「でも」における話題の区切り・定義

こんにちは、夜ゼミ3年の志村です。3年生はつらい時期ですが、明るい気持ちを忘れずにいたいですね。私が最近面白かったのは、おそらく30代後半の工事現場にいそうなお兄さんが、コンビニでチュッパチャップスを土台ごと大人買いしていたことです。

さて、本題に入ります。今回は稗田三枝(2003)「会話の展開と談話標識:談話標識「でも」に焦点を当てて」,『日本語・日本文化研究』 pp.193-202. という論文を要約しました。この論文では、私の今後の課題となっている、「でも」の話題移行用法における話題の区切り・定義について詳しく述べられています。稗田は、これまでの話題移行の「でも」の研究は会話の全体構造を踏まえていないため不十分であると指摘し、会話の構造を捉えながら「でも」の機能の考察を試みています。

稗田はまず、話題の構造とその内容について説明しています。話題には大きな枠組みである上位の話題と、それに従属する下位の話題があります。上位の話題が「前売り券の購入について」だとすると、下位の話題には「映画館で購入が可能か」、「有効期限はいつまでか」、「何時から購入が可能か」などが挙げられます。そして、会話にはその場で最も話すことが要求される中心話題(本筋の話題)と、そうではない話題(逸れた話題)があるとしています。雑談や日常会話において、その場に最もふさわしい中心的な話題があり、会話参加者が中心的話題に沿った話題を選択することで会話が展開されています。

次に、実際の会話文の使用例を分析し、話題移行の「でも」を以下の2つに分類しています。

(1)下位の話題、上位の話題の導入に現れ、本筋の話題を始めるもの。
(2)下位の話題、上位の話題の最後に現れ、本筋の話題を終わらせるもの。

(1)は逸れた話題から本筋の話題へ戻るときに用いられます。例文にバラエティ番組での会話が挙げられています。ここではお笑い芸人の東野・今田がホスト、お笑いコンビのココリコ(遠藤・田中)がゲストの立場なので、ココリコについての話題が本筋の話題、その他の話題が逸れた話題ということになります(以下、下線部が本筋の話題、【】内が上位、[]内が下位の話題)。会話は【俳優としての活動について→[①ドラマでのココリコの演技について]→[②ドラマでの東野の失敗について]→[③ココリコ田中が出演した映画について]→[④今田のドラマ出演について]→[⑤ココリコ田中か出演するドラマについて]】という流れで進んでいき、逸れた話題から本筋の話題へ戻る場面である③と⑤の導入部分に(1)の「でも」が見られます。
(2)は逸れた話題から本筋の話題へ戻り、その本筋の話題を締めくくるために用います。例文にトーク番組でのインターネットの書き込みを見ながらの会話が挙げられています。ここでは次のゲストに誰を呼ぶかが本筋の話題となっています。会話は【①ゲストに田中を呼ぶのはどうか→[②書き込みの内容について]】→【③ゲストに北川を呼ぶのはどうか】という流れて進んでいき、逸れた話題の②の終わりの部分に(2)の「でも」が現れ、①の話題を終わらせ③の新しい本筋の話題を始めています。

この論文の問題点としては、本筋の話題が確立されていることが前提であること、そして上位の話題と下位の話題、本筋の話題と逸れた話題の定義がはっきりしていないことという2点が挙げられます。トーク番組などでは中心の話題がはっきりしているものがほとんどですが、日常会話などでは目的のない会話も多く、これと言った本筋の話題を見出すことができないこともあります。私が前回の研究で分類した展開用法の例文には、本筋の話題を見出すのが難しいものが多く見られました。また、何を上位の話題・本筋の話題と位置づけるかによって構造の捉え方が変わる場合もあるので、まずはこれらの定義を明確にする必要があると感じました。
以上のような問題点があるとはいえ、話題の区切り・定義の観点から「でも」の機能の分類を試みた研究は、分類の考え方の参考になりました。特に話題移行の回帰用法・転換用法では上位・下位、本筋の話題と逸れた話題をいう考え方を応用できそうだと感じました。今後も本筋の話題と逸れた話題という考え方の妥当性も検討しながら、引き続き話題の区切り・定義の考察を進めたいと思います。

参考文献
稗田三枝(2003)「会話の展開と談話標識:談話標識「でも」に焦点を当てて」,『日本語・日本文化研究』 pp.193-202.

「聴覚障害者の記憶における符号化」

こんにちは。昼ゼミの谷地田です。現在私は幼稚園と小学校が併設されている学校に通い学生ボランティアをしていますが、子ども達の笑顔がとても可愛らしくて楽しい日々を送っています。

  ところで、今日は以下の論文の要約をします。
長南浩人(2004)「聴覚障害者の記憶における符号化 ―日本語単語とそれに対応する絵と手話を材料にして―」『高知女子大学教育心理学研究』第52巻,2号,pp107-114

