論文では、「まあ」の用法を観察し、その機能を話し手の心内の情報処理の観点から記述していく。

1.先行研究
 「まあ」を扱った論考としては、川上(1993,1994)などがある。川上は実例による分析から「まあ」を、発話冒頭に現れる場合と発話中の文頭・文中に現れる場合とに分け、前者を「応答型用法」、後者を「展開型用法」と位置付けている。そして、「まあ」の基本機能を、「いろいろ問題はあるにしても、ここではひとまず大まかにひきくくって述べる」としている。聞き手に配慮してスムーズな談話展開を促すものであり、自分の発話内容を発展させる用法をもつとしている。

2.「まあ」の持つ機能

(1) 1980円に消費税だから、まあ、2100円くらいかな。
(2)??1980円に消費税だから、まあ、2079円だな。

(3)まあ、やってみたら?

「1980円+消費税」の計算が曖昧な場合(1)は「まあ」が現れることができるが、正確な計算結果が出ている場合(2)は現れることができない。何らかの処理(考え)の結果、正確な情報が出力されたという状況においては「まあ」は現れることはできない。また、これは数値の計算に限ったものではない。(3)の「まあ」は「やってみたらいい」という計算結果に至る道筋が話し手の中で明確になっていないという曖昧性を示している。これらから導出できるのは、「まあ」の機能は「ある前提から結果へと至る計算処理過程が曖昧であることを示す」というものである。あるいは計算に至る際の前提そのものが明確ではないことを示す。
しかし必ずしも「まあ」の後に現れる情報が曖昧性を帯びているとは限らない。

(4)A 仕事手伝ってくれる?
   B まあ、いいよ。
(5)……で、最終的にはこうなるわけです。まあ、これが結論ですね。
(6)(Bは太郎のことをよくは知らない場合)
   A 太郎って何してるの?
   B まあ、元気でやってるよ。

これら三つの「まあ」発話はいずれも自然である。そしてさらに、これらの発話には、(4)では「しぶしぶ応じる」態度、(5)では「これが結論であるとは明確には断言できない」という態度、(6)では「よく知らないけど、たぶん元気なのだろう」というはっきりとしない予測、といったニュアンスが含まれている。このように「まあ」は単純に、後に語る内容をぼかす機能ももっている。

3.まとめ・考察
 「まあ」が本質的にもつ「曖昧性」はそのまま、「曖昧な物言い」につながり、そこから「はっきりと表現しない=やわらかな物言い」と派生していくものと冨樫は考える。
 今まで調べてきたほかの曖昧表現との関連を考え、実例を挙げて今後より深く考察していきたい。

参考文献:川上恭子(1993,1994)『談話における「まあ」の用法と機能(1),(2)』(『園田国文』14,15)

応答詞「そうです」使用の自然性は?

試験もようやく残りひとつとなり春休みが近づいていることに嬉しさを感じつつ、就職活動に力を入れていかないといけないなと思っているだけの昼ゼミ3年大内です。今回、私が要約する論文は以下のものです。

岡本真一郎・多門靖容(2002)「「そうです」型応答詞の使用の規定因」

『愛知学院大学人間文化研究所紀要』 17号, pp.379-392, 2002-09-20

この論文では、過去の知見に筆者らによる見解も加え「そうです」型の応答が自然なのはどのような場合であるかを整理し、その要因を推測している。過去の知見として大島(1991)は「そうです」による応答が可能な場合として、先行する質問の形式に次のものを挙げている。

① ノダ文:ノデスカ
② 名詞述語(名詞+判断詞)
③ 「―ダ」形式の文:「AノハBデスカ」
(1)「太郎がラブレターを送ったのは花子にですか?」
  「そうです」

上記の場合に「そうです」応答が可能になるのは「『提示された表現』の妥当性を問う質問文(表現提示形式)である。」からと推測している。
しかし、この大島の議論だけではなぜ表現提示形式なら「そうです」が適切になるのかが明らかではない。ほかにも「そうです」の使用の可否を左右する条件はある。また、「そうです」の類似表現である「そう」「そう思います」などの使い分けや確認文や主張文などの使用も視野に入れなければ」ならないのである。

