「関係性」に基づくメトニミー

こんにちは、夜ゼミ2年の志村です。先日、大雪の中成人式に行ってまいりました。会場内以外では凍えた記憶しかありません。高校入試日も大雪、入学式は嵐、修学旅行にはインフルエンザ大流行、大学入学直前に大震災で入学式中止・・・。1992年生まれの呪いはどこまで続いていくのでしょうか。

 

さて、今回私は山本幸一(2006)「「関連性」による意味拡張としてのメトニミー」『日本認知言語学会論文集』第6pp299-309. を要約しました。

 

この論文では、「隣接性(contiguity)による転義」(佐藤、瀬戸)や、「同一概念領域内での転義」(Group μ 他)のようなメトニミーの定義の先行研究に対して、以下の3つの問題点を指摘し、これらの問題点を解決し、メトニミーの成立条件となる定義を探るためには、「関連性」という概念が適切であるということを主張している。まず下記の問題点①を具体的に説明し、並行して「関連性」の説明と応用を行っている。次に問題点②、③について詳しく言及し、最後に筆者が主張するメトニミーの定義をまとめている。

 

①「隣接性」という概念は、具体的な「外界における空間的隣接性」と抽象的な「概念における隣接性」にわたる曖昧な概念となっており、「隣接性」という概念が整理されていない。

②メトニミーを「同一概念領域内での転義」、メタファーを「異なる概念領域間での転義」としているが、「概念領域」の異同で必ずしも両者を区別できるわけではない。

また、「概念領域」は静的な意味を内包するため、動的なメトニミーのプロセスを説明するものとしては不適当である。

③「隣接性」や「同一概念領域」を用いた定義が、メトニミー成立の必要条件を捉えていないため、「隣接性」や「同一概念領域」を満たしていても、メトニミーが成立しない場合がある。

 

 筆者はまず、主張する定義の基になるものとして、籾山(2001)のメトニミーの定義を挙げている

 

メトニミー(metonymy

 二つの事物の外界における隣接性、あるいは二つの事物・概念の思考内、概念上の関連性に基づいて、一方の事物・概念を表す形式を用いて、他方の事物・概念を表すという比喩。(籾山(2001))

 

筆者はまた、先行研究の問題点①の「隣接性」の不適当性を具体的に示すために、佐藤(1978)、瀬戸(1997)、Lakoff and Johnson1980)、Ungerer
and Schmid
1996)が分類しているメトニミーとその転義の型を「外界における空間的隣接性」と「概念における隣接性」に分けて、具体例を挙げて説明している。[ ]が転義の型である。文字通りの意味を「ソース」、意図された意味を「ターゲット」と表す。

 

外界における空間的隣接性

1)当社は長髪は雇わない。        [部分→全体]  (包含)

2赤頭巾がやって来た。         [着用物→主体] (付属)

3ワシントンモスクワの交渉。     [場所→機構]  (位置)

4サックスが風邪を引いて休んだ。    [道具→使用者] (近接)

 

概念における隣接性

5頭脳を試すいい機会だ。        [場所→機能]

6)彼はフォードを買った。        [生産者→生産物]

7きつねうどん             [主体→関連物(好み)]

8スコッチを飲んだ。          [場所→生産物]

9チェルノブイリを忘れるな。      [場所→できごと]

 

「外界における空間的隣接性」の空間的関係を「包含」、「付属」、「位置」、「近接」の4つに分類し、それらを以下のように説明している。

 

「包含」=空間的関係として、外界において客観的に存在しうる(誰が見ても、ソースとターゲットの間に関係が認められる)関係である。

 

「付属」=「包含」の比喩的拡張である。

 

「近接」=外界において、客観的に存在するわけではない(誰が見てみも、ソースとターゲットの間に関係があると認められるわけではない)。「近接」の関係があるかどうかを区別するのは、認識者の捉え方次第である。

 

「位置」=外界において、客観的に存在するわけではない。存在物と空間・場所を、特定の「位置」という関係があると認めるかどうかは、認識者の捉え方次第である。

 

空間的関係として外界に客観的に存在しうる関係は「包含」のみであり、(その意味拡張としての「付属」も入る)、その他の空間的関係は、空間的関係自体がメトニミーを成立させる特徴とはならない。筆者はこれを根拠に、メトニミーの定義の「隣接性」は、「外界における空間的隣接性」としては不適当であると主張する。

筆者は次に「関連性」について説明している。「関連性」とは、「部分」(ソース)と「全体」(ターゲット)との関係が「特徴」と「主体」という関係として捉えられることである。筆者はこれがメトニミーの成立に必要であるとして、それ自体がメトニミーを成立させる特徴とはならない「近接」や「位置」の空間的関係も、この「関連性」が生じてはじめてメトニミーが可能になると説明する。

しかし、ただ「特徴」と「主体」という関係があれば必ずメトニミーが成立するというわけではない。「関連性」が生じるためには、次の例(10)のようにソースがターゲットに対して識別可能な特徴(=識別特徴)となることが必要であるという。

 

10a メガネがやって来た。         [着用物→主体] (付属)

10b ✽ズボン/靴下/ベルトがやって来た。   [着用物→主体] (付属)

 

  筆者は次に問題点②、③について3つの点から指摘しながら、問題点①の「概念における隣接性」についての不適切性を同時に論じている。

  まず先行研究をあげて、「メトニミーが「同一概念領域内での転義」、メタファーが「異なる概念領域間での転義」」という概念領域の視点から見たメトニミーの定義について、以下の3つの問題点を挙げている。

1つ目は、同じ概念領域にあるからといって、つまり概念内で隣接しているからといって、要素間にいつもメトニミーが成立するわけではないことである。 メトニミーが成立するには識別者が2つの要素を関係付けて捉えるという動的なプロセスが必要であり、筆者はこれを根拠に、メトニミーの定義の「隣接性」は、「概念における隣接性」としても不適当としている。

2つ目は、「概念領域」による説明にも拘らず、実際には、以下の例(11)のように必ずしも「概念領域」の異同によってメトニミーとメタファーを区別できるわけではないことである。