 この論文では、長南が聴覚障害者の日本語と手話の能力の違いによって記憶成績に違いが出るということを指摘しています。Paivio&Desrochers(1980)は、記憶実験を行い画像優越効果を実証しました。これは、絵のような具象的刺激は言葉のような抽象的刺激よりも記憶成績がよいというものです。そこで長南は、聴覚障害者の中には手話と日本語の2つの言語を記憶し、会話の相手に応じて使い分ける者がいるため、上記の考え方に従うと、視覚的情報である手話の方が日本語のみの符号化よりも記憶成績がよいものと予想しましたが、恣意性の高い手話があることを考慮すると、全ての手話が絵と同様の記憶成績を示すかどうかについては、写像的な手話と抽象的な手話に分けて実験する必要がある、と指摘しています。 以下、この実験内容を簡単にまとめます。

《被験者》
 長南は被験者をAろう学校高等部生徒34人、Aろう学校を2~3年前に卒業した聴覚障害者24人の計58人とし、彼らを手話上位日本語上位群(GG群)、手話上位日本語下位群(GP群)、手話下位日本語上位群(PG群)、手話下位日本語下位(PP群)の4群に分けました。

《実験計画》
 実験計画としては課題の種類(①写像的な形態である手話から日本語へ変換する写像的手話提示条件、②抽象的な形態である手話から日本語へ変換する抽象的手話提示条件、③絵から日本語へ変換する絵提示条件、④日本語単語を書き写す書き写し条件)×被験者の手話と日本語能力による群(GG群、GP群、PG群、PP群)の2要因計画としたようだ。

《実験結果》
 実験結果は以下のようになったとされる。
〈提示の種類〉
①:GG群>GP群=PG群=PP群
②:GG群>GP群=PG群>PP群
③:PG群>GG群=GP群=PP群
④:PG群>GG群=GP群=PP群

〈群〉
GG群:①=②>③>④
GP群:①=②=③>④
PG群:③>①=②=④
PP群:③>①=②=④

 さらに長南は、それぞれの実験結果について詳しく見ています。 まずGG群についてですが、手話による符号化では、絵という3つ(絵+イメージ+言語)のシステムや日本語という1つのシステムによる符号化に加え他のシステムが働いたものと考えられています。 次にGP群についてですが、手話による符号化では、日本語、手話、イメージの各システムにより符号化がなされたものの、日本語システム内の語とイメージシステムとの結合が不十分であったため、日本語システムを十分に利用できず、結果的に3つの符号化がなされる絵と同様の再生成績になったものと考えられています。 次にPG群についてですが、絵による符号化の場合、絵、イメージ、日本語の3つのシステムによる符号化がなされ絵の優越効果が見られますが、手話を提示しても手話システムが発達してないことから、符号化の際に手話システムを十分に利用できず、手話による符号化の再生成績が低かったものと考えられています。 最後にPP群についてですが、手話システム、日本語システム双方が十分な発達をしておらず、このためイメージシステムとの結合や各システム相互の結合も十分になされていないため、本実験のような結果になったものと考えられています。

 以上のことを踏まえて、長南は聴覚障害者には、日本語、手話、イメージの各システムが存在しており、日本語と手話のシステムがそれぞれ独立して機能し、イメージシステムが活性化することによって、日本語と手話の各システムが結合して機能している、ということが確かめられた、と述べています。

 この論文で特に面白いのは、各グループの手話と日本語の能力の違いが各システムの結合の強度に影響を与え、このことが各グループの再生成績に違いを与えたというところです。これは私の研究テーマでもある、手話の成り立ちに結びつく考えです。しかし、今回は聴覚障害者のみを被験者としているため、聴覚障害者の手話と日本語の独自な符号化プロセスを検討するには、健聴者のそれとの比較する必要があると考えます。