この論文では筆者らが調査もしており
①述語部の品詞による「そう(です)」の自然さ
②ノダ文応答と非ノダ文応答の比較
③応答「そうです」「そう思います」「そうみたいです」「そのようです」の比較
④質問と確認の比較
と過去の知見を通して、質問提示に対する「そう」応答の使用には原則があるのではないかと述べている。以下が過去の知見と調査に基づき見出した原則である。

(a)形態的な当てはまりが良いこと
 質問提示に対する「そう」応答は、提示の一部を繰り返す応答の代用となっている。そこで「そうです」は「疑問の焦点」に対応することになる。この場合の形態的な当てはまりの良さが「そうです」の自然さの重要な規定因のひとつになる。他にも時制が完了より非完了のほうが、ノダ文より非ノダ文のほうがそれぞれ「そうです」応答が自然になる。

(2)「山田さんは来たんですか」
  「ええ、そうです」

(b)提示者が判断を示すこと
 「そうです」は、提示者が判断を示したことを応答者が肯定する場合に用いられる。そうでない場合は不自然になる。特に、依頼や意向、許可の打診への「そうです」応答は不自然さが目立つ。このような場合、提示者は相手の意向について判断しているのではないからである。

(3)「手伝ってくれますか」
  「??そうです」

(c)提示者の判断がカテゴリー的であること
質問提示者の判断が、述語部分(質問の焦点)がいくつかのカテゴリーのうちひとつに一致するという判断である場合に「そうです」応答が自然になる。

(4)「そこまでどうやって行きましたか。歩きましたか」
  「そうです」

(d)提示者の応答者への情報の依存性
質問提示から確認提示、さらには主張提示へと移行するにつれて、「そう」応答に対する制約は弱まっていく。しかし、確認提示に対する「そうです」は全く問題がなく自然というわけではない(5)。また、主張提示のほうが質問提示よりも「そう」応答が多くみられる(6)。

(5)「花子は出かけ{ましたね/たでしょう?}」
  「?そうです」

(6)「女房には、ゆうべ、散々謝りました」
  「そうですか」

まとめ.
質問文に対する「そう」応答「そうです」は
Ⅰ.質問の焦点を含んだ繰り返し応答が「―です」に一致するという形態的対応がある
Ⅱ.質問提示に判断が提示されること、そしてその判断がカテゴリー的であること
の要因が満たされる程度によって規定される。また、応答に「そうですね」「そうですか」を加えた場合、
Ⅲ.提示が質問から確認、主張へと真偽に関して応答者の情報に依存する度合いが少なくなるほど提示述語の品詞の制約条件が弱められていく。

考察.
・質問文でも文章の流れが自然かそうでないかを決める要因が複数見受けられた。
・言われてみれば不自然な文章の使用を避けているので、提示者の判断による使い分けが無意識のうちに行われているのではないかと思った。
・形態的なあてはまりが良いことというのは、つまりしっくりくるかどうかということを述べているのであってわざわざ調査をしてわっかたことなのだろうかと疑問を抱いた。あくまで調査、今までの見解から述べるべきであると考える。

最後に.
今回は前期のグループワークで調べた「そうですか」「そうですね」で触れた「そう」を使った応答について紹介した。「そうです」を使用する規定因が数多くあることがわかり、応答詞をより理解できたと思う。

形容詞承接の「です」について ‐形容詞述語文丁寧体の変遷‐

こんばんは、夜ゼミ3年の三浦結です。毎回期限ギリギリの提出になってしまい申し訳ありません。留学中の神村くんが3月に帰ってくるそうなので、就活の合間に飲みに行きたいですね。彼はオーストラリアでも大好きなクリームパンを食べているのでしょうか。