3つ目は、メトニミーの転義に関与するのが「1つの概念領域」に限られず、複数の「概念領域」が関与しているものもあることである。

以上の点から、2つの要素が同一概念領域に存在するという静的な関係ではなく、2つの要素を関係付けて捉えるという動的なプロセスによってメトニミーの成立を説明する必要があるとしている。

 

11a 彼女はシンデレラだ。 「劇でシンデレラを演じる女の子」(メトニミー)

11b 彼女はシンデレラだ。 「シンデレラのように虐げられている女の子」(メタファー)

 

ここまでの主張を踏まえて、筆者はメトニミーと関連性を以下のようにまとめている。

 

 メトニミー(metonymy

外界の2つの事物間、あるいは2つの概念間に「関連性」が捉えられる場合、一方の事物・概念を表す形式を用いて、他方の事物・概念を表す認知能力。

 

 関連性(relation

2要素が、「特徴」と「主体」という関係として捉えられること。尚、「関係性」における「特徴」は、「主体」を他と識別できる「識別特徴」でなくてはならない。

 

サブゼミの研究でメタファーやメトニミーについての論文をたくさん読んできたが、この論文は「関連性」という独自の視点から新しい定義を求めている点が興味深かった。しかし、問題の指摘と筆者の主張が同じ章に混在し、代わる代わる出てくるので主張と指摘が把握しづらい印象だった。また、「外界における空間的隣接性」の4分類の説明が乏しく、分類の基準や定義が明記されていなかった。内容については、「関連性」によるメトニミーの定義の主張は「特徴」と「主体」という関係で説明しているが、「今日は手持ちがない」のような[手持ち→お金](全体→部分)のメトニミーにおいては「手持ち」が「お金」の特徴と言うことはできないので、「関連性」では説明できないのではないかという疑問が残った。

 

籾山洋介 2001 「多義語の複数の意味を統括するモデルと比喩」 『認知言語学論考』No.1 pp.29-58

佐藤信夫 1978 『レトリック感覚』講談社

瀬戸賢一 1997 「意味のレトリック」『文化と発想のレトリック』研究社

Lakoff
and Johnson
 1980 Metaphors We Live By,Cicago:University of CicagoPress.

Ungerer
and Schmid 1996 An Introduction to Cognitive Linguistics,London and New
York:Longman.

Group
μ 1981 General Rhetoric,translated by Burrell,Paul B.and Edgar M Slotkin:The
Johns Hopkins University Press.

「よろしかったですか」について

こんにちは。昼ゼミ3年の佐々木です。

ユーキャンのCMの「問題出して大丈夫?」という言葉がすごく気になっています。卒論に使えるでしょうか。

卒論のテーマで接客表現の「大丈夫(です)」について調べているので、今回は別の接客表現について調べてみることにしました。私が紹介するのは以下の論文です。

阿部 新(2011) 「「よろしかったですか」等の表現の自然さに関するアンケート調査の分析」

『名古屋外国語大学外国語学部紀要』, 41,pp. 127-145

 ここ十年くらいの間にだいぶ浸透しつつある、接客場面での表現。塩田(2002)によると、特にファミレスやコンビニエンスストアでよく使われる表現として「ファミ・コン方言」という社会方言に分類することが出来る。

本論文中では「よろしかったでしょうか」に限定して調査を行い、日本全国の満20歳以上の男女2000人に調査を行い、以下のような結果を得た。

Ⅰ従来使われている以下の「確認用法」と呼ばれるものについては、違和感は生じない。

[1]記憶確認用法

(1)店員「さきほどご注文されたのはみそラーメンでよろしかったでしょうか。」

[2]妥当性確認用法

 (2)店員「ご自宅用に包装してしまいましたが、よろしかったでしょうか。」

 これらはいずれも過去の事柄に対する確認の為、正しい使い方である。

Ⅱ確認すべき記憶がないにも関わらず用いられる「いきなり用法」へは許容度が下がる。

 (3)店員「いらっしゃいませ。店内でお召し上がりでよろしかったでしょうか。」

 調査の結果Ⅱに関して北海道・愛知で聞いたことがある人が全国平均より多かったため、「方言起源説」を提示した。北海道を含む東北地方では「~している」というアスペクト表現が「シテイタ」と表現される現象があること、挨拶言葉で「モシモシ佐藤デシタ」のように「タ」を用いる地域が多いことから、「よろしかったですか」が用いられるようになったという推測である。

 一方愛知を含む東海地方では、現在の状況をじかに示さず完了したかのように示すことで丁寧さを表現しようとする傾向があるという。「よろしかったですか」に関しても、客が到着する前から何らかの予備的配慮を行っていたことを過去時制によって示し、配慮を続けていたことが丁寧さに繋がるという意味効果を帯びることによって、過去時制が丁寧さを帯び、用いられるのだろうと推測されている。(渡邊,2007)   

しかしこれらの方言の使用者たちに「よろしかったですか」の方が「よろしいでしょうか」より丁寧に感じるか調査しても全国値とさほど変わりなく10%超程度の回答だったことから、この説は断定しがたい。では何故このような表現が愛知で広がっているのか。それを調べる為に愛知県の大学生に対し、「よろしかったですか」という表現並びにそれに類する表現の「自然さ」に関するアンケートを実施した。愛知を中心に東海地方に住む67名の男女(男性17名,女性50名)から、それぞれ以下の結果が得られた。

(4)店員「ご注文は以上で…   」に続く各表現の自然さ

よいですか・いいですか<よかったですか<よろしかったですか<よろしいですか

よい・いい<よかった

よろしい>よろしかった

 なお、男性に限って言うと、50代店員が用いる場合に関しては「よろしいですか」より「よろしかったですか」の方が自然に感じるという結果が得られた。この結果は、「よろしかったでしょうか」の方が「よろしいでしょうか」より丁寧に感じるという回答がどの世代よりも50代が高かったという塩田の研究から、聞き手も50代の話者なら実際に使用する人数が多いためそのように感じるのだろうと推測される。以上から得られた筆者の結論は以下の二点である。