「若者言葉と男性語・女性語」

 こんにちは。昼ゼミ2年の西村です。早いもので、新年になり早1週間がたちました。来週には成人式もありますね。私は去年成人式に参加したのですが、大雪が降り、ある意味記憶に残る成人式でした。今年は天候に恵まれるといいですね。
 さて、本題に入ります。私は谷光忠彦さんの『若者言葉と男性語・女性語』について要約しました。
 この論文では、「若者言葉」と「男性語・女性語」を例に言葉と文化の関わりについて書かれています。1999年に若者が使う言葉について著者が行った調査では、「超・・・」「・・・っちゅうか・・」「まじ(で)」という表現は男女の差がなく、多く用いられていることが指摘されています。一方で、「むかつく」「・・・って感じ」「へこむ」は男性のよりも女性のほうが多く使っているそうです。言葉によって男女間で使用頻度に差が出るのは、男性と女性とでは社会生活あるいは人間関係の対応の仕方に美妙な相違があり、それが言葉に反映しているからだとしています。つまり、一般的に若者は婉曲表現よりも力強い直接表現で素直な感情を吐露する反面、慎重かつ懐疑的な表現も表しています。男女差で見ると、男性は忍耐力の乏しさを思わせ、女性は感情を抑制する傾向にあるとしています。著者は5年後の2004年に1999年と同様の調査を行っています。それによると、「やばい」の使用頻度が男性と女性で逆転し、女性のほうが強く関心を持っているとしている。「やばい」は危機感の表れであり、不安定な世相を反映しているのではないかと著者は主張しています。5年前は使用頻度が1番目だった「超」は3番目に落ち、逆に3番目だった「まじ」がトップになっています。著者はここから男性には懐疑的発想傾向が伺えるとし、「ありえない」が女性の使用頻度のトップであることは女性の信念の強固さを表していると指摘しています。
 また、1999年に男性語、女性語にはどのようなものがあるかを調査したものでは、男女共に「おれ」や「ぼく」などの一人称の代名詞が男性語としてトップにしています。一方、女性語としては男女共に「・・・だわ」「・・・よ」などの終助詞が女性語としてのトップになっています。著者は男性が自己の社会的存立を意識することに対し、女性は人間生活の中で情緒的雰囲気を大切にする心情の表れだとしています。つまり、男女によって生活感情の中で若干異なった価値観(文化)を有していることに起因すると主張しています。ところが、2004年に同様の調査をしたところ、男性は男性語、女性語のトップは「おれ」「ぼく」「わたし」「あたし」などの代名詞としています。女性は男性語・女性語共に終助詞をトップにしています。ここにも男女での価値観の相違が見られると著者は指摘します。しかし、男性は社会的存立を意識した人生観を重視する傾向のあることが想像できるのに対して、女性は情緒性に重きを置いた人生観に価値を置いていることがそうできるという点では5年前の調査と同様の傾向にあると著者は主張しています。
 また、女性は接頭語の「お」をよく用いることについては男性、女性共に指摘しています。室町時代の女房詞に潜む文化の一端の残存を感じることができます。「おれ」という表現も万葉集にみる「おのれ」の「の」が脱落したもので、本来は相手を罵倒する言葉だったものが後に自称に用いられるようになりました。女性語についても、男性の最も多い回答は代名詞を指摘していることであり、これは日本社会における女性の社会進出の急速な向上を反映した側面(文化)が見えると言っている。
 日本語に男性語と女性語という区別があることは明白だが、時代が移り変わるにつれて、その差は縮まってきており、それは近年の女性の社会的活躍に起因しています。とはいっても、性差による若干の価値観の差は否定できず、それが言語表現に表れているとしています。
 著者である谷光氏は、若者言葉を題材に男性語と女性語を比較し、言語活動と社会の関わりをこの論文で指摘している。たしかに、女性の社会進出というのが近年注目されている。言葉遣いに関しても、普段の生活の中であまり男女の差を感じない。しかし、性別が違う以上、詞の佐賀なくなることはないであろう。その点に関しては共感である。だが、調査をする際の人数が少ないように感じた。また「・・・だわ」という表現を使うという理由で、女性が情緒的雰囲気を大切にする傾向があるという結論を出すには理由が少ないようにも感じた。

参考文献
 谷光忠彦 「若者言葉と男性語・女性語」 『武蔵野学院大学に本総合研究所研究紀要』 3.pp50~57.2006.

「~てください」は依頼になり得るのか

 こんにちは、夜ゼミ3年の秋山です。慣れというのはすごいものです。例えば、地方巡りなら丸半日電車に乗っていても精神的苦痛をそれほど感じなくなってしまいました。このままでは常人離れしてしまうので、旅の他に何か良い趣味を探そうかと考えています。

 さて、本題に入ります。私は「~てください」という表現における、意味用法の判断基準が何なのかを解明すべく、研究を進めてまいりました。主な用法は「命令・指示」「依頼」「勧め」の三つとされています。このとき、当該表現は直接的(一方的)であるにも関わらず、相手に配慮を要する「依頼」の意が成立することになります。これがなぜなのかについて、ポライトネス理論と関連付けて述べた関根和枝(2007)「「~てください」の機能を決めるもの―指示と依頼の間」『言語文化教育研究』2、pp.98-110を、今回は要約しました。

 関根はまず、初級の日本語教育で「~てください」が単に依頼表現の一つとして指導されることへの問題点を指摘した。場合によっては失礼に値することがあるからである。またポライトネスの観点から、依頼とは相手を動かして話者が利益を得るため、その表現方法は間接的(「~てくださいますか」等)になるのが好ましい、という。よって、相手の意志を伺う言い方にはなっていない「~てください」が依頼として用いられるのは、通常なら不自然になるはずだ、とした。
 これらを踏まえて関根は、この表現が依頼として成立するための条件がいくつか存在する、と述べている。それらを以下に列挙する。まず第一に、相手が原因で生じた話者の不利益を改善する依頼として使用する場合。この場合、要求すること自体に当然性があり、相手も関係回復を図ろうとするため、話し手からの特別な配慮は不要になる、とした。二つ目は、相手の力への称賛を示し、その意図を当該表現に込めた場合。これは相手のいい面を取り上げて尊重するという、ポジティブ・ポライトネス運用に適ったものであるという。さらに、これに関しては直接性がその効果を増している、と付け加えた。この他にも、依頼をした後の相手への返礼が暗示されている場合や、相手に敢えて負担を要求することにより、互いの距離を縮めようとする場合(新人と先輩などの間柄において)を挙げた。この二パターンは、日本社会特有のポライトネス・ストラテジー(言ってみれば、人間関係における計画・計略)である。これらの場合は要するに、依頼の際に必要とされる相手への特別な配慮が、何らかの理由によって不必要となる場合においては、直接性を持つ当該表現が依頼の意味をもつ、ということになる。また、直接性があることは、相手との心的距離が近いことを示すものになると関根は述べており、上述のような条件下においては、直接的であることが、かえって良い人間関係をもたらし得るとも指摘した。論文の全体をまとめると、「~てください」はあらゆる依頼の場面に使えるというわけではなく、その直接性が是認される依頼の場面において、違和感なく使用できる、ということになろう。
 