さて、今回は以下の論文を要約しました。

浅川哲也(1999)「形容詞承接の「です」について ‐形容詞述語文丁寧体の変遷‐ 」

國學院雑誌第100巻5号, pp32-53

私は後期から、電車のアナウンスの「危ないですから」のような「形容詞+です」の用法について調べています。前回の発表はyahoo!知恵袋やTwitter検索など現在における「形容詞+です」の使い方がメインになっていたので、今回は明治期にさかのぼってこちらの論文を要約しました。

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浅川は形容詞承接の「です」が東京語の形成過程の中で標準語として一般化するに至った史的経緯を調査し、その原因について考察している。

明治期の口語俗語文典などから「形容詞+です」が地方語の流入によってもたらされたものだとした上で、噺本、人情本、開化期文学、言文一致体以降の小説など天保4年(1833)~明治40年(1907)までの計88作品(坪内逍遥『当世書生気質』、二葉亭四迷『浮雲』、尾崎紅葉『金色夜叉』、夏目漱石『吾輩は猫である』など)を対象とし、形容詞承接の「です」についてまとめている。

形容詞承接の「です」の例は明治20年代から増加しているが、作品と作中人物の性格によって多用する作家(二葉亭四迷、山田美妙、泉鏡花など)とそうでない作家にわかれている。明治20年代初頭の形容詞承接の「です」使用者は書生・荘士・地方人が主で、これらの人物は「動詞・助動詞+です」も併用する傾向がありこの時期の形容詞承接の「です」は方言や書生語の域を出ない。

・先生、こりや赤心です。どうぞ正義のために奮いたいです。(『白玉蘭』荘士・関源介→黒江徹)

その後明治20年代後半から30年代にかけて、男性に限ってではあるが東京出身者の間においても形容詞承接の「です」が使用されるようになったと思われると述べている。『金色夜叉』では東京出身の間貫一にこの例が目立つ。

・高利貸の目には涙は無いですよ。(中編第二章、間貫一→赤樫満枝)

明治30年代後半には江戸生まれの夏目漱石が『吾輩は猫である』(明治38年)、『坊ちゃん』(明治39年)において江戸っ子の主人公たちに形容詞承接の「です」を使用させている。

・いや、さう事が分かればよろしいです。丸[たま]はいくら御投げになつても差支はないです。(『吾輩は猫である』八、珍野苦沙弥→論理の先生)

・正直にして居れば誰が乗じたつて怖くはないです。(『坊ちゃん』五、坊ちゃん→赤シャツ)

形容詞の「です」の総数は186例であり、上接する形容詞等の異なり語数は29である。出現頻度の高い形容詞等を順にあげると次のとおりである。(後藤の―は助動詞・接尾語であることを表す)

「ない」59例、「-ない」32例、「いい」31例、「-たい」14例、「面白い」6例、「悪い・うまい・危ない」4例、「むつかしい・相違ない・よろしい」3例、「よい・安い・惜しい・いけない・甚だしい」2例。

形容詞「ない・いい」は音節数が少なく言い切りになりやすいため、丁寧語「です」が終助詞的に接続しやすいと思われる。

また形容詞承接の「です」の男女間の使われ方をみていくと、明治30年代に至るまでほぼ男性専用の言葉であった。これは発生当初は特定の改装の男性のいい回しであったこと、「です」による形容詞の言い切りは語勢が強いために女性に避けられたこと(鈴木暢幸『日本口語典』)などが理由として考えられ、女性の間においても一般化するのは明治30年代末以降であると思われる。

形容詞述語文の丁寧体としてゴザイマス体とデス体では丁寧さの度合いに差異があり、「です」が発達していく明治期以降では対者警護として待遇表現上一律に扱われ難かったと考えられる。

