基礎語の地理的分布と語彙史の交渉:「家」(イエ)と「家」(ウチ)の併存をめぐって

昼ゼミ3年の中村仁美です。提出たいへん遅くなりまして申し訳ありません。テスト等お疲れ様です。いよいよ二月ですね。

このたびは、以下の論文について要約しました。ウチとイエに関する論文です。

日野資純(1982) 「基礎語の地理的分布と語彙史の交渉:「家」(イエ)と「家」(ウチ)の併存をめぐって」 『人文論集』33、pp.123-153.

この論文では、家屋を示すイエと家庭を示すイエの使い分けが家屋を示すウチと家庭を示すウチへと変化したという佐藤(1979)の推定に対し、実際は家屋を示すイエと家屋を示すウチは並存しており、使い分けはイエは文語体の改まった文脈か話し言葉でも重々しい文章に現れ、ウチは話し言葉の砕けた文脈に現れるといったようになされており、この形が江戸の下町言葉から明治以後の中央後に受けつがれていったということを主張しています。

まず日野は、国立国語研究所『日本言語地図』(以下LAJ)の調査について意見を述べています。その調査内容と結果を示したうえで、日野の主張を簡単にまとめます。

一つ目の調査は、三軒並んでいる家の絵を見せて「何が三軒あると言いますか」と質問したというものです。その結果、イエは福島・新潟以北青森まで、近畿以南鹿児島まで用いられており、茨城東部、千葉南部、山梨にも小さいまとまりがありました。ウチはイエを東西に分けるような形で関東、中部、北陸を中心に分布しており、東北地方南部や近畿にも点在していました。この結果から、イエがかつて全国に広く分布していた後に、関東を中心にウチが広まってきたと推定されるということです。

二つ目の調査は、「あそこは子供の多い〈うち〉だというふうに言いますか」と質問したというもので、その結果は、東北地方はまばらだがほぼ全国区で言うという結果になっています。

この二つの調査から、もともと外に対する内の意味であったウチが、まず自分の家族または家庭の意味に用いられ、それが自分の住んでいる家屋の意味になり、一方では一般の家庭または家庭の意味になり、さらにその二つの意味が合わさり変化して人家の意味になった、とJALの研究結果は述べており、ウチは新しい表現であるとも言っています。日野はこれに対し全面的に同意を示しており、ウチが「自分の家庭」の意になるのは虎寛本狂言『右近左近』あたりから始まり、さらに滑稽本『浮世風呂』に「家庭」の用法が見られ、歌舞伎『お染久松色読販』には「家屋」の意の用法が現れ、それが明治以後に受けつがれた、とその補足をしています。また、現代東京語ではイエはやや改まったことば、ウチはくつろいだ言葉というような相違があることを述べ、その一方で東北地方、たとえば青森県などではイエが場面の相違などに関係なく用いられていることに着目し、イエを基本とする形が東北地方などでは歴史的に続いてきているのではないかと推測しています。また、LAJの研究結果ではイエとウチの両方を使用するという地点が60数点にのぼるという事実からも、イエとウチの並存関係がかなり以前から続いてきたとを推測しています。

ここでの問題点は、なぜイエがかつて全国に広く分布していた後に、関東を中心にウチが広まってきたと推定されるのか書かれていない点と、調査結果が結論とあまり結びつかないのではないかという点です。

次に、日野は佐藤亮一『日本の方言地図』(1979)について意見を述べています。佐藤の論文の内容を簡単にまとめたうえで、日野の主張を簡単に以下にまとめます。

佐藤は、『万葉集』に「いへ」が家屋を示す例が見られることを述べ、時代を下るとともに「いへ」が「や」の意味で用いられる傾向が強まっていき、現在東北などに見られるイエ(家屋)とイエ(家庭)の使い分けが成立したといいます。もともと外に対する内の意味であった内が、「こなたもじゃと思召ては、又例の我儘が出ませう程に」(『虎寛本狂言・右近左近』)などのように自分の家族や家庭を示すようになり、「わたしはあのの女に」、すこしはなし合がありやす」(『東海道中膝栗毛』)などのように一般の家庭・家族を示すようになり、その結果イエとウチとの間で意味分担が行われ、イエ(家屋)とウチ(家庭)の使い分けが成立した、と佐藤は主張しています。そしてウチの用法がさらに広がり、家屋の意味を含み、関東・中部でのウチ(家屋)とウチ(家庭)の使い分けが成立したと述べています。

日野はここで佐藤の示す『東海道中膝栗毛』の例は「アノ」が間投詞であるためたまたま文脈上「この家の女(女中)」という意味になるが「一般の家族・家庭」の意味ではないと指摘し、本文中の他の例を示しました。(弥二「コウどふぞいきな女のある内へとまりてへの」/順礼「……わし共の内で養生のウしている内、……」)