 関根(2007)は、「~てください」について意味機能の面からの先行研究が多い中、この表現が持つ性質・性格そのものに注目しているという点で興味深いものでした。冒頭で示した三用法を有するという大勢の見解に対し疑問を投げかけ、新たにポライトネスの視点から自説の正当性を主張する、という姿勢(すなわちここでは、通説に対し異なる視点から意見すること)は参考になります。「依頼として自然かどうか」という見方は、秋学期にて指摘を頂いた「意味素性」にも関わってくると思われます。分類に困る用例には、依頼のような指示や、指示の性格を有した勧めといった、複数の意味素性が絡むものが多数存在するため、この「直接性」がそれにどう影響を及ぼすのかを視野に入れ、引き続き研究していきたいと考えております。

参考文献

関根 和枝 2007. 「~てください」の機能を決めるもの―指示と依頼の間」、『言語文化教育研究』2、pp.98-110

日本語副詞「ちょっと」における多義性と機能

昼ゼミの石川です。
私は岡本佐智子・斉藤シゲミの論文、日本語副詞「ちょっと」における多義性と機能を要約しました。内容は以下の通りです。

日本語を母語としない人々が日本語学習途上で日本人とコミュニケーションするとき、ことばの意味解釈から様々なすれ違いが生まれることがある。なかでも日本語学習に平易であると思われがちな「ちょっと」は文脈によってその意味が異なるため、誤解を招きやすい。
a. 生徒:先生、この問題わからないんです。
先生:どれどれ、うーん。ちょっと考えさせて。
b. 上司:この縁談、どうかね。
部下:ちょっと考えて下さい。
Aの「ちょっと」は考える時間が短い意味だが、bの質問は短い時間で結論が出ると思えず、上司の思惑どおりの即答ができないため、「考えさせて」という要求を柔らかく提示したり、場合によっては婉曲に断っていると考えられる。aの場合は「ちょっと」のほうにプロミネンスがあり、bの場合は「考えさせて」のほうにプロミネンスがあることが多い。また、「ちょっと考えさせて」を使って断る場合は、「ちょっと」と「考えさせてください」の間にポーズが入ることもある。
 このように実際のコミュニケーションでは話し手と聞き手との関係だけでなく、発話者のプロミネンス、パラ言語、表情などの非言語メッセージを含めて多方面から意味を判断していかねばならないのである。
f.この問題は、君にはちょっと難しいかもしれない。(『現代副詞用法辞典』)
g.一度の会議で結論を出すのは、ちょっと難しいだろう。(『副詞の用法分離』)
h.この問題は君にはちょっと難しすぎるんじゃないかな。(『日本語文型辞典』)
i.この問題は、君にはちょっと難しい。
j.一度の会議で結論を出すのは、ちょっと難しい。
k.この問題は君にはちょっと難しすぎる。
「ちょっと」のコミュニケーション機能を筆者らでまとめると、
① 依頼や、希求、提示行為の負担をやわらげる。
② 否定的内容の前置き
③ 断りを受けやすくする
④ 呼びかけ
⑤ とがめ
⑥ 間つなぎ
の6つになる。これらのコミュニケーション機能を支えているのは「ちょっと」の意味根幹である「少し」を用いることによって、文内容を軽減し、婉曲的な表現にすりかえられる働きがあることであろう。これはポライトネスの視点から、岡本ら(2003)が述べているように「ちょっと」には聞き手と話し手の双方のフェイスを守るコミュニケーション機能があることと重なる。第1番目にあげた依頼や提示など相手に行為を求めるときに、その行為の負担をやわらげる機能は、「~てください」「~てくれ」「~てほしい」「~てもらえないか」などのように聞き手の意志を尋ねる形式に「ちょっと」を用いることで、相手に求める行為に軽くさせ、受け入れの寛容さに働きかける。すなわち「ちょっと」のやわらげ効果によって相手がその行為を受け入れやすくなるのである。
 2番目にあげた否定的内容の前置き昨日は、「ちょっと」否定的な内容のマイナス度を小さくする枕ことばとなる。マイナスイメージの表現は、重大ではないが不利益なこと・不都合なことなど利害関係が起こる可能性がある場合、「ちょっと」を置くことによって、あとに続く否定的な内容を暗示させ、聞き手にその負の内容を受け止める心の準備を与えたり、話し手の心理的な負担を弱めたりする働きになる。
 3番目の断りを受けやすくさせる機能は、「(日曜日は)ちょっと..。」といい差し、重要な述部を省略してしまう表現形式をとり、話し手が相手の期待にそえず申し訳ないという意味を創り出す。同時に、言いにくい述部を聞き手に察してもらう方法をとることで、話し手の意思決定に聞き手を参加させ、共同作業の会話に引き込みながら断りの了解を得ることができるである。
 4番目にあげた呼びかけの機能については芳賀(1996)は「すみません」とか「待ってください」といった後続の表現が省略されたものだろうと指摘しているが、「ちょっと」自体に感動詞として、注意を喚起する働きがあるとみるべきだろう。ただし「ちょっとこれは何ですか、スープに虫が入ってますよ」のように、相手が目の前にいる場合は抗議など感情を示す目的も含まれるだろう。
 5番目のとがめの機能は、周(1994)が自分の利益を聞き手によって損なわれたと思った時「ちょっと」を用いることでその不満、怒りを表出できると述べているように、「ちょっと」にプロミネネンスを置くことにより話し手の不満や怒り、威嚇、訪問、抗議などの感情を強めることができる。
 そして、6番目の間つなぎの機能には「あの、そのう、ちょっと、こう、なんて言ったらいいのか」のように、言いよどみを埋める間投詞の働きがあり、沈黙を回避しようとしているのであり、「ちょっと」自体に意味はない。
 以上、6つのコミュニケーション機能に整理してみると「ちょっと」が本来の意味である「物理的な量の少なさ」「程度が低いこと」「程度が高いこと」から派生して、聞き手への気配りを押し出しながら、話し手の責任を回避する役割があることがわかる。
 昨日の提示順も①から⑥へ移行していくと、学習者は理解しやすいのではないだろうか。
川崎(1989)がいうように「ちょっと」は会話の人間関係において滑稽油的役割を果たしているものであるが、頻用すると機能が拡散し、むしろ弊害となることなどにも留意する必要がある。
 多様性をもつ「ちょっと」は、教師は教科書に沿って、依頼の場合は「ちょっと」を棒入する。断る場合は「~はちょっと..。」の形で言いさし表現にする際、「ちょっと」の意味用法を関連づけずに限られた文脈での意味用法を教えているのが一般的である。「ちょっと」を適切に解釈するには話し手と聞き手の関係をはじめ、各意味用法・昨日の違いが明確になるような場面設定をできるだけ多く提示することが重要であることを用確認できた。