動詞述語文のマス体に待遇価値上相当する形容詞述語文丁寧体の必要性により、本来は地方的な用法あった形容詞承接の「です」が東京語に取り入れられていった。

まとめ

1.明治時代において形容詞承接の「です」が文献上に現れるのは明治10年代末頃である。

2.明治20年代前後には東京出身者においても形容詞承接の「です」の使用が見られる。

3.「形容詞連用形+補助動詞」型丁寧体は、形容詞承接の「です」よりも待遇価値が高い。

4.マス体に待遇価値上相当する形容詞述語文丁寧体の必要性によって、地方的な用法であった形容詞承接の「です」が東京語に定着した。

現在東京語において「です」と「だ」は接続において用法が異なることから、品詞認定上で「です」は「だ」の丁寧体であるとは必ずしも言えないと述べている点が非常に興味深かったです。戦後の国語審議会(1952)で認められてはいるもの、いまだ違和感を覚える「形容詞+です」を今後どう広げていくのかが課題となってくるので、書生言葉、方言といった観点からも見ていきたいと思いました。

無助詞文の分類と段階性

こんにちは、夜ゼミ3年の宮澤比呂等です。就活でまだ不慣れなスーツで動き回っておりますが、先日の大雪では非常に大変な思いをしました。まだまだ寒い日も続きますが、体調にだけは気をつけようと思います。

さて、今回は以下の論文の要約を行いました。

黒崎佐仁子(2003)「無助詞文の分類と段階性」『早稲田大学日本語教育研究』第2号pp.77-93.

筆者は日本語の話しことばに見られる係助詞の「ハ」や格助詞の「ガ」「ヲ」が現れない「無助詞文」を決して誤用ではなく、日本語教育に取り入れるべきという立場に立つ。また、この論文は助詞が「省略」された場合と「もともとない」場合の両方が存在するという立場をとり、これらには段階的な連続関係があると考えている。助詞が復元可能で、助詞があっても不自然ではない場合を「省略」とし、助詞の復元が不可能な場合や、助詞がないほうが自然な場合を「無助詞」としている。そうしたうえで、最初に助詞の省略の可能な程度について考察している。

まず、「ハ」の省略について、「肯定・否定で対立する同類の名詞句の想定されやすさ」と対比感を定義し、この対比感の有無によって主題と対比を区別している。この対比の「ハ」は省略されると対比感が消失してしまう。なので省略することはできない。また、恒常的な出来事や客観的な事実を説明する文の「ハ」も省略することができないとしている。

次に「ガ」の省略について、「ガ」の用法による違いではなく、排他性の有無が省略に関係していると考えている。その排他性とは、二つ以上の候補から選択するかたちになっている、「ガ」がつく成分が主格的な性質をもっている、という二つの条件を満たすぶんである。そして、この排他を表わす「ガ」は省略することができない。また、排他以外にも連体修飾節の中にある「ガ」、存在を表わす平叙文の「ガ」も省略することができない。しかし、存在を表わす平叙文の「ガ」については、具体的な物事の存在を述べる場合のみであり、抽象性の高い物事については省略可能である。

最後に「ヲ」の省略について、移動の場所、起点を用法については省略が可能である。しかし、強調を表わす「ヲ」は省略することができない

次に、筆者は無助詞文を以下の六つに分類している。

  1. 聞き手への情報を求める文
  2. 聞き手への要求を表わす文
  3. 話し手、聞き手が主題の文
  4. 眼前の事象について述べる文
  5. 現象描写文の疑問文
  6. 特別な表現

聞き手への情報、要求を表わす文では、主題が「聞き手」であるが、同時に「尋ねる対象」「要求する対象」でもあり二重主題の文章と認識され、助詞を伴うと対比感が生じやすく、それを回避するために無助詞が選択される。

話し手、聞き手が主題の文と眼前の事象について述べる文は、それぞれ「話し手」「聞き手」「眼前の事象」と主題が明らかであり、それを敢えて顕在化させると対比感が生じる。なのでそれを回避するために無助詞が選択される。

現象描写文の疑問文は、現象描写文は無題の文であり、主題を必要とする疑問文になることはできない。この場合も「ハ」を付加すると対比感が生じてしまう。なのでそれを回避するために無助詞がされる。