次に日野は、『東海道中膝栗毛』のような例からイエ(家屋)とウチ(家庭)という使い分けが発生し、そのウチが家屋の意味を示すようになったという佐藤の主張に対し、『東海道中膝栗毛』の中にすでにウチ(家屋)が現れており、イエ(家屋)も見られることを述べ、イエ(家屋)・ウチ(家屋)とウチ(家庭)というような使い分けがされており、家屋を指すイエとウチは並存関係にあるのだと主張しています。ウチ(家屋)の例としては、「コウむかふの内がいきだぜ」「ソレソレ去年おらが山へいつた時にとまつた内だ」などを挙げ、イエ(家屋)の例としては、「大森といへるは蕎麦ざいくの名物にて、家ごとにあきなふ」「家ごとにかどの戸をたてたるが、くぐりばかりを開きて」などを挙げています。このウチとイエの例から、筆者は「ウチ(家屋)」が主として会話文のくだけた文脈に現れ、「イエ(家屋)」は地の文に現れる傾向があると主張しています。また、この主張の説得力をより高めるため、近世後期の江戸の下町言葉を写実的に写したと言われている式亭三馬の『浮世風呂』『浮世床』からも例文をいくつか挙げています。ここでもウチは話し言葉のくだけた文脈に現れ、イエは文語体の改まった文脈か、話し言葉でも重々しい文脈に現れていることから、筆者はこのウチとイエの使い分けが江戸の下町言葉などでは一般的なもので、このようなイエとウチの関係は、明治以後の中央後にも受け継がれていったと主張しています。童謡・童話、小説のうちとけた会話文、小学校国語教科書の主として低学年の単元の文章などにオウチ・ウチが多く現れ、小説の地の文、小学校国語教科書の主として高学年の単元のやや改まった文章(地の文中心)にイエが多く現れている傾向があると述べ、いくつか例を示しています。

ここでの問題点は、日野はまず『東海道中膝栗毛』の例文を否定しているが、日野が述べている例文も一般の家族や家庭ではなく家屋を示す例文に見える点でしょう。後半部分は現代の感覚と同じで、納得できます。

最後に、全体を通して気になった点を述べます。

この論文では、初めからイエとウチを家庭と家屋という二つの意味に分類しており、その分類理由や基準について書かれていなかった点が資料としては物足りなく感じました。

また、ここで引用される例文のウチは「内」表記であり、今のウチの表記と異なっています。現在の表記では「家」もしくは「ウチ」ではないでしょうか。この点においては一切触れられていなかったので、課題にしたいと思います。

参考文献

佐藤亮一(1979)『日本語の方言地図』中公新書

カタカナ語と外来語の違いについて

こんにちは、夜ゼミ二年の山田康太です。クリスマス、年越しともにバイト先の某Kというファストフードでチキンを揚げたり、急な気候の変動で十年ぶりくらいに喘息の発作が起きたり、昨年度、残念ながら再履になってしまった第二外国語の勉強に追われたり、と地獄のような毎日です。今日は以下の論文を要約しましたので報告したいと思います。

佐伯 香奈(2010日本語教育におけるカタカナ語の現状と課題 : 日本語学習者のためのカタカナ語の選定を中心に  恵泉アカデミア 15, 128-153, 2010-12 

私は、ゼミ選抜時の文章に若者言葉について研究したいということを書いて、なんとか尾谷先生に拾っていただきました。カタカナ語は若者言葉のような側面も多分にあると思います。これがこのテーマのした理由の一つです。もう一つは外来語との違いを友人に尋ねられ、概ね同じという解答しかできなかったのでこのテーマにしました。

この論文で筆者は、日本語母者が使う日本語テキストと日本語母者でないものの日本語テキストを比較し、後者のテキストにおけるカタカナ語リストが妥当なものかどうかについて考察している。更に、カタカナ語と外来語の定義の違いについても述べている。

(1)  カタカナ語と外来語の違い

カタカナ語と外来語の違いというのは諸説あるのですが、大きく分けると

①    由来した地域により分けるもの

②    その単語の発生した時期により分けるもの

③    概ね同じものであるという解釈

がある。①は、地域差なのですが一般的には、「中国から来たものは、漢字で表記できるから外来語であり、欧米から来たものはカタカナで表記されるからカタカナ語」というものである。②は、明治期に入ってきたものはカタカナ表記が多いのでカタカナ語という分け方なのであるが、これに関してはかなり説明不足であり、読んでいてもやや理解に困るものであった。③は文の通りであるが、「カネ」や「コメ」と言った日本語をカタカナ表記したものは外来している言葉ではないので概ね同じというのは無理な解釈である。

 この論文では、①の定義に基づいている。また、和語+外来語(生クリームなど)や漢語+外来語(温水プール)のようなものも片方が外来語であれば外来語としている。

(2)  日本語母者ではないもののテキストにおけるカタカナ語

この論文では、初級、中級、上級の三冊のテキストを使用している。この日本語母者ではないもののテキストのカタカナ語における問題点を筆者は

①    国語辞典に表記のないものは使用されていない

②    テキストの内容に則した語のみが多用されているため重要ではない語も多い

を挙げている。日常使用するカタカナ語のほとんどがテキストではカバーできていない状態になっている。

(3)  国語辞典内のカタカナ語

この論文では国語辞典内におけるカタカナ語についても言及している。国語辞典内のカタカナ語約五千個を①名詞、②形容詞、動詞など③その他に分けた。そのときの傾向として

①    95%以上が名詞

②    動詞で選ばれているものは日本語にはないニュアンスもしくは日本語では同一化するもの(好き→like love)