①   東海地方では年配の話者は過去時制を用いた接客表現を用いるのが自然だとする傾向がみられる。

②   男性回答者は女性回答者に比べて過去時制を用いた接客表現を自然だとする傾向がみられる。

 終わりに。まず北海道の方言起源説について。私は北海道出身だが「~タ」の習慣がなく、方言で「~タ」が多用されるため「よろしかったですか」も使われるようになったとは考えがたい。周りの人間も北海道より東京の方が「よろしかったですか」をよく使っているように思える。関東圏の方が店舗数が多い割にマニュアルが整っておらず、自分や先輩の言語知識だけに頼った結果このような表現が生まれたのではないか。地元北海道でどれくらい使用されているのかを調べ比較すると面白いかもしれないと思った。筆者の東海地方に関するアンケートは人数も少なければ男女比も偏っているため正確な傾向とは言い難い。他に論文でもっと正確に裏付けるようなデータがないか、引き続き研究を進めていきたい。

「ヨウダ」の意味に関する認知言語学的考察

 こんにちは。夜ゼミ2年の山崎です。寒い日が続いていますが、試験期間もあと少しで終わりですね。今日も私は1限から試験があり、ここ数日間は試験だらけで寝不足気味です。あと3科目も試験が残っているので、眠気に耐えて頑張りたいと思います。

 さて、今回私が要約した論文は、飯干和也(2008)「「ヨウダ」の意味に関する認知言語学的考察」(熊本県立大学大学院文学研究科論集 1.lxxxi-xcvi.2008-09)です。私は後期のグループ研究のテーマが、「認知言語学」で主にメトニミー、メタファーを扱ってたのでこの論文に興味を持ち選びました。以下、要約です。

 この論文は幅広く意味の解釈できる「ヨウダ」が複数の意味を表すようになった経緯を、特に「比況」や「推量」と呼ばれるものを中心として認知言語学における概念を用いて考察している。
 まず、考察をするにあたって飯干(2008)は『CD-ROM版 新潮文庫の100冊』(1995 新潮社)の中から戦後に書かれた作品(日本文学48作品、海外翻訳文学1作品)を用いて、主節、並列節、確定条件節に表れた文末用法の「ヨウダ」を抽出している。「ヨウダ」の形態については「ヨウダ」「ヨウダッタ」「ヨウデス」「ヨウデシタ」「ヨウデアル」「ヨウデアッタ」を、さらに、用例数の最も多かった動詞に接続した「ヨウダ」961例を考察対象としている。
 
(1)槍を持つ一隊が進む様は、林が動くようだった。―【比況】

(2)犬は一匹だけではなかった。五、六匹はいるようだった。―【推量】

(3)(社長専用車が近づいてくるのを見ながら部下が)
  社長、お車が参ったようです。―【婉曲】

 飯干(2008)は「ヨウダ」という語の成立について、「ヨウダ」またその古語である「ヨウナリ」は、「ありさま、様子、様」の意味である形式名詞「よう(やう)」に断定の助動詞「だ」「なり」が接続したものから成り立っていると考えた上で、「……のありさまです」「……の様子です」の意味に解釈できるとしている。この意味を「様態」と呼び、「様態」を「話者が外界に実在する視覚で捉えた事態について「そのような様である」と単に述べること。話者の心的態度は「それがそのような様である」という断定のみ。」と定義している。
 
 本来は「様態」を表すに過ぎなかった「ヨウダ」が認知言語学で言われるメタファーやメトニミーが作用する文脈において使われることにより、話者が「比況」や「推量」の意味を見出し、それが繰り返されるうちに「比況」や「推量」の意味と用法が「ヨウダ」のうちに取り込まれていった。そして、この過程は「語用論的強化*1」によって説明が可能であると、飯干(2008)は述べている。
*1「語用論的強化」…ある表現をある状況の下で実際に使用する際の話者の解釈が、いつの間にか次第にその語の意味に取り込まれてしまうこと。)

 「比況」の「ヨウダ」については、メタファーの概念に基づいて見ている。ある事態をより正確に理解、表現するために、その事態と類似した別の事態から共通点を見出して例えている。このようなある事態の様態をメタファーに基づき別の事態の様態に例えて表現することが頻繁に行われると、話者はいつの間にか比況を表すことが「ヨウダ」の用法であるのだと認識し、聞き手も「ヨウダ」を比況として解釈するという現象(=「語用論強化*1」)が起こる。

 「推量」の「ヨウダ」については、メトニミーの概念に基づいて見ている。話者が確実に認識している事態Aがあり、話者がそうではないかと思う事態Bがあると仮定して、話者が参照点能力によって事態Aから事態Bを把握し、事態Bについて「……そういう様です」と様態を聞き手に伝える。そして、事態Aと事態Bは因果関係にあることから、事態Bに言及することは事態Aが起きた原因や理由を推測することに等しいことになる。そこで話者は「ヨウダ」には「様態」ではなく、「推量」を表す役割があるのだと認識し、やがて完全に「推量」を表す形式として解釈されるようになった(=「語用論強化*1」)のではないかと飯干(2008)は述べている。

 最後に飯干(2008)は、「ヨウダ」の解釈が揺れる時についても触れている。

(10)「大抵のスポーツは体をいびつにしちゃうんです」と店員が教えてくれた。「洋服にとっていちばん良いのは過度な運動と過度な飲食を避けることです」私は礼を言って店を出た。世界は様々な法則に満ちているようだ

 (10)のように、「あるれっきとした確かに観察される事態があり、話者はその事態を成立させた原因や理由が何であるか理解しようとしてはいるのだが、当然の帰着として考えられる元の事態が何なのか定かでない」といった文脈において、「ヨウダ」が「比況」なのか「推量」なのか解釈が難しい。そして、こういった場合にこそ「そのような様です」とただ単に述べる機能を持っている「様態」の意味に解釈するのが最もしっくりくるのではないだろうかと飯干(2008)は述べている。