特別な表現とは、あいさつ表現や慣用的表現といった表現であり、これらは述部の独立性が高く、主題を要求しない。敢えて「ハ」を付加すると対比感が省略してしまう。

以上をまとめると、助詞が必須な場合は対比、恒常的な出来事や客観的な事実説明の「ハ」、主に排他、例外的に連体修飾節中、具体的な物事についての存在の平叙文の「ガ」、強調を表わす「ヲ」である。「省略」と考えられる場合は、主題を表わす「ハ」とその他の「ガ」「ヲ」。そして、「無助詞」と考えられる場合は、聞き手の情報を求める文、聞き手への要求を表わす文、話し手・聞き手が主題の文、眼前の事象について述べる文、現象描写文の疑問文、あいさつ表現や慣用的表現などの特別な表現である。

今回の論文要約から、今までの自分は「助詞の省略」「無助詞」というものを助詞に一対一で考えすぎていたように思った。より大枠的に「無助詞」を考えることができたと思う。しかし、今回の論文にはやや根拠に欠ける部分もあったため、鵜呑みにするようなことは避けたいと思う。このまま同じテーマで続けていこうと思うが、今回もやはり「無助詞」が選択される理由が対比感の回避という意味合いが強く、「無助詞」がより積極的に選択される例というのがなかった。今後は積極的に選択される理由があるのかどうかという点について探っていきたいと思う。

参考文献

黒崎佐仁子         (2003)「無助詞文の分類と段階性」『早稲田大学日本語教育研究』Vol.2 pp.77-98. 早稲田大学

「Vてみる」の多義性と文法化

 こんばんは。夜ゼミ2年の古城里紗です。親権者の同意なしでクレジットカードが作れないお店があり、初めて早生まれについて考えさせられました。

 期限間近に失礼します。こうならないと始めない性分は小学生の頃から変わりません。三つ子の魂なんとやらと言いますが、これと寝坊は人に迷惑をかけないよう調教しつつ一生付き合っていくつもりです。

後期のグループ発表で「文法化」を扱い、調べ始めるまで意識せず使用していたことに驚き、またその種類の多さに興味を持ちました。そこで今回は発表で触れなかった文法化のひとつ「Vてみる」について考察しているこの論文について紹介します。

嶋田紀之(2009)「「Vてみる」の多義性と文法化」『日本認知言語学会論文集 9』pp. 132-142

 この論文は、話し言葉でも書き言葉でも高頻度で使用される「Vてみる」が文法化により全体が補助動詞化して本来の「見る(see)」の意味から「試す(try)」の意味に変化したそのプロセスを認知言語学の視点から分析している。

 まず嶋田は文法化前の「て、見る」の構造について分析している。基本構造を『知覚主体(省略可)が、知覚対象に対し、見るための準備行為(V1)を行い、その結果を見る(V2)』とし、「て形」はV1とV2(見る)が並行して行われる「同時(付帯状況)」とV1の後にV2(見る)が行われる「継起(時間的継起)」の場合がある、と述べている。

(1)手を叩いて、見る。 【同時】

(2)花に近づいて、見る。【継起】

 他にも、V1は見るための準備行動や様態(姿勢)に限定される点や、知覚対象を表す格が「ヲ格」の場合は準備行為の対象と見る対象が同じだが、「二格」は準備行為の対象にはなるものの見る対象にはならない点を特徴として挙げている。このことから文法化以前の「見る」は、視覚的に対象を捉え同定する(例:花を見る)、あるいは理解・判断する(例:新聞を見る)という基本的な意味を表していると述べている。

 次に、文法化後の「Vてみる」について分析している。文法化前の本動詞が「見る」であることとは異なり文法化後はVの方が本動詞となると述べ、加えてそのVに来る動詞が文法化前は見るための準備行為等であったが文法化後は「試す行為」となることを指摘している。また、文法化前の「て形」は「同時」と「継起」を表していたが、文法化後は「同時」のみとなるのは本動詞Vと試みる(てみる)行為が一体で、各々行う「継起」の場面は起こり得ないためである。

 中には文法化の特徴で、以前の用法が残っていて曖昧な場合もあると指摘している。

(3)花にちかづいてみる。(「見る」とも「試みる」ともとれる)