としている。

以上のようにカタカナ語には外来語との線引きが曖昧であるという点や動詞における選定条件のようなものが見られた。また、日本語の独自解釈している語もある中でそれを日本語学習者に伝えられていないのではないかという点が浮き彫りになっている。今回の論文は、分析が多く充分に載せきれていないという点や、日本語と外来語の線引きに関する明確な論文が見つからず、やや逸れたところから自分のやりたいところにねじ込んでいるような気がするので今後の課題にしたい。

 カタカナ語を若者言葉など様々な観点から考察するためには、しっかりとした線引きを設けないといけないということが分かったので、今後の研究課題にしたい。

引用文献

井上道雄(2004)「カタカナ語(外来語)基本語録550語 その語録特性と選定基準」

稲垣滋子(1,991)「初級日本語教科書の外来語」

談話における「だから」の機能

こんばんは。昼ゼミの下田です。明日から2月です。今週は冷えるみたいですね。試験も終わり、ゼミの課題も終わりホッとしている人も多いと思いますが、体調管理をしっかりして風邪をひかないように気をつけて下さい。

この論文では、前節にいろいろなジャンルから資料を収集し、接続詞「だから」の談話展開機能を5分類し、その機能と役割について論じている。また、後節では「だから」が談話の結束性・整合性に対する作用について考察している。

1.「だから」の談話展開機能

①「話を始める機能」(新しい話を始める)
②「話を重ねる機能」(前の話を繰り返し、同じ話を重ねる)
(1) 聞き手が先行する発話を聞き取れなかったと判断する場合
(2) 聞き手が理解できなかったと判断する場合
③「話を進める機能」(前の話の結果や進行を述べる)
(1) 因果関係が強い
a 結果の導入
b 結果への納得
(2) 因果関係が弱い
a 情報の追加
b 現場情報の確認
c 場つなぎのマーク
④「話をうながす機能」(話が先へ進むように相手をうながす)
⑤「話を終える機能」(話の締めくくり、終了する)

接続詞「だから」は一般的には結果を導く因果関係を表す文法的意味として、広く知られているが、①〜⑤のように実際のコミュニケーションの場合を考えてみると、因果関係を表さない用法もあると論じられている。
談話においては、「だから」を使って因果関係で話を進めるだけでなく、時々話題を変えたり、話を終えたり、また、同じ話を何回も繰り返したりすることがよく見られる。

2.「だから」が談話の結束性と整合性に対する作用
後節では「だから」が談話の結束性・整合性に対する作用について考察している。結束性とは、では「様々な言語手段を使っての談話の言語的つながりをさす(Halliday & Hasan 1976)」と定義され、また橋内(1999)では、「語と語、句と句、文と文が互いに合ってまとまりのあるテクストを作り出すということをいう」と定義されている。
一方、整合性とは亀山(1999)が「談話全体の『自然さ』あるいは『すわりのよさ』というような広い意味で使われる。整合性を決めるのは言語的要素に限らない。常識、推論、連想など、非言語的要素も含めて、整合性は談話の意味的つながりの善し悪しをさす。」と指摘している。
以上のように結束性と整合性は密接な関係があることがわかる。接続詞「だから」は前節の分類のように文法上や論理上の意味とは関係なく使用されている場面があり、そのような場合の「だから」は文と文をつなぎ、一つの言語として談話の結束性に作用している。言語上のつながりは談話全体の意味的つながりに通じるので、結束性は談話の整合性にも影響を与えると述べている。

僕は接続詞として使用されている「なので」について研究している。「だから」と「なので」は共通する部分が多いと思うので、この論文の「だから」と自分の研究している「なので」とを比較し、より深く考察する必要があると感じた。

引用文献
任麗(2010)「談話における「だから」の機能」『国際日本学論叢』 pp47-85

接尾辞「-ぽい」について

 こんばんは。昼ゼミ2年の竹内郁美です。最近は関東でも雪が降り、本当に寒い日が続いていますね。私は今、自宅のパソコン部屋でこのレポートを書いているのですが、なんとこの部屋、暖房がないのです…。手が凍ってしまいそうですが、このレポートを無事提出できれば温かい湯船が私を待っているので、頑張りたいと思います。

 さて、私は昨年の個人発表で、音象徴に関する論文を扱いました。しかし、卒論に向け具体的な表現に絞り込むとなると、音象徴よりも、グループ発表で扱った接尾辞を研究したいと思い、今回、以下の論文を選びました。

小原真子(2010) 「接尾辞『-ぽい』について」/『島根大学法文学部紀要言語文化学科編』 29, 59-76, 2010-10-30

では早速、要約に入らせて頂きます。

小原は、接尾辞「-ぽい」(「-っぽい」)について、従来の用法と新用法の違いを語彙レベルと句レベルの違いとして捉えることができると指摘してる。

1.辞書による定義

接尾辞「-っぽい」の従来の用法は、辞書で以下のように定義されている。

● っぽ・い〔接尾〕《形容詞型活用》
名詞や動詞の連用形などに付く。
①…を多く含んでいるという意を表す。「粉―・い」
②…傾向が強いという意を表す。「俗―・い」「飽き―・い」「荒―・い」
                               (『大辞泉』より)