若者ことば研究序説

昼ゼミの石川です。
私は米川明彦の「若者ことば研究序説」を要約しました。内容は次の通りです。
1.若者ことばの定義と特徴
 若者ことばとは、中学生から三十歳前後の若い男女が仲間内で娯楽・会話促進・連帯・イメージ伝達・隠ぺい・緩衝・浄化などのために使う、規範からの自由と遊びを特徴にもつ特有の語や言いまわしである。その使用や意識には個人差がある。若者語ともいう。

この定義から次の三つの特徴が指摘できる。
1  仲間内のことばということ。若者は青年期心理により仲間を作りやすい。仲間ができれば自然に仲間内のことばができる。仲間内のことばは言い換えれば狭い範囲のことばであり、気楽に話せることばである。ヨソ者と話すと疲れるが、ウチの者とはいくらでも話せる。
2  娯楽や会話促進などのために使うということ。これは若者がその場その時を楽しく過ごそうとする会話の「ノリ」のために使用していることを意味する。楽しければ何でもいいというわけで、ことばが情報伝達の手段よりも娯楽の手段となっている。
3  ことばの規範よりも自由と遊びということ。これは個人の自由を追い求めてきた産物である。なかでも個人の自由をもっとも先鋭的に主張する若者は、服装・持ち物・考え方・行動など、従来の規範から自由になろうとするように、ことばにおいても自由に、悪く言えば勝手に新たに語を作り出し、新たな意味・用法で使っている。規範から自由になれば、ことばが遊ばれるのは当然である。

2.若者ことばの心理的・社会的背景
1  著しい身体的発達・変化によって他人の目が気になり、どう評価されているか敏感になるため、体に関することば、人を見た目で評価することばが若者ことばになって出てくる。
2  青年期は自己を発見する時期であるため、人と比較し、自己に対しても他人に対しても批判的に見ることが多くなり、若者ことばも人をマイナス評価することばが多くなってくる。
3  自我が芽生えるにつれて自己主張が強くなり、拘束を嫌い、自由を求めて親や教師などに反抗するようになる。さらにことばの規範からの自由を求めて新語や勝手な意味・用法の語を次々と作り出す。若者ことばは若いからこそ生まれる世代語といえる。

若者ことばは位相(表現主体が持つ性・年齢・職業・階層・集団という社会的属性、あるいは表現主体が使用する会話や文章という表現用様式、あるいは伝達媒体の種類に基づく伝達様式、あるいは表現主体の心理・言語意識などの特有の様相)の下位分類である社会的位相の中の社会集団のことばである。社会集団はさらに基礎的社会集団(血縁・地縁)と機能的社会集団(政治・経済・文化集団)に分けられるが、後者のことばを「集団語」といい、さらにその中で、若者集団のことばを若者ことばという。したがって、若者ことばは位相語であり、集団語のひとつである。