 文法化による以上の変化を踏まえて「て、見る(see)」が「てみる(try)」に意味変化する動機を先行研究も取り入れつつ3つの可能性を提示している。「見る」の多義性の中の「試す」が特に抽出されたとする①意味の抽出化からの説明と、文法化の動機付けのひとつ「語用論的強化」によって「てみる」の意味に「試す」が組み込まれ、慣習化・定着化した②語用論的強化からの説明と、文法化前は「結果(を見る)」ことに焦点が当たっていたがメトニミーによる焦点シフトが生じ、「行為(試しに行う)」の方が焦点化され意味変化が生じたとする③近似性に基づくメトニミーによる説明、である。しかし、「見る」の多義性の中で「試す」の意味は薄いことからこの部分のみが抽出されたとする①は根拠が乏しいことから②と③の説が濃厚であると述べるに留めている。

「語用論的強化」…ある表現のある状況での語用論的解釈が、歴史的な経過を経てその表現の意味に組み込まれること。)

 また嶋田は、通時的な視点からも「てみる」を考察している。土佐日記の書き出しや平家物語に「て形」を伴った「てみむ」が「試す」や「こころみる」と訳されていることから、少なくともこの時期には「てみる」の文法化が進行しているとした。万葉集にも「て」を伴わない「見」が他の動詞と結びつく形で登場し、訳文で「試す」の意味になってはいるが文法化前の意味でも通じるため断言を避けている。

 最後に嶋田は「見る」、つまり視覚が五感中で優位なことが文法化に繋がった可能性を指摘している。視覚は他の感覚よりも大量の情報を外部から受動的に受けているだけでなく、必要な情報を能動的に受けている。このため他の五感は「てきく」や「てさわる」のように文法化せず「見る」のみ文法化したとしている。また、行動の殆どが視覚を通じて行われ、結果も視覚を通じて確認されることから行為と結果のメトニミー的シフトが起こり「結果のsee」から「行為のtry」の変化に繋がったのではと述べている。

 結局、筆者は語用論的強化説とメトニミー説とどちらを支持するかについて触れられていなかったのですが、個人的には語用論的強化説の方が無理なく説明できているような印象を受けました。グループ発表で苦労した分、文法化に妙な愛着が湧いてしまいました。別のパターンも考察していきたい衝動に駆られておりやや困っています。

「私的表現」と「公的表現」について

こんばんは、昼ゼミ3年の佐藤真悠です。
いまのアルバイトを始めて1年半になるのですが、下っ端だと思っていたのもつかの間、気付けば周りには年下の後輩がわんさか。高校1年の子と5歳も年が離れていることに衝撃を覚える今日この頃です。5歳年上に感じる年齢差よりも、5歳年下に感じる年齢差の方が心もち大きく感じるのは私だけでしょうか…。

さて、私が個人研究のテーマにしているのは「図書館に行かなきゃです」のような「~しなきゃです」という表現についてです。これまではこの表現を構成する「しなければならない」と「~です」に関連付けて進めてきました。今回は末尾に「です」や「でした」を付けることによって「~しなきゃ」という独り言が公に向けた表現へと変わっているのではないかという視点からみていきたいと思います。
私が紹介する論文はこちらです。
廣瀬幸生(1988)『私的表現と公的表現』『文藝言語研究. 言語篇 14』pp.37-56,筑波大学

廣瀬はまず思考表現を「公的表現行為」「私的表現行為」の2つに分け、それぞれで用いられる言語表現を「公的表現」「私的表現」という用語で表した。これら表現の区別から話法の文法を論じ、また思考表現行為の主体を「公的自己」「私的自己」に分けることで日英比較も行っている。
公的表現とは思考を表現する際に聞き手の存在を考慮している場合の言語表現のことで、伝達的機能を果たすものだ。
これに対して、私的表現は聞き手の存在を考慮しておらず、純粋に思考表現の機能のため用いられる言語表現である。
※論文中で廣瀬は私的表現を<>、公的表現を〔 〕で、表わしているため、それに従って進めていく。