しかし、『明鏡国語辞典』の【語法】欄に新規用法に関する言及が見られる。

◆【語法】近年、「出かけるっぽい」「行くっぽい」など、動詞の終止形に下接する例が見える。意味は様態の「らしい」に近い。
2.接尾辞「ぽい」の新規用法とその特徴

1で見たように、「ぽい」は従来、「何かが多い様子」や「何かをしがちな様子」を表す接辞だったのに対し、新規用法では、推量や婉曲な断定の意味を帯びてきた。

さらに小原は、語の形態的緊密性の観点から、「ぽい」の付加する語について具体例を挙げながら述べている。

※語の形態的緊密性(影山1999)
・・・単語は全体で1つの塊であり、その内部を統語的な要素で分断することは許されないという性質

(1)a.兄は[大人っぽい]が、弟は[子供っぽい]。
   b.*兄は[大人_]、弟は[子供っぽい]。

(2)a.兄は[実の子供]っぽいが、弟は[他人の子供]っぽい。
   b.兄は[実の_]、弟は[他人の子供]っぽい。

(3)a.今日の午前中は[雨が降る]っぽいが、午後から[雪が降る]っぽい。
   b.今日の午前中は[雨_]、午後から[雪が降る]っぽい。
形式面から見ると、従来は普通名詞に付加していたが、新たに名詞句に付加するようになった。また、従来の用法の「ぽい」は(1)のように等位構造での削除が出来ないが、新規用法の「ぽい」は(2)のように名詞に付加している場合でも、(3)のように動詞に付加している場合でも削除が可能である。

3.「現代日本語書き言葉均衡コーパス」に見られる接尾辞「ぽい」

小原は、2009年度版の「現代日本語書き言葉均衡コーパス」を使用し、接尾辞「ぽい」に加え、「ぽかっ(た)」、「ぽく(て)」、「ぽさ」、「ぽすぎ(る)」などの活用も含み、1955例を抽出した。

結果は次の通り。
 ・「白書」(1976年~2005年の政府系刊行書物)・・・2例
 ・「国会議事録」(1976年~2005年)・・・16例。
 ・「書籍」・・・1289例
 ・「Yahoo!知恵袋」(2004年10月~2005年10月)・・・648例

→ 「白書」や「国会議事録」に例がほとんど見られないのは、「ぽい」が口語的なため、公的な文書にはふさわしくない表現であることが影響している。
  また、「書籍」では、そのデータ数の多さも相まって、「ぽい」の付加した語の使用例は多いが、従来の用法がほとんどで、動詞の終止形に付加したものはほとんど見られなかった。
  一方、「Yahoo!知恵袋」では、新規用法の「ぽい」の使用が多く見られた。これは、新規用法が口語を中心に広がりを見せていることを示している。

 この論文は形式面からの分析が中心だったので、今後は接尾辞「ぽい」を意味の面から考察している論文も集め、研究を進めていきたいと思います。また、「ぽい」の新規用法は、「らしい」や「みたい」と言い換えが出来ると思うので、これらについて書かれた論文も探し、比較することで、 「ぽい」の特質を探っていきたいです。

機能動詞結合

こんにちは。昼ゼミ三年の内田です。最近常にマスクをしているような気がします。マスクをしていれば、顔が温かいですからね。

ところで今日は以下の論文を紹介したいと思います。

神田靖子「機能動詞結合とその他動性をめぐる覚書」『同志社大学留学生別科紀要第2号』pp.55~73 同志社大学

この論文は村木(1985,1991)を基に「機能動詞結合」の持つ意味特性について観察している。

まず「機能動詞結合」とは「考慮/努力 をはらう」「拍手/合図 をおくる」「注目/支持 をあつめる」のような「機能動詞を含む語結合」であると神田は述べている。機能動詞とは「本来の実質的な意味を失い、実質的意味を名詞にあずけて、みずからはもっぱら文法的な機能をはたす動詞」(村木1985)である。村木(1985)は機能動詞結合における動詞について「動作の主たる意味は名詞のほうにあって、動詞の動作的意味はそえもので二次的」であると述べているが、神田はこれについて、機能動詞結合における動詞の働きは「そえもの」以上であると指摘している。そこで神田は、機能動詞結合を用いる理由を次の四点として考えている。

①    機能動詞結合は単純動詞では表しえない「動作の方向・ありか・様相」を表す。

②    機能動詞結合は単純動詞のみでは表しえない「動作主体の数」を表す。

③    機能動詞結合は相応の形容詞や副詞などの装飾後を用いることなく「動作の行われる様相、程度」などの微細な意味をその動詞の意味特徴によって表現する。

④    構成動詞によっては、前項にとる名詞が一定の傾きを持つものに限定される場合があり、同じ傾向を持つ新たな語結合を作り出す可能性もある。

神田は上に挙げた四点について次のように説明している。まず①の場合の例として「影響を与える/及ぼす/受ける」がある。これは「影響する」と比較すれば「影響」が「だれ・どこに、どのように」及んでいくのかを述べるためであり、能動・受動態といったヴォイス上の差異をも表す。また、「与える」と「及ぼす」との相違からうかがえるように主体の意図性の程度にも違いがある。②の例として「絶賛を博す」がある。この場合、それの表す動作は単純動詞の受身形「絶賛される」と同じ意味ではあるが「誰」から絶賛されるかという「能動主体」は一人ではない。すなわち「多くの人々から絶賛される」と書き換えられる。そして③の例には「判断を下す」がある。この場合「判断する」と比べて「決然たる行為の遂行」という含意がある。そして最後④の例として②と同じく「絶賛を博す」がある。この場合構成動詞の前にくる名詞は「好評/人気」のように肯定的評価を持つものに限られる。