若者ことばのこれから
1  若者ことばは低年齢化し、幼稚化していく。表現の仕方に変化がみられるであろう。
2  今までよりさらに狭い仲間内に使われることばが増えるであろう。それは暗号化であり、隠蔽化する。
3  メールの普及により、本来口頭のことばである若者ことばに、メールことば、メールの書きことばが増えるであろう。

仲本康一郎(2009)「感性の言語学1――オノマトペ再考」について

こんにちは。夜ゼミ二年の長谷部です。メーリスの見落としで授業支援システムの課題ページに提出してしまい遅くなりました。すみません、今後気をつけます。今回は、夏に調べたオノマトペについて仲本康一郎(2009)「感性の言語学1――オノマトペ再考」の要約をしました。【要約】仲本康一郎(2009)感性の言語学1 オノマトペ再考

会話文における「まあ」について

こんにちは夜ゼミ3年の須藤です。提出遅れて申し訳ありません。春休みで完全に浮かれています。今回は次の論文を要約しました。

川上恭子(1993)「談話における「まあ」の用法と機能(一):応用型用法の分類」
園田国文 14, pp69-78

川上は「まあ」の用法を、発話の冒頭に位置する「応答型用法」と、発話中の文頭または文中に位置する「展開型用法」の二つに分類しており、相手の発話内容に対する受け取り方を表示しつつ、自分の発話内容を展開させていく用法を応答型用法としていて、先行文が判定質問文、説明要求質問文、依頼文・勧誘文、平叙文・詠嘆文の四つの場合についての「まあ」の用法をまとめている。

(1)判定要求質問文に対する応答
質問の中には応答者が答えたくない場合や事情が複雑あるいは曖昧で答えにくい場合があり、このような場合に「まあ」を用いて大まかに答えられる。

(2)説明要求質問文に対する応答
この場合も、基本的には(1)同様に答えにくい質問に対して「まあ」が用いられるのだが、(1)は肯定または否定の応答が求められる質問文で、(2)は具体的な説明や理由を答える質問文である。例えば「応答回避」の場合では次のようになる。
(a) A「恋人はいるんですか。」
  B「まあ、いいじゃないですか。」
 (b) A「どんなところがお好きなんですか。」
  B「まあ、いいじゃないですか。」
「まあ」を用いることで返答を曖昧にすることができる。

(3)要請・勧誘文に対する応答
要請・勧誘に対する応答に「まあ」を用いると、「いろいろな事情があってすぐには受け入れられないが、とりあえず」という気もちが表れ、結果的に消極的な承諾となる。

(4)平叙文・詠嘆文に対する応答
ここでの「まあ」は応答というような受動的なものではなく、積極的に自分の発話を展開していくための前置き表現であり、相手の発話に対して何らかのコメントを加える形で談話を展開していく用法である。
 (c) A「女房に逃げられたんですよ。」
   B「まあ、人生いろいろありますよねえ。」

以上をまとめると、「まあ」の基本的な意味は「慨言」で、「いろいろな問題はあるにせよ、ひとまずここでは大まかにまとめて述べようとする」姿勢や態度のことである。この基本的意味が使われ方によって「どちらかと言えば」「とりあえず」「だいたいのところ」などといったさまざまな対象的意味を実現しているのであり、先行発話を受けつつ、次への展開をスムーズに誘導するという調節機能を果たしているのである。

私の研究内容はブログで用いられる「まあ」についてなのですが、今回の論文では会話内での「まあ」を要約したことで、また別の観点での「まあ」の用法を認識できたので、今後は「まあ」がブログで用いられる場合、つまり会話の対象がいない場合との比較に繋げていきたい。

それでは3年生の皆さん就活頑張ってください。

接続詞「だって」の談話における機能

こんにちは。昼ゼミ3年の狐塚です。寒いですね。最近いつのまにかこたつで寝てしまっていることが多いです。なんででしょう、妖怪かなんかの仕業ですかね?わたしはふとんに行きたいのに…!

さて、わたしが紹介する論文はこちらです。
嶺田明美・富田由布子「接続詞「だって」の談話における機能」『學苑』 pp.29-A41
わたしは現在大学生がよく使用する「ゆうて」という言葉の研究をしています。ですから、談話標識(ディスコースマーカー)に興味があり今回この論文を選びました。

まず「だって」の意味について先行研究で述べられていることを交え説明する。
「だって」は相手に叱咤されたときや、非難されたときの言い訳の場面で多く用いられる。この「だって」の意味として理由説明だけでなく、正当化を含むことが予想できるという。メイナード(1993)は「話者が自分の立場を弁明し、正当であると理由づけする、つまり『自己正当化』していると考えられることができる」という。またメイナード(1993)は、「だって」を談話標識として解釈した。前情報や共通の話題をX、「だって」に続く表現をY、とすると[XだってY]では話者が、相手が『反対』または『挑戦』した、またはする可能性があると認められるコンテクストで、自分の立場を正当化する意図を前もって知らせる役目をする」と述べている。

一方、蓮沼(1995)ではXがYに必ずしも先行しないと論じ、「[OけれどもP(なぜなら)Qだから]で示せるような3項の関係づけに関わる機能を基底に有する」と述べている。