 最後に、「ヨウダ」の「婉曲」の意味、用法についてほとんど触れられていなかったので気になりました。

「トコロ」の意味と機能

おはようございます。夜ゼミ2年生の齋藤です。来週から車学(こっちではそう言わないそうですね)で車の免許をとってきます。すぐとれるか、不安です。

期限ギリギリに投稿失礼します。
今回はこの論文について紹介させて頂きます。前回のグループワークで「ところ」について発表し、「ところ」について興味がわいたためその先行研究より前の論文について、調べました。
寺村秀夫(1978)「『ところ』の意味と機能」『寺村秀夫論文集Ⅰ』pp.321-336、くろしお出版

この論文では形式名詞について説明で「ところ」という言葉について取り上げ、論じています。また「ところ」が名詞の性質を保持しているかについては、前接の形式(連用修飾ができるかどうか)、後接の形式(格助詞の接続)に注目して名詞かどうか判定しました。
寺村は構文的機能の段階で大きく2つに分けて論じています。
Ⅰ構文で実質的に名詞としての性質を持ったまま使われる用法

(1) ここはコピーをとるところです。
(2) 百メートルほど行ったところに野井戸があった。
(3) 何かあったら、私のところに来なさい。

実質名詞としての「ところ」の用法は意味がおおむね安定しており、上のような「場所」「空間」の一部を表すとしています。構文について見ていくと(1)では「ところ」と修飾する部分の関係が内の関係になっており、この場合は「ところ」がそのまま「場所」で言い換えられます。(2)では、外の関係となっているため、これはできません。また、(3)のように場所を表さない語(私、本、時計など)につく場合「~のところ」となります。

(4) 私はこの本から読みとったもの、わからないところを告げて、ケルケの教えを求めた。
(臼井吉見「事故のてんまつ」)
(5) あたしはね、そそっかしい忘れっぽい男だよ、でもね、今までに嘘は、ひとかけらもついたことがない。ここがわたしのいいところだ。(加太こうじ「落語」)

また(4)(5)の用法を見ると、(4)は空間の一点と取れるが、(5)は人間の性格の一部として使われています。これらの共通点を筆者は「全体の中の一部」とし、「ところ」の用法はその一点に焦点を当てる用法だとしました。
Ⅱところの形式化した用法(接続助詞、文末助詞)

(6) 警察が調べたところ、ポケットに……中略……が入っていた。(新聞)

「ところ」が名詞性を前節との関係で持ちながら、後接では異なった場合がこの形です。(6)は副詞的に後接と関わります。

(7) ニューヨークのあるカメラマンが、ビルの窓から入りこもうとする男を見つけて泥棒と直感、盗んだ荷物を持って立ちせるところまでシャッターを切りつづけた。二十六歳になるこの男、そんなこととは夢にも知らず、カーテンまで閉めて行こうとするところをつかまった。(UPIサン―朝日新聞)
(8) お忙しい所をお邪魔します。

(7)の「ところを」の形はある出来事の一場面に焦点をむける用法として使用されます。この場合、のちに続く動詞は「見る、見せる、描く」などの場合が多いです。(8)の場合などの視覚情報でない「ところを」の場合、通常の進展が遮られたというニュアンスを話し手が含みます。

(9) もともと西洋と日本では言葉のジニアスが違うのであるから、模倣したところで程度は知れたものである。(谷崎潤一郎「文章読本」)

(9)の「ところで」は副詞的に後ろにかかっています。「仮に実現しても不十分だ」という意味で、「~(し)ても」で置き換えられます(ただし、逆に「~しても」→「ところで」はできないものもある)。

(10)「よかったわね。東京だったら、店も何も滅茶苦茶になっているところだわ」

文末の助動詞化する「ところだ」は「~する」「~した」「~している」「~していた」の動詞がつくことで、アスペクトの表す形になります。しかしここでアスペクトを表すのは動詞の形であり、「ところだ」はその中で現在に焦点を当てている。(10)は予想されることに対してそうならないことを表します。

自然談話資料にみられる日本語母語話者の「なんて」「なんか」「など」

こんばんは。昼ゼミ3年下山 千亜紀です。とうとう選考も始まり、ドキドキな日々です。スーツは寒いので雪だけは降らないよう祈っています。皆さんも体調にお気を付けください。
ところで、以下の論文を紹介したいと思います。
鈴木 理子(2003) 「自然談話資料にみられる日本語母語話者の「なんて」「なんか」「など」」
『小出記念日本語教育研究会 論文集 No.11 小出詞子先生追悼号』pp,59 -79

「なんて」「なんか」「など」の使用実態と互換性を調べた論文です。

(1)ぼくなんかこれからだもんね。
(2)ぼくなんてこれからだもんね。

「なんて」と「なんか」には互換性があると分かったが互換出来ない例もあった。

(3)前はなんかあのー、現金なんか引き出す機械、ああいうの台数が少なかったんだけど、
(4)前はなんかあのー、現金なんて引き出す機械、ああいうの台数が少なかったんだけど、

これは「なんか」が連体修飾節中にあるからで、「なんて」に置き換えると提題性が強いために節の中に収まりきらず、その外までかかってしまい不自然な文になると考えられる。「なんか」に引用の機能がないため「なんて」に置き換える事が出来ない、としておく。

また、名詞と格助詞のあいだに「なんて」は使えない。

(5)表情なんかが、全部すっぽりはいるわけ、
(6)みんな、やっぱりアパートなんかに住んでますからねぇ(後略)
(7)いや、だけど、立ち読みで読んだのがけっこうあるよ。
あの、単行本なんかで。
(8)日本の喫茶店なんかの、典型的。

これは、「なんて」が格助詞や係助詞を後接させる性質を持っていないためである。

また、「など」との関係では、「など」、「などと」「などという」の形で、構文論的には「など」も使用可能であるにもかかわらず、用例は見られなかった。よって、話し言葉では「など」は用いられないと言えそうである。ただし、これについては更に場面や会話相手等社会的要因の分析が必要である。

さらに、先行研究では否定の形や語と共起する場合が多いとされているが、今回の資料では多くは見られず、「なんて」は全61例中9例、「なんか」は全59例中2例であった。
本調査結果の詳細な分析を行い、各機能や互換の可否の原因の考察、「って」等同様の機能を持つ他形式との比較を行うと共に、個人差や年齢、場面等社会的要因の影響についても考察を進める。併せて、他資料との比較も行うことを課題とする。