このように機能動詞結合は構成動詞の持つ意味によって単純動詞が表しえない微妙なニュアンスを生みだす要因となっていることがわかり、機能動詞結合における動詞は「そえもの」ではなく名詞と同等の重要性を持つということがわかると神田は主張している。

動詞「する」と機能動詞の関係について考えるために、今回は「機能動詞結合」について調べてみました。「する」は機能動詞としての働きを強く示していると考えていますが、今回の論文では「する」は機能動詞でありながらも機能動詞結合において「そえもの」になってしまっているのではないかと感じました。それほど「する」の機能動詞としての働きの強さも感じましたが、「する」においてもその動詞が名詞と同等の重要性を持つ場合があるのか疑問に思いました。今後は以前の課題で気になった「実質動詞の代替」としての「やる」と共に「する」においても「前発言の代替」が可能であるのかを調べていきたいと思います。

【参考文献】

神田靖子(2002)「機能動詞結合とその他動性をめぐる覚書」『同志社大学留学生別科紀要第2号』pp.55~73 同志社大学

村木新次郎(1985)「慣用句・機能動詞結合・自由な語結合」(『日本語学』4巻1号 明治書院)

村木新次郎(1991)『日本語動詞の諸相』ひつじ書房

「のではないか」における[質問]と[疑い]の差異

こんにちは。夜ゼミ3年の田端です。試験が終わって一息ついているところです。

今回は以下の論文を要約しました。

佐藤雄亮(2010)「[のではないか]における[質問]と[疑い]の差異――BCCWJの用法分析から――」 『日本語文法』日本語文法学会10巻2号pp93‐108 くろしお出版 

筆者は〈のではないか〉に認められる機能の内、[質問]と[疑い]という語用論的機能の対立について論じています。また、「んじゃないか」「んじゃない?」など、各形式の変異形も〈のではないか〉に含んで考えています。

 (1)君の靴、高いんじゃない?

 (2)もう寝たほうがいいんじゃないか

1.先行研究と筆者の指摘

安達(2002:175)は疑問文が担う機能の内、[質問]機能は「a.話し手には何らかの情報が欠けているために、判断が成立していない」「b.話し手は聞き手に問いかけることによってその情報を埋めようとする」という2つの条件を満たすが、[疑い]においてはbの側面が希薄化もしくは欠落しているとしています。

また森山(1989)の「聞き手情報配慮/非配慮」の区別は[質問][疑い]の区別と同様のものとなると述べています。しかし筆者は、このような形式にそって[質問]と[疑い]が明確に分かれるのではなく、[疑い]を表す〈(か)な〉〈(か)しら〉〈だろう(か)〉などは、聞き手への [質問]になる場合もあるとし、[質問]と[疑い]の区別は発話状況に応じて解釈される語用論的機能があることを指摘しました。

ここで筆者は[質問=聞き手情報配慮]、[疑い=聞き手情報非配慮]と定義し、まずは語用論的解釈によってのみ[質問][疑い]が区別される〈のではないか〉について用例を確認し、判別方法を説明したのち、[質問]と[疑い]の区別に関係する、明示的表示手段を明らかにしました。

2.語用論的機能の〈のではないか〉の[質問]と[疑い]の区別

筆者が〈のではないか〉の語用論的機能が[質問]と[疑い]のいずれであるか判断するために用いた判断基準は、「『そうです(/そうでした)』という形での返答が自然なものか否か」です。

 (3)(遊園地に行ってきた人物に対して)

   「今日は天気も良かったし、遊園地は混雑してたんじゃないか?」

   「はい、そうでした。」

 (4)「明日は天気も良いって言うし、遊園地は混雑するんじゃないか?」

   「*はい、そうです。」

[質問]は話し手が「聞き手は関連する情報を提供できる」と想定の元で発話する際の機能であるため、質問を投げかけられた相手は何らかの情報を提供することが期待されます。従って(3)では質問内容の正否を返答するのが自然な流れとなります。一方、[疑い]は、話し手にとって、話し手が知っている以上の情報を聞き手が知っているとは考えられない状況における機能であり、(4)では明確な情報を聞き手から得るために〈のではないか〉を用いているのではないことになります。そのため、「そうです」によって内容の正否を返答するのが不自然としています。

3.〈のではないか〉における[質問]と[疑い]の明示的表示

筆者は〈のではないか〉の[質問]と[疑い]の明示的表示手段と、[質問]が現れ得ない環境としての「地の文」について以下のようにまとめています。

3-1 形態論的手段―「(か)い」と「(か)しら」「(か)な」「だろう(か)」

〈のではないか〉に何らかの非自由(=拘束)形式が接続することを「形態論的」とよぶ。「(か)い」との共起であれば[質問]。[疑い]の諸形式との共起であれば[疑い]の例として判断される。

3-2統語論的手段―「質問」述部と「思考」述部

〈のではないか〉を用いた節を、「と」や「って」などの助詞を用いて述部の補部に埋め込む「〈のではないか〉とVスル」という形。

Vが「尋ねる」「質問する」など、質問を表す動詞なら〈のではないか〉は[質問]であり、「思う」「考える」「疑う」など、思考を表す動詞なら[疑い]である。「言う」などの発話を表す動詞の場合は〈のではないか〉を補部に含んでいても[質問]と[疑い]のどちらにもとることができるため(7)、この場合のみは統語論的手段が用いられていても、語用論的解釈に任される。