また、沖(1996)は上記の参考文献を踏まえ、「だって」に必ずしも逆接の関係がある訳でないと述べ、「相手側の事情を考慮・推測した理由述べ」として働く「だって」の「新用法」があると述べた。それは、「だって」が正当化するのは自己だけでなく他者にも及ぶということであり、「対立する立場=聞き手」ではないということである。

次に「だって」と文末表現の関係について述べる。
「だって」と共起する文末表現の中で1番多く見られたのが「~じゃない(じゃん)」であった。「~じゃん」や「~じゃない↑」は話し手と聞き手が情報を共有している場合に用いられる。「だって」の文末で「じゃん」を用いることで、支持する立場の正当化を図り、共有する話題に念を押したり、確認要求したりする働きがある。「だって」の理由説明をするので、共起されやすい。

続いて多く見られたのが、「~もの」「~もん」である。これらは、話し手が、自分の態度・判断を正当化する根拠を示し、相手に抗議する気持ちを表す。「~することが一般的だ」という意味合いを含むことによって「仕方ないでしょう?」と言外に表わし、自分の発言や立場を正当化している。主観的根拠しかないとわかっていながらも、対立相手に自分の立場を認めてもらいたいという甘えが出ている。

つぎは「~(だ)から」という文末表現である。「だから」は原因・理由を表す接続助詞で
「だって」の基底機能である理由説明に呼応した表現だ。「だって~(だ)から」では必ず正当化の根拠として聞き手にとっては新情報となる事柄が持ちだされる。しかし、話し手は聞き手にとって情報が新情報であることを理解しており、正当化が成功することは始めあまり期待しない。その上で新情報により相手の注意を引き、相手が聞きたがるであろう詳細でさらなる正当化をはかる。

この他、話し手より相手の方が情報をよく知っている場合には「~だろう」「~でしょう」の推量、相手の意思を尋ねる余地なく話し手の意思を推し出す場言いに使用される「~よ」、情報を相手と共有しようとしたり、共感を求めたりする場合は「~ね」などが付く。

まとめ・考察
文末表現は「だって」文との正当化を成功させるために、それぞれ効果的に用いられている。つまり、文末表現も話し手の指示する立場の正当化という役割を担っており、共起する文末表現には、聞き手に対して明確な訴えであることを示すことができるという機能が必要である。また根拠として取り上げる情報についての、話し手の自信や情報所有者の詳しさ、情報の所属領域によって使い分けられていることがわかった。
文末表現との呼応を意識したことがなかったため、今後自分の研究に生かしたい

《参考文献》
沖裕子(1996)「対話型接続詞における省略の機構と逆接-『だって』と『なぜなら』『でも』-」(中篠修編『論集 言葉と教育』研究叢書187 和泉書院)
蓮沼昭子(1995)「談話接続語『だって』について」(『姫路獨協大学外国部紀要』8 姫路独協大学外国語学部)
泉子・K・メイナード(1993)「第10章 会話表現の対照 ―接続の表現をめぐって―」(『会話分析』 くろしお出版)

動詞「ダブる」の意味分析

こんばんは。就職活動で毎週東京と地元長野を行き来している夜ゼミ3年の成田です。移動の回数が多くて大変ですが、東京-長野間は割と移動しやすいこと、高速バスが空いている時期であることは良かったなと思っています。さて、今日は以下の論文について簡単に報告します。

李澤熊(2009)「動詞「ダブる」の意味分析―「重なる」と比較して―」『名古屋大学日本語・日本文化論集』第16号、pp.27-44

この論文は、動詞「ダブる」の意味を明確にし、多義的別義(意味区分)の関連性を明らかにすることを目的としています。そのために、李は隠喩(メタファー)と換喩(メトニミー)の観点からの考察、類義関係にある動詞「重なる」との意味の比較を行っています。

まずは、「ダブる」の多義的別義と別義ごとの関係についてです。「多義的別義」とは、「意味区分」を指します。aの「基本義」は「プロトタイプとなる意味のことです。

「ダブる」の多義的別義

a(基本義) 〈同様の、また異なる複数の事柄が〉〈本来そうあるべきでない同一の空間に置かれる〉

b 〈複数の事態が〉〈同一の時間(帯)に〉〈起こる〉

c 〈複数の事柄の間で〉〈何らかの点で〉〈一致する要素が〉〈認められる〉

d 〈落第(留年)する〉

(1)ガチャガチャで景品がダブったことがある。

(2)友達の結婚式の日程がダブってしまいました。

(3)前作の内容とダブる部分がある。

(4)私、高校、出席日数足りなくて一年ダブって、結局中退しちゃって。

「ダブる」の多義構造

李は、「ダブる」の多義構造の関係について、bはaの基本義が隠喩からできた別義、cとdはaの換喩でできた別義だと説明しています。隠喩・換喩の定義は籾山・深田(2003)に従っています。

隠喩(メタファー):2つの事柄・概念の何らかの類似性に基づいて、一方の事物・概念を表す比喩。

換喩(メトニミー):2つの事物の外界における隣接性、さらに広く2つの事物・概念の思考内、概念上の関連性に基づいて、一方の事物・概念を表す形式を用いて、他方の事物・概念を表す比喩。