公的表現と私的表現について、廣瀬は雨が降っているのが分かった場合の発話で説明している。
「雨だ」という表現について、一人で部屋にいる際には他者への伝達を意図していないので<雨だ>は私的表現であるといえる。ただし、自分に〔雨だよ〕〔雨だね〕と言い聞かせる場合には、話し手と聞き手が同一人物であり、2つの役割を同時に演じているとし、公的表現に区分している。
他者へ伝える際には、聞き手思考の表現がもちいられることが多いと指摘している。これには芳賀(1954;1962)が「伝達の主体的表現」として特徴づけたもの(「よ」や「ね」など一定の終助詞、「走れ」などの命令表現、「おーい」などの呼びかけ表現、「はい」などの応答表現)、「です」「ます」などの丁寧語、「僕」「私」「君」「あなた」などの客体的表現を挙げている。そのままの形よりも〔雨だよ〕〔雨だね〕のように終助詞が付く方が普通なのは、終助詞が本質的に公的表現であるため、私的表現を公的表現に転化する働きを持つからだと述べている。
丁寧語は聞き手に対する敬意を表すものなので、「雨だ」の「だ」を「雨です」「雨でございます」のように入れ替えることで、公的表現に転化する。

また、この表現を聞き手の側からみると、雨が降っているという状況とともに、話し手が「雨だ」と思っていることが伝えられている。このため、公的表現は私的表現に還元されて理解されるとも指摘している。
さらに、心的状態のありかたを「雨だ」の断定から「雨に違いない」「雨だろう」「雨だったらなあ」のようなさまざまなものに拡大し、動詞の文法について以下のようにまとめている。
 ・思考動詞(例:思う)は、その引用部として私的表現しかとることができない
 ・発話動詞(例:言う)は、その引用部として公的表現も私的表現もとることができる
発話動詞で公的表現を引用すると「AはBに〔おーい雨だよ〕と言った。」のように直接話法になり、私的表現を引用すると「AはBに<雨だ>と言った。」と間接話法になる。
ただし、会話の部分ではないのに公的表現が用いられている場合も存在する。心内文のような形態がこれに当てはまる。これはあくまでも自己伝達の描写であって、内的な意識の世界ではないため、私的表現では不適切になる。

最後に、私的自己と公的自己についてだが、私的自己は「聞き手のいない話し手」に、公的自己は「発話状況において聞き手と対峙する話し手」にあたる。廣瀬はここで日英の違いについて論じており、日本語は本来的に私的表現行為と、英語は公的表現行為と密接に結びついた言語であると指摘している。その根拠は次の通りである。
日本語には私的自己を表す固有のことばとして<自分>がある一方で公的自己を表す固有の言葉はないため、〔僕〕〔私〕〔先生〕〔お父さん〕などその場に応じた様々な言葉で代用されている。
英語では公的自己を表す固有の言葉〔I〕があるが、私的自己を表す固有の言葉はなく、人称代名詞によって転用されている。

私的表現/公的表現という区分と、話し手/聞き手との組み合わせによる対応が興味深いですが、私が特に気になったのは「聞き手思考表現」である終助詞や丁寧語が用いられると公的表現になるという部分です。「~しなきゃ」という私的表現が丁寧語付加により「~しなきゃです」という公的表現になる、というふうに当てはめられるのではないかと考えました。引き続き、この表現について探っていきたいと思います。

参考文献
芳賀綏(1954)「“陳述”とは何もの?」『国語国文』第23巻第4号pp.241-55
――.(1962)『日本文法教室』東京堂出版

前置き表現における会話文と投書の比較

こんにちは。夜ゼミ3年の山田康太です。就活も忙しくなりました。食品業界のセミナーに行き、いろんな食べものをもらって帰ってきてはそれを楽しみにしています。さて今回は研究テーマの前置き表現「なんか」自体ではなく、前置き表現そのものをもう少し掘り下げてみたいと思います。

陳 臻渝(2007)「日本語の前置き表現に関する一考察 : 会話文と投書の比較を通して」

『大阪府立大学人間社会学研究集録』 2, 67-80, 2006

1. 論文の概要と意図(私自身の)