今回の論文で筆者は、分析を行い詳細に分けて終えていた。次回で詳細な分析を行うと述べていたので、今回の論文からは用例を生かしたいと思いました。また、「なんか」の引用機能は多く見られるので証明すべきだと思いました。

役割語の<神様>キャラクター言葉について

こんばんわ。昼ゼミ3年の張です。
春休みに入る寸前は、毎日ただただこたつに入ってごろごろしたい気分です(苦笑。
寒い日が続きますが、皆さんも風邪など召されませぬようお気を付けください。

今回紹介したい論文はとても面白いので、役割語について興味のある方、是非読んでみて下さい。

さて、本題に入りたいと思います。

秋月高太郎「ウルトラマンの言語学」(2012)『尚絅学院大学紀要』(63)、 p17-30

ある男子大学生が自分のことを友人と話しているときは「オレ」といい、就職面接では「ワタシ」という。社会言語学ではこのような話し手が場面や相手によってことばを使い分ける現象を「スタイル・シフト(style shifting)」と呼ぶ。つまり話し手は場合によって、それにふさわしい会話スタイルの選択を行うのである。しかし現在女性が自分のこと「ボク」と呼ぶ、いわゆる「ボクっ子」については、スタイル説は十分説明できない。それに対して、金水(2003)は「役割語」という概念を導入した。さらに定延(2006)はこれを発展させ、役割語の使用によって繰り出される人物像を「発話キャラクター」と名づかた。この論文はウルトラマンを対象し、ウルトラマンことばの特徴を役割語説で分析している。

○<ヒーロー>の役割語
ここの「ヒーロー」は「物語における主役キャラクター」を指す。金水(2003)はヒーローが<標準語>を話すの対し、脇役は非<標準語>を話すことが多いという。その理由は、主役のキャラクターは物語の読み手(視聴者)が自己同一化する人物である。ヒーローが標準語であれば、視聴者は違和感なく受け入れ、自己同一化をする準備が出来ているという。
しかしウルトラマンが<標準語>を話しているのは<ヒーロー>であるというより、むしろ人間体のハヤタ隊員こそがメインヒーローである。ここで秋月が出していたのは<神様>という仮説である。

○<神様>キャラクター役割語
ウルトラマンの設定はM78星雲「光の国」の住人である。地球人よりはるかな文明や科学を持ち、地球人にはない姿と超能力を持っている。つまり地球人にとって、ウルトラマンは未知な存在であり、怪獣に対抗する力を持つ「神」に等しい。この論文は、集中的<神様>キャラクターであるウルトラマンが使っている役割語の特徴について、分析している。

① <標準語>で話すこと
<標準語>の「値段」というものが関係している。井上(2000)は「ことばの値段」という概念を導入した。明治政府によって政治的な意図で、近代以降の日本語において、<標準語>は絶対的な価値を与えられている。なので、<標準語>は神様キャラクターにとってふさわしいことばである。

② 自称は<ワタシ>である
ほぼすべてのウルトラマンに共通している一人称<ワタシ>は神様の品格を保つため。「オレ」には威張ったイメージで、「ボク」にはへりくだったイメージがある。

③ 対称詞は<君><おまえ>である
スタイル説に従えば<君>や<おまえ>は、話してが聞き手よりも上位であることに用いられる対称詞。役割語説からいえば<君>や<おまえ>は神様キャラクターを繰り出すのにふさわしい対称詞である。一方、ウルトラマン同士の会話においては、相手の名前を用いている場合が多い。

○<神様>キャラクターの対人的ムード
野田(1997)によれば、対人的ムードは以下のようなものである。

① 聞き手に情報をどう伝えるかどうかについての心の態度を表す形式
主張 「よ」
確認 「ね」

② 聞き手に情報の提供を促す心の態度を表す形式
質問 → 上昇イントネーション

③ 聞き手に行為の実行を促すかどうかについての心の態度を表す形式
命令 命令形、「なさい」「な(禁止)」
依頼 「てくれ」「てください」
勧誘 「(よ)う」

実例(ここは割愛させて頂く)からみればウルトラマンは③だけを使っていることがわかる。超越的な存在ウルトラマンにとって、あらゆる情報は既知のものであって、聞き手と自分が持っている情報を共用したいための「主張」、情報の確度を上げるための「確認」、聞き手からの情報を求める「質問」は<神様>キャラクターにふさわしくないという。

○<神様>キャラクターの声

① 平坦調で変化が少ない
渡辺(1994)はイントネーションの機能として「スタイル機能」というものをあげている。例として、イギリス教会における祈りは「音調的に平坦調が非常に好んで用いられ、かつ使用のピッチの幅が狭いため、変化が少ない、同じリズムを繰り返す単純な調子」という特徴があると述べている。それは、ウルトラマンの発話における特徴と共通している、いわゆる<荘厳さ>を維持するため。

②       残響音(リバーブ)を伴う
人間の音声器官と異なって、ウルトラマンが話すとき「残響音」が伴っている。高い礼拝堂やトンネルで話しているような、<神様>の声が天上から地上に降り注ぐようなイメージがあるという。

こんな風に分析してみてば、<神様>キャラクターの役割語のいくつの言語学的特徴がわかりやすくなっているのであろう。

タラ節・レバ節で言いさす文について

この前、顔にニキビができたと騒いでいたら、「20歳超えたらニキビじゃなくて吹出物っていうんだよ」と妹に冷たく言われ、落ち込んでいる昼ゼミ2年の阿部です。何故同じものなのに、呼び方が変わっただけでこんなに気分が害されてしまうのでしょうか。謎です。春休みこそ、お肌に気を付けた生活をしたいと思っております。