 (5)「文江に言わせれば、いつからか何かが狂ってしまって、樹海は自殺者の多い、死の森と呼ばれるようになってしまった、人間が、    森や宇宙に、畏怖の念を持たなくなったから、そうなったんではないかと文江はいうんだ。(略)」  (早野梓『幸福の遺伝子』)

3-3「地の文」と[疑い]

地の文では書き手が読み手に何らかの情報を求めることは考えにくく、地の文における〈のではないか〉は積極的に[疑い]を表示するわけではないものの、[質問]の解釈が排除されるという意味で[疑い]の表示に準ずるものと考えられる。

4.[質問]と[疑い]の用例数の分布における特徴的偏り

筆者は1884の用例を分析したところ、

・[質問]の用例数に対して[疑い]の用例数が圧倒的に多い

・[質問]は86.4%の用例が形態論的/統語論的標示が無い環境のものである

・[疑い]が語用論的効果として表される用例の割合は、[疑い]全体の17.4%に過ぎず、[疑い]の機能は発話状況にのみ依拠するよりも他に何らかの手段を伴って明示される割合が高い

以上を指摘し、〈のではないか〉を単独で用いた場合に[質問][疑い]間に生じる語用論的解釈の揺れを避ける方策がとられており、それを実現するためには、[質問] を標示する言葉より明確に標示できる、[疑い]であることを明示するという方策が取られることが多いと述べました。

5.まとめ

このように、筆者は〈のではないか〉について、単独で使用される際には発話状況に依存した語用論的解釈の結果としてとらえられる[質問][疑い]の各機能が、実際には多くの例で形態論的、あるいは統語論的手段に支えられており、特に[疑い]に対してその手段が多用されることを指摘しました。

6.参考文献

安達太郎(2002)「第5章 質問と疑い」『新日本語文法選書4 モダリティ』くろしお出版pp174-202

森山卓郎(1989)「コミュニケーションにおける聞き手情報―聞き手情報配慮非配慮の理論―」『日本語のモダリティ』くろしお出版 pp95-120

日本語会話における前置き表現

こんばんは。夜ゼミ3年の谷内果奈です。期限ギリギリで申し訳ありません。何事も余裕をもって取り組む事が大切ですね…。

今回は、私の研究テーマである「前置き表現」について、陳 臻渝(2007)「日本語会話における前置き表現」『言語文化学研究 言語情報編』2号 pp.99-115 大阪府立大学 を要約しました。

1.前置き表現の定義

まず、この論文では、杉戸(1983、1989)と才田他(1983)の先行研究で定義された、“前置き表現はメタ言語表現である”とする前置き表現の捉え方と、前置き表現の内容及び主節との構造上の関わりについて言及されていなかった大塚(1999)の論文、前置き表現の「~んですけど(が)」についての定義のみに留まり、前置き表現とは何かについて明らかにしていない梅岡(2004)の先行研究を疑問視している。

そこで、陳は、前置き表現の仮定義を以下のように設定した。

  1. 前置き表現は何らかの配慮によって用いられ、主要な言語内容に先立つ。
  2. ディスコースにおいて、その次にくる主要な言語内容を導入するという機能が基本的な機能である。
  3. 前置き表現には、次にくる主要な言語内容に対する判断(態度)や認識といった、話し手の主観が含まれている。
  4. 前置き表現の有無によって、次にくる主要な言語内容の命題・事柄の成り立ちに支障が起きることはない。

2.メタ言語表現の二分化

ここで、陳は、メタ言語表現には前置き表現であるものとそうでないものがあると述べ、才田他(1983)と杉戸・塚田(1991)の先行研究で「メタ言語表現」として一括りにされた次の4つの例文を、前置き表現であるものとそうでないものに二分した。

(1)    コンナ夜分オソクニ申し訳アリマセン、緊急ナ用事デスノデ… (杉戸・塚田1991:135)

(2)    私は別に専門家ではないのですが、専門家の間では… (才田他 1983:22)

まず、(1)と(2)の例文は、物理的場面と言語行動の主体に対して注釈する目的で発せられたのではなく、聞き手との対人関係を図りながら、次の主たる言語行動に入るための準備として用いられたものであり、また、「詫び」と「謙遜」という話し手の一種の判断(態度)や認識が読み取れることを陳は指摘している。そして、(1)と(2)の場合は、メタ言語表現とみなされる下線の部分を切り離しても、主要な言語内容の命題・事柄の成り立ちに支障がないと述べている。

(3)    レポートハ、A4版ノ用紙二、鉛筆以外ノ筆記用具ヲ使ッテ、郵送デ提出シテクダサイ。(杉戸・塚田1991:137)

(4)    シリツ大学、わたくし立の私立ですが、私立大学が集まって… (才田他 1983:24)

一方で、(3)と(4)の例文は、それぞれその後に続く「提出」と前の発話の「シリツ」を注釈しているだけであり、(1)(2)のような、次の言語行動の導入という機能は果たしていない。また、話し手の判断(態度)や認識についての情報は含まれていないことと、下記(3)’と(4)’のようにメタ言語表現の部分を切り離すと、伝達内容の部分損失や伝達内容の理解に支障をきたす場合があることを陳は指摘している。