この論文では、特定の聞き手を相手とする会話文(この論文ではシナリオからの用例)と不特定多数の聞き手である新聞の投書、それぞれの前置き表現を比較しています。この論文では、過去に類似の先行研究がないという理由から、先行研究との比較はほとんどなされていません。私がこの論文を選んだ意図としては、前置き表現「なんか」の研究で口語と文語における違いについて悩まされたためです。

2. 前置き表現の定義

前置き表現の研究に関して、必ずといって言いほど問題になるのが前置き表現の定義です。この論文では、過去に筆者が論じた論文から定義を引っ張ってきています。

1. 前置き表現は何らかの配慮によって用いられ、主要な言語内容に先立つ

2. 注釈的な機能を持っているので、ディスコースにおいてはそれより、その次に来る主要な言語内容を導入する機能のほうが大きい

3. 前置き表現には、話し手の、次に来る主要な言語内容に対する判断(態度)や認識が含まれている。

4. 前置き表現の有無によって、次に来る主要な言語内容の命題・事柄の成り立ちに支障が起きることはない。

3.本論文での前置き表現の分類

陳(2007)は、上記の定義に基づいて前置き表現を「対人配慮型」と「伝達性配慮型」に分類しています。「対人配慮型」とは、発信者が人間関係に対する配慮を考えて発するストラデジーのようなものです。対人配慮型の特徴として、この前置き表現を外すことによって、伝達内容や本旨にはなんら影響はないが、人間関係やコミュニケーションがスムーズでなくなるといって特徴があります。一方、「伝達性配慮型」とは、伝達の効率性に配慮した、前置き表現です。

さらに、陳(2007)では、「対人配慮型」の中に

①    侘び表明(侘び表現を用いて、対人関係に配慮するもの)

②    理解表明(受信者に共感や同意をすることによって対人関係に配慮するもの)

③    謙遜表明(発信者が謙遜表現を使うことによって、配慮すること)

④    釈明提示(発信者が自分の言動について釈明することで対人関係に配慮すること)

があり、「伝達性配慮型」の中に

①    話題提示(伝達話題を予め提示し、次の発話内容をより明確にするもの)

②    様態提示(発信者がどのような様態で発信するか分かりやすくするもの)

があります。

3. 分析結果

「91年、92年年鑑代表シナリオ集会話部分」

「朝日新聞記事2000データベース1~6月」

会話文 投書
使用数 23 0
割合 21% 0

*対人配慮型

会話文 投書
侘び表明 使用数 23 0
割合 21% 0
理解表明 使用数 14 10
割合 13% 9%
謙遜表明 使用数 20 17
割合 18% 16%
釈明提示 使用数 8 0
割合 7% 0

*伝達性配慮型

会話文 投書
話題提示 使用数 17 37
割合 15% 34%
様態提示 使用数 30 44
割合 27% 41%

4.考察

上記の結果から考察すると、会話文においては、前置き表現が差はあるものの全般に使用され散ることがわかります。一方、投書の方の結果を見ると、「侘び表明」と「釈明提示」には使用例がありません。理由としては、会話文と投書の性質として、投書には複雑な人間関係という要素がないため、受信者に負担をかけるような言語行動が存在しないと考えられます。また、「侘び表明」と「釈明提示」には、受信者を特定する性質があるため、投書のような不特定多数の受信者相手には成立しません。

もう一つ、「侘び表明、理解表明、謙遜表明、釈明提示」においては、会話文>投書であったが、「話題提示、様態提示」に関しては会話文<投書でした。このことから対人配慮型では主に会話文のように特定受信者を意識したものが、伝達性配慮型では主に投書のような不特定受信者を意識したものが多いという結果になりました。

4. おわりに

長々と申し訳ありません。今回の論文の要約をやってみて、会話文中での使用例が多いと思われる「なんか」がこれらの分類にあてはまるのか疑問に思いました。「なんか」の先行研究は数が少ないので、関連する項目の先行研究を調べることで、どうにかこうにか卒論に漕ぎ着けられればと思います。