ところで、今日は以下の論文から簡単に報告したいと思います。

白川博之(2009)「タラ節・レバ節による言い尽くし」『「言いさし文」の研究』pp.69-90、くろしお出版

この論文では、以下の例文(1)~(4)のようなタラ節・レバ節で言い終わっている「言いさし文」について、接続用法と関連づけて分析されています。一般的には条件を表わすとされるタラ節・レバ節ですが、言いさしの形で使われると(1)(3)は願望を、(2)(4)は勧めを表しているように、条件とは一見関係のないような意味に解釈されます。

(1)     僕はね、二号店は大きなデパートの中に出して、三号店はハワイに出せたらって思ってる。

(2)     シャワー使ったら

(3)     せめて非常勤の口でもあれば……。

(4)     ひらり、竜太先生と付き合えば

先行研究としては、大きく分けて①本来あるべき主節(例えば、「~タラドウカ」の「ドウカ」、「~レバイイ」の「イイ」など)が省略されたものとするか、②接続用法とは別個の終助詞的な用法として登録するかのいずれかが挙げられています。しかし、①は言いさし文の意味的な完全文には目を向けておらず、②も接続用法との連続性の説明が不十分であると著者は指摘しています。

そこで著者は、タラ節・レバ節による言いさし文を、本来的な意味と文脈情報とを手がかりにして算出される派生的な意味だとし、用例をⅠ.聞き手不在発話かⅡ.聞き手存在発話かに分け、考察しています。以下、各条件の下にどのような意味で使われているのかを順にまとめていきます。

Ⅰ.聞き手不在発話(独り言や心内発話などの聞き手を必ずしも前提としない発話)

(1)(3)と同様、願望を表します。ただし、タラ節は以下(5)のように危惧を表す場合があり、レバ節をそのような場合に言い換えて使うとおかしくなります。

(5)     こいつに部屋で長居でも{されたら…/?されれば…}。

欠けているタラ節の帰結が問題になっているのではなく、話し手はタラ節の内容を想定しているだけであり、結果的に、タラ節の内容の実現それ自体に対しての話者の評価的感情(良い(嬉しい)か悪い(困る)か)を表出していると分析しています。

Ⅱ.聞き手存在発話(聞き手の存在を前提とした発話)

(2)(4)と同様、勧めを表します。この条件としては、①タラ節/レバ節の主語が聞き手であり、かつ、②タラ節/レバ節の述語が意志的動作であることが必要だと述べています。また、願望・危惧と同様、タラ節/レバ節の帰結は問題にはならず、内容の実現の成否が問題にされると分析しています。

以上のことから、条件節の内容を想定することにより、節の内容の実現それ自体に対しての話し手の評価的感情を表出し、その評価的態度の「願望」が聞き手に対して持ちかけられた場合に、「勧め」という働きかけの表現に移行すると考えられます。節の内容が聞き手に持ちかけられ、帰結は聞き手の判断に委ねられるために完結性が生じ、聞き手に認識を改めさせたり、何らかの行動をするように促したりするという、話し手の対人的な態度も表しているとまとめています。

若者言葉と男性語・女性語

 こんにちは、昼ゼミ2年の安藤です。昨日めでたく二十歳を迎えました。新成人として、これからはより一層気を引き締め、一人の人間として責任を持つことを心掛けたいと思います。
今回は、以下の論文を読んだので簡単に報告します。

 谷光忠彦(2006)「(3)若者言葉と男性語・女性語(1 日本語教育のカリキュラム構成の問題点-「言葉と文化」-,II 日本語力習得の研究 2)」『武蔵野学院大学日本総合研究所研究紀要』 (3), 50-57

 この論文では、「若者言葉」と「男性語と女性語」についての調査を基に言葉と文化の関わりを具体的に考えている。
 
1.若者言葉

   [表1]を見ると、「超…」「…っちゅうか…」「まじ(で)」は男女ともに多く用いることは共通している。それに対し、「むかつく」「…って感じ」「さむい」「へこむ」は男性よりも女性の回答が多く、女性に関心度が高いことを思わせる。それに対し、「だるい」は男性のほうが関心度は高い。このような違いが生じることは一つには、男性と女性とでは社会生活あるいは人間関係の対応の仕方に微妙な相違があって、それが言葉に反映しているのかもしれない。つまり、一般的には若い人は婉曲表現よりも力強い直接表現で素直な感情を吐露する反面、慎重且つ懐疑的な表現も表す。男女差でみると男性は忍耐力の乏しさを思わせ、女性は感情を抑制する傾向を感じさせる。
 [表2]は5年後に調査されたものである。これによると、「まじ」が男性の回答数ではトップになり、男性の懐疑的発想傾向が伺える。「超」は3位に落ちる。これは、女性も同様の傾向を示し、流行語の変化の速さを思わせる。「やばい」の回答は男性と女性の回答数が前回と比べて逆転し、女性の方が強く関心を持つ言葉になった。「やばい」は危機意識の現れと思う、その具体的内容に男性と女性とでは相違があるにしても強く不安定な世相を反映している言葉だと思う。「ありえない」は女性の回答がトップで女性の信念の頑固さを思わせる。

2.男性語と女性語

男性語としてトップに指摘した語は男女共に一人称の代名詞であり、女性語としてトップに指摘した語は男女共に終助詞を意識している。これは、男性と女性では各々の生活感情の中で若干異なった価値観(文化)を有することに起因する。
ところが、5年後の調査では、男性語・女性語それぞれの特色については、男性は何れも代名詞の用法の相違を指摘しているが、女性は男性語・女性語ともに終助詞の用法を意識し、その相違をトップに置いている。(「…だぜ」、「…だわ」など。)また、女性は接頭語の「お」をよく用いることについては男性・女性いずれも指摘している。

3.男女の回答語数からみる世界観の変様

 日本語には男性語と女性語があることは歴史的事実ですが、時代が変わるにつれてその差は縮まってきている。異なり語数と述べ語数について、男性語・女性語についてみるといずれも女性の回答数が優勢だ。これは、男性が単調な表現をするのに対して、女性は多様な表現ができることの現れかと思われる。
 ところが、5年後の結果について、男性語が女性語に比べて異なり語数・延べ語数ともに優位に立っている。これは、男女の回答を一つに纏めたものであるからだ。女性は言葉に対する関心度は男性にくらべて一般的に高く、それに加えて特に近年における女性の社会的活動の躍進とおも深い関連を感じざるを得ない。これも言葉への文化の反映の然からしむる所以であるだろう。

日本語と日本手話の言語構造比較

こんにちは、昼ゼミ2年の谷地田です。寒い日が続いておりますが、春休みが目前に迫り少し浮かれ気分です。長い春休みを充実させようといろいろと計画を立てています。さて、今回は夏季課題とテーマを変えて以下の論文を要約しましたので報告したいと思います。

高橋亘,仲内直子,宮地絵美,村上裕加(2007)「日本手話と日本語の構造比較と聾者にわかりやすい日本語の表現」『関西福祉科学大学紀要』第10号, pp75-82.