(3)’レポートは、提出してください。【どのような形式で提出するかは不明だ】

(4)’シリツ大学が集まって…【「私立」なのか「市立」なのかは不明だ】

3.前置き表現の分類

以上を踏まえて、陳はメタ言語表現の前置き表現である部分のみを研究対象とした。

まず、陳は、対人関係に対する配慮を表すもの(聞き手との人間関係を保つための配慮)か、伝達性への配慮を示すもの(いかに効率よく伝達情報を聞き手に伝えるかという配慮)か、という基準を設けて、前置き表現を「対人配慮型」「伝達性配慮型」の2種類に分けている。

さらに、陳は、自然会話に近いものと考えられる『’92年鑑代表シナリオ集』などのシナリオデータ三冊から前置き表現使用例168例を収集・分析し、前置き表現の下位分類として以下の6つに分類した。

対人配慮型―詫び表現

申し訳ないんだけど/すみませんが/悪いんだけど/お話し中ですが/ご苦労だが/

⇒聞き手に詫びることで対人関係に配慮した表現。

対人配慮型―理解表明

お気持ちはありがたいんだけど/気持ちはわかるけど

⇒自分に向けられた好意や期待、聞き手の心理や言語行動への理解を示すことによって、聞き手との対人関係に配慮し、すでに構築されている人間関係を崩さないようにした表現。

対人配慮型―謙遜表明

こんなことを言うのは僭越ですけど/私が代わりといってはなんですが

⇒話し手が自分自身について慎ましく言及することにより、聞き手との人間関係を害さないように配慮した表現。

対人配慮型―釈明提示

別にあなたをひどい人だとは思わないけれど/形式的なことですが

⇒自分の言動が聞き手にとっては望ましくないかもしれないと考え、聞き手に不快感を与えてしまうのを避けようと配慮し、聞き手との人間関係の維持を図った表現。

伝達性配慮型―話題提示

例の展覧会の話ですが/これからのことなんだけど

⇒話し手が伝達しようとする内容を聞き手に予告して談話の方向性を示し、伝達効果を高める表現。

伝達性配慮型―様態提示

簡潔に申しますと/細かく言えば/

⇒次にいかに発話するかということを前もって聞き手に伝え、次の内容について細かく言うか、一口で簡単に言うかという伝達の様態を占めした表現。

また、「あらかじめお断りしておきますが」「はっきり言って」のように、聞き手にとって望ましくない、もしくは受け入れにくいと予想される内容が後続する前置き表現も⑥伝達性配慮型―様態提示に分類されると陳は述べている。「様態提示」し、先に話し手の態度を示すことで後続内容を受け入れやすくするという緩和機能を果たすのである。

そして、緩和機能には聞き手への配慮も含まれているため「対人配慮型」前置き表現ではないか、という点に関しては、配慮を表す機能はあくまでも話し手の態度を表明した上で、その文脈があって働く機能であるため、「様態提示」前置き表現の根本的な性格ではないと主張している。

4.まとめ

本稿で、陳は、メタ言語表現を前置き表現と非前置き表現に二分した上で、上記に挙げた6つの分類モデルを提示した。また、今回は前置き表現の分類のみにとどまったが、各下位分類の前置き表現の言語的特徴やその使い分けについて探っていくことを今後の課題としている。そして、特に中国人学習者に多くみられる前置き表現の間違った使用法をどのように指導し、より容易に前置き表現を習得させるかについても課題とすると結んでいる。

以上です。陳が示した6つの分類の改善点を考慮しつつ、今後の参考にしていきたいと思います。

[参考文献]

才田いずみ・小松紀子・小出慶一(1983)「表現としての注釈―その機能と位置付け―」『日本語教育』52号

杉戸清樹(1983)「待遇表現としての言語行動:注釈という視点」『日本語学』2巻7号

杉戸清樹(1989)「言語行動についてのきまりことば」『日本語学』8巻2号

杉戸清樹・塚田実知代(1991)「言語行動を説明する言語表現―専門的文章の場合―」『国立国語研究所報告103 研究報告集12』国立国語研究所

梅岡巳香(2004)「日本語表現の特徴をさぐる」『昭和女子大学大学院日本文学紀要』15号 昭和女子大学

シナリオ作家協会編『’90年鑑代表シナリオ集』映人社

シナリオ作家協会編『’91年鑑代表シナリオ集』映人社

シナリオ作家協会編『’92年鑑代表シナリオ集』映人社

The Alchemist by Paul Coelho

こんにちは、昼ゼミ交換留学生のエイベリーです。つい最近試験がやっと終わりましたが就職活動が本格的になって忙しい日々が終わりません。3年生のみなさん一緒にがんばりましょう。

論文なんですが私は以下の本についてレポートしたいと思います。

Paulo Coelho. The Alchemist. New York: Harper Collins, 1998.

この本では、Metaphor(暗喩)が多く出てきて、物語全体がMetaphorかもしれないと言われる有名な本です。皆さんにとって聞いたことがない英語の表現とその言葉の裏の意味に関して私は例に使って説明したいと思います。ちなみに論文は英語で書きました。

The Alchemist tells the tale of Santiago, a shepherd boy from a small Andalusian town, of whom we follow on his journey of self-discovery as he searches for a hidden treasure located near the pyramids in Egypt. He is determined, headstrong, and curious to learn all he can about the world. As a result, he resisted his parent’s desires that he become a priest and chose instead to work as a shepherd so that he would have the opportunity to travel throughout the country.