次に、「重なる」との比較を行うため、「重なる」の多義的別義を述べています。

「重なる」の多義的別義

a 〈ある事物の〉〈上下・前後に〉〈同類または他の事物が〉〈(知覚上)密接して〉〈位置する〉

b 〈複数の事柄が〉〈同一の中小(認識)空間に〉〈知覚上密接して〉〈位置する〉

c 〈複数の事柄の間で〉〈何らかの点で〉〈一致する要素が〉〈認められる〉

d 〈複数の事態が〉〈同一の時期・時間(帯)に〉〈起こる〉

e 〈同様の傾向の事柄が〉〈連続して〉〈起こる〉

f 〈ある事柄が〉〈何らかの結果を引き起こす〉〈さらなる要因として〉〈認められる〉

(5)お皿とお皿が重なって取れなくなった。

(6)太郎と次郎の声が重なって聞こえた。

(7)内容的にかなり重なる部分がある。

(8)秋分の日と日曜日が重なった。

(9)山田家に不幸が重なった。

(10)高熱が続いた原因は、細菌性胃腸炎等に加え、風邪も重なったからである。

「ダブる」と「重なる」の類似点

「ダブる」と「重なる」の類似点を、置き換えが可能な例文を使用して明らかにします。

(11)野球部に入った当初、捕手の姿を見ると隆也の姿がダブって(重なって)、涙をこらえるのが大変だった。

(12)DVDレコーダーを使っていると、録画したい番組が重なって(ダブって)しまうことがある。

(13)今回の5機種の商品構成は新『DIGA』と重なって(ダブって)おり、先行する松下に対抗するには力不足。

(11)は「ダブる」の多義的別義a、(12)はb、(13)はcで用いられる場合です。この3つの意味は、「重なる」と共通するため置き換えが可能です。

「ダブる」と「重なる」の相違点

○置き換え可能だが意味が異なる例

(12)松村は以前日テレ「すすめ電波少年」が野球の関係で放送時間がずれてしまい、結果として彼が生出演していたテレ朝「サンデージャングル」とダブって(重なって)しまったことを後日の「電波少年」でネタにされていたけど、今度は確信犯である。

(12)の例からは、「ダブる」の場合は好ましくないというマイナスの評価的意味を持つためプラスの評価的意味に関しては使いにくいのに対して、「重なる」の場合はプラスの評価的意味、マイナスの評価的意味、中立のいずれの場合にも用いられることが言えます。

○置き換え不可能な例

(13)アナゴの豊潤な味と洋風仕立ての味が重なって(??ダブって)、食のハーモニーが奏でられています。

(14)曲と動きと衣装がぴったりと重なってた(??ダブってた)気がする。

(13)は、プラスの評価を表す文であるため、「ダブる」が使えません。(14)は、「重なる」が別義aから拡張された意味で用いられる場合に、「知覚が上密接する」という意味内容が完全に消え去るわけではないことを表しています。

以上から、「ダブる」と「重なる」の類似点と相違点は、以下のようにまとめられます。

類似点は、「複数の事柄が同一の認識空間に存在する」「複数の事態が同一の時間・期間(帯)に起こる」「複数の事柄の間で何らかの点で一致する要素が認められる」という意味で使われることです。

相違点は2点あります。1点目は、「ダブる」は別義aの持つ「本来そうあるべきでない」という意味特徴から、「プラスの評価的意味」を持たないのに対し、「重なる」は、「評価的意味」に関しては「中立」であることです。2点目は、「ダブる」は単に「複数の事柄が同一の認識空間に存在する」、「複数の事態が同一の時間・期間(帯)に起こる」、「複数の事柄の間で何らかの点で一致する要素が認められる」ということを表すのに対し、「重なる」は、拡張された意味で用いられる場合でも「知覚上密接する」という意味特徴が完全に消え去るわけではないため、「知覚上密接する」というニュアンスが何らかの形で現れる場合があることです。

私は「る」による動詞化の研究をしています。後期の発表では、動詞化の際に意味が多様化し、それによって使い分けがなされている語の研究を紹介しました。今回はそれと同様に、意味が多様化した「ダブる」について、類義関係のある「重なる」との比較をしているという点でこの論文を紹介しました。「る」によって動詞化された動詞は、造語から使用のスピードは速いのですが、廃れていく言葉も多くあります。定着する言葉には意味の特殊性という要素もあると思うので、今後もそういった意味の面にも注目していきたいと考えています。

この論文では、まず「ダブる」の意味の関係について述べていますが、元の意味が隠喩や換喩によって拡張されていると述べられているだけであったため、この項目については掘り下げが足りない印象を受けました。次の「ダブる」と「重なる」の比較については、例文を挙げて置き換えが可能な場合と不可能な場合が紹介されていてわかりやすいと感じました。しかし、「ダブる」の「留年する」という意味による使い分けについては言及されていませんでした。「ダブる」の意味拡張による二語の使い分けについても、注目すべきだと感じました。