 この論文では、日本語とは独立して聾者の間で発達した自然言語である日本手話が、日本語と異なった言語構造を持つため、日本手話を母語とする先天的聾者の中には日本語の読解能力が不十分になるなどの困難を抱えている人がいる、ということを指摘しています。筆者は日本語と日本手話の言語構造の相違を考察し、特に記号単位の相違、機能化する語の相違、語順の相違を挙げてこの順で議論しています。以下、この順に沿って簡単にまとめます。

 まず、日本語と日本手話の記号単位の相違について筆者は、日本語は音声言語としての記号の恣意性をほぼ完全な形で保持しているのに対し、手話単語は物の動きや特徴を形態的に模倣した動作として表現されるため、記号として表象性を強く保持していると考えています。この時筆者は、手話記号が表象性を保持することにより日本語のある意味レベルに対応していると考え、日本語の名詞に対応する内容を表現しようとして述語動詞を含んでしまう手話単語や、動作主体によって手話単語が分離する動詞、動く目的物によって手話単語が分離する動詞、手段方法によって手話単語が分離する動詞、動きの起点や方向を含めた手話単語として表現される動詞、属性主体によって手話単語が分離する属性形容詞などが多くなりますが、日本語の「名詞+助詞+動詞」や「名詞+助詞+形容詞」の形に対応することができるとしています。

 次に、日本語と日本手話の機能化する語の相違について論文では、日本語には文の文法的構成のみに重要である助詞、接続詞、助動詞、形式名詞、補助動詞、補助形容詞などの機能語があり、日本語にみられる多くの機能語は手話で明示的に表現されないが、特定の機能語は手話に組み入れられて表現されるとしています。そこで筆者は機能語について、「手話に表現される機能語」、「手話に表現されない機能語」という二分法を生じさせ、このような二分法が聾者の日本語理解に困難を与えているのではないかということを予期しています。
   「手話に表現される機能語」の例
    否定指標〔ない〕、疑問の意を伝える〔か〕、助動詞〔けれど〕など
   「手話に表現されない機能語」の例
    条件節の設定をする係り受け〔もし…したら〕、接続助詞〔なので〕など

 最後は、日本語と日本手話の語順の相違について考察しています。基本的な語順は日本語も日本手話も、主語・述語、目的語・述語という関係になるが、手話では中心的な単語や言及すべき主体を先に述べた方が分かり易いため、それらを先行させ修飾的な単語はその後に続くという感覚があり、日本語の語順と逆である被修飾語、修飾語の順になると述べており、以下のような具体例を挙げています。
   日本語:赤い花が咲く。
   日本手話:花が咲く、赤い。
 また、筆者は日本手話の疑問詞には、英語のwh-疑問詞に対応して〔誰〕、〔いつ〕、〔どこ〕、〔なぜ〕、〔どのように〕などがあるが、〔どこ〕、〔なぜ〕、〔どのように〕は一単語ではなく〔場所〕〔何〕、〔理由〕〔何〕、〔方法〕〔何〕のように二単語で表現すると指摘しています。また、これらの日本手話の疑問詞は英語の関係詞に似た用法があるとして以下のような具体例を挙げています。
日本語の場合:去年の夏北海道へ行った。
日本手話の場合:北海道へ行った、いつ、去年の夏。

 筆者は、思考の手段や認知の根幹が日本手話によって培われている聾者は、日本語使用や日本語理解にも日本手話が影響しているため、以上のような日本語と日本手話の言語構造の違いが聾者の日本語読解能力などに困難を与えていると指摘しています。

 今回の冬季課題は夏季課題とテーマを変えました。夏季課題のテーマである「略語について」も面白かったのですが、私の特技でもあり一番興味のある手話という言語についてより深く学びたいと思いこのような論文を読みました。普段、手話での会話で文法をいちいち意識して話すことはなかったのですが、この論文には日本語と日本手話の文法の違いが的確に書かれており、そう言われてみれば確かに日本語の文法と違うな、という気づきが沢山ありました。そこで今後は、日本語と日本手話はどうしてこのように言語構造が異なっているのか、その差を埋めるためにはどのような聾教育が必要なのか、などということも考えることができそうです。

引用文献
福田友美子,赤堀仁美,乗富和子,赤堀里美,津山美奈子,鈴木和子,木村晴美,市田泰弘,’’聾者間の対話を対象にした日本手話の研究’’,『電子情報通信学会技術研究報告』WIT99-1~22[福祉情報工学],第二種研究会資料Vol.99No.1,p15-22(1999).
乾健太郎,山本聡美,野上優,藤田篤,乾裕子,’’聾者向け文章読解支援における構文的言い換えの効果について’’『電子情報通信学会技術研究報告』WIT99-1~22[福祉情報工学],第二種研究会資料Vol.99No.1,9-14(1999).
乾健太郎,’’テキスト簡略化における聾者向け読解支援―現状と展望―’’,『電子情報通信学会技術研究科報告』WIT00-26~38[福祉情報工学],第二研究会資料Vol.00No.3,43-48(2000).
高橋亘,渡邊大樹,’’M言語による概念カテゴリー解析機能’’『Proceedings 2003 M Technology Association of Japan』,29~32(2003).
高橋亘,渡邊大樹,’’コンピュータによる概念解析の方法’’,『関西福祉科学大学紀要』,Vol.7,59~81(2004).
高橋亘,’’日本語解析システム[ささゆり]の品詞解析機能と概念解析’’, 『Proceedings 2005 M Technology Association of Japan』,9~14(2005).
高橋亘,’’日本語解析システム[ささゆり]の諸機能―構文解析,品詞解析と概念解析―’’,『関西福祉科学大学紀要』,Vol.9,37~47(2006).
高橋亘,’’高次の総合関係のある日本語文のM言語による知識処理’’ ,『Proceedings 2006 M Technology Association of Japan』,41~44(2006).
長谷川直子,高橋亘,’’ M言語による手話と日本語の互換単位のデータベース’’, 『Proceedings 2002 M Technology Association of Japan』,43~46(2002);『MUMPS』,Vol.23,31~40(2004).
長谷川直子,高橋亘,’’日本語と日本手話の変換理論’’, 『関西福祉科学大学紀要』,Vol.6,257~266(2003).
岡田美里,高橋亘,’’M言語による日本語・日本手話変換システムの方法’’, 『Proceedings 2004 M Technology Association of Japan』,53~56(2004).
岡田美里,高橋亘,’’日本語・日本手話変換システムの方法’’, 『関西福祉科学大学紀要』,Vol.8,77~82(2005).
岡田美里,高橋亘,’’聾者にわかりやすい文字情報と聾者の日本語使用データベース’’ 『Proceedings 2005 M Technology Association of    Japan』,52~55(2005).
岡田里美,高橋亘,’’聾者の日本語使用データベースと聾者にわかりやすい文字情報’’, 『関西福祉科学大学紀要』,Vol.9,185~192(2006).
松本昌行,『実感的手話文法試論』,財団法人全日本ろうあ連盟出版局,東京(2001).
財団法人 全日本聾唖連盟日本手話研究所編,米川明彦監修,『日本語―手話辞典』,財団法人 全日本聾唖連盟出版局,東京(1997).

音声学的アクセントと音韻学的アクセント

こんばんは。昼ゼミ2年の前橋です。ついこの間新年を迎えたと思っていましたが、1月も残すところあと一週間という現実に恐れおののいています。この冬は、自分の注意力や計画力不足で色々と困った事態に直面することが多かったので、3年生になるにあたり、もっと自分に責任をもって常日頃行動するようにしたい、と思っています。

さて、今回は少し前から興味を持っていた発音とアクセントについて、以下の先行研究を要約しました。

城生佰太郎(2012)「音声学的アクセントと音韻学的アクセント」文教大学国文 Vol.41 p.12- 21

城生は、日本語教育の見地から、日本語の「アクセント」について、現在の音韻論的レベルでの解釈が基本になっていて、このことは、日本語母語話者や日本語を熟知している外国人にとっては見落とされがちだが、日本語学習者にとっては解りづらいものとなっていると述べた上で、音声学的観点からのアクセント(教育)の重要性を訴えている。

城生(2008)によると、音声学的アクセントとは、

単語レベルの音節間に相対的に備わっている知的意味(客観的な意味)を反映した、高低・強弱・長短など音の量的変化に関する社会習慣的なパターン

と定義される。「音の量的変化に関する社会習慣的なパターン」となれば、殆どすべての言語に、音声学的アクセントは存在する。

日本のアクセント辞典などは、ほぼ音韻学的アクセントを表記しており、例えば「コーヒー」という単語のアクセントは

コーヒー/LHHL/(Lは低い平音、Hは高い平音)

というふうになっているが、実際の日常生活の場面ではそう発音することはほとんど無く、もしそう発音するなら、一音一音明瞭に発音しなければならない騒がしい場所や、子どもや外国人に丁寧に発音を教えるときなど、極めて限定的な場面に限られる。

ということは、音韻学的アクセントは日本語教育の上で現実的な発音方法ではないと、城生は述べている。ここで、実情に即した「音声学的アクセント」が必要になる。音声学的アクセントで先程の「コーヒー」を表すと

コーヒー/HHHL/

となる。

さらに、「僕の」のアクセントは/HLL/、「うち」のアクセントは/LH/だが、これらが複合して、「僕のうち」となると、単純に二つを合成した/HLLLH/にはならず、新たに/HLLLL/となる傾向が見られる。これはアクセントレベルにおける同化現象と考えられる。日常で、崩れて使われる「ぼくんち」になってしまうと、アクセントは間違いなく/HLLL/となる。しかし、このような音声言語に関する辞典は乏しいと城生は指摘している。

次に城生は、国際音声記号(IPA)によるアクセント表記について記している。従来のアクセント表記は、上記したように音韻学的レベルを基調としてきたが、ここで問題になっているのが、高さの段階に関する問題であると城生は述べている。例えば「こうもり」のアクセントは

コーモリ/HLLL/

と、音韻学的には表記されているが、実際のところは「こうもり」と発音すると、高さはたえず下降している。これを正確に表記しようとすれば、音声学的レベルからIPAなどの表記を用いるほかないとしている。しかしそれは、散々避難した音韻論的レベルからのアクセント表記になってしまう。

―モリ

では、後半部分の「―モリ」の部分がすべて[低低低]として扱われてしまっているところに問題がある。ここで城生は、音声の高さに段階をつけ、従来のHとLの間にMの層を設け、

コーモリ[HmML]

と表記している。最初のHが太字なのは、この音節が途中で下降を伴う長音節であることを示し、その次の小文字のmは第二音節にかけてHからMレベルに向けて下降することを示している。この表記法は、「鼻」と「花」や「端」と「橋」などに見られる第二音節の扱いに関する問題を解決できる。

城生は、今までの音韻論的レベルでのアクセント表記では表しきれないアクセントを、音声学的レベルから、段階をつけて表した。これにより表現の考察の幅が広がったと言えるのではないだろうか。

今回はアクセントの表記についての論文を要約したが、アクセントや発音についての他の論文を読んでいると、固有名詞や地名によって、複合した際に個体差が生まれたり、また「連濁」という現象があることが分かったので、今後はそちらについても調べてみたいと思う。

引用文献

城生佰太郎(2008)「一般音声学講義」勉誠出版