In his journey, Santiago sees the greatness of the world, and meets all kinds of exciting people like kings and alchemists. However, by the end of the novel, he discovers that the treasure was the journey itself, the discoveries he made, and the wisdom he acquired.

I chose to report on this novel because it contains a lot of metaphors and hidden imagery which encourages everyone’s own personal perception of the novel. I wish to highlight a couple of these examples below.

  • “You don’t have to understand the desert: all you have to do is contemplate a simple grain of sand, and you will see in it all the marvels of creation.”

This quote is said by the alchemist, a supposedly 200 year old extremely powerful practitioner of alchemy. In the novel he is a mysterious character who serves as a teacher and guide to Santiago. When Santiago comes upon the vastness of the desert he is overwhelmed and finds it difficult to comprehend. The alchemist is thus urging Santiago, and us readers as well, to consider a vast desert from a visual standpoint. The desert is beautiful but all that beauty, all marvel, all complexity can be found within a given speck of that terrain, a grain of sand. Because without the individual grains of sand, the desert would not exist.

  • “…every blessing ignored becomes a curse. I don’t want anything else in life. But you are forcing me to look at wealth and at horizons that I have never known. Now that I have seen them, and now that I see how immense my possibilities are, I’m going to feel worse than I did before you arrived. Because I know the things I should be able to accomplish, and I don’t want to do so.”

Throughout the novel, Santiago is not always constantly on the move. For one year he stayed in a town called Tangier and worked for a crystal merchant. The crystal merchant says these words to Santiago as he prepares to leave Tangier after an extremely successful year working at the crystal shop. The crystal merchant is an important friend to Santiago however he also functions as a cautionary case of someone who has become complacent and given up the pursuit of his Personal Legend. A Personal Legend is the word used in the story to depict one’s dreams or destined path in life.

every blessing ignored” refers to all the opportunities one has been given but ultimately decides not to act on. In the case of the crystal merchant, he has a dream to make a pilgrimage to Mecca but does not pursue it because he thinks he will have nothing to live for once he’s achieved his dream.

now that I have seen them …” is the courage Santiago displays as he decides to continue his journey and “I’m going to feel worse … because I know the things I should be able to accomplish” refers to the crystal merchant’s regret as he knows that he did not achieve all that he can in life when he see’s Santiago’s determination and feels depressed as a result. While he takes no pride in his conservative approach to life, he feels rooted in his ways and thus still refuses to change.

The novel portrays his fate as one to avoid and brings forth the message that those who ignore their Personal Legends in favor of settling into material comforts always feel haunted by their untapped potential. This fear of failure seems to be the greatest obstacle to happiness.

  • before a dream is realized, the Soul of the World tests everything that was learned along the way. It does this not because it is evil, but so that we can, in addition to realizing our dreams, master the lessons we’ve learned as we’ve moved toward that dream.”

The Soul of the World is a magical force of nature within the novel, it can be interpreted as God. In this quotation the alchemist says these last words to Santiago before the two part ways at the end of the novel. The alchemist explains to Santiago why he had to endure so many trials if the Soul of the World, does actually want him to fulfill his Personal Legend. This statement implies that the important part of pursuing one’s Personal Legend consists not just in reaching the final goal, whether that be turning lead into gold like an alchemist, or finding a treasure near the pyramids as was Santiago’s journey, but also in learning through action. Santiago, ultimately travels through Spain, into Africa, and across the Sahara to the pyramids, only to learn that the treasure he seeks lies under a tree in the area where he began his trip. Along the way, he gained magical powers, he learned to read omens, to communicate with the elements, and even to turn himself into the wind. His transformation, however, could not have occurred without this journey and the experience he gained from living out his Personal Legend.

These quotes are just a sampling of the wonderful imagery and underlying messages portrayed in The Alchemist. Although it can be considered a difficult text I definitely encourage everyone to read it.

難しいかもしれないですが本当に面白い本なので私はお勧めします。ぜひ読んでみて下さい。

引用文献

Paulo Coelho. The Alchemist. New York: Harper Collins, 1998.

Paulo Coelho. “Interview with Paulo Coelho.” 2008-10-21. http://www.santjordi-asociados.com/interviews.htm

モダリティー



こんにちは。昼ゼミの古瀬玲愛です。新しい年になってゆっくりする時間もなく日々忙しくしております。

ところで、本日はこの間読んだ以下の論文をレポートします。モダリティーについて興味がありモダリティーにはどのようなものがあるのかと思い、読んでみました。

高梨信乃(2010年6月12日) 「評価のモダリティー ~現代日本語における記述的研究~」第1刷発行 くろしお出版

評価のモダリティーと実行のモダリティーの交渉について見られています。「評価→実行」の方向を考え、実行のモダリティーは大きく分けて、行為要求と意志があるが評価のモダリティー形式による行為要求を評価のモダリティー形式による意志表明について見ている。逆に「実行→評価」の方向での関連として行為要求の形式が評価のモダリティーに接近する場合について見ている。

行為要求は聞き手が行為を実現することを求めたり、容認したりする機能で行為要求を下位分類する時に重要な観点となってくるのが、その行為の実現がだれにとって有利か。<命令><禁止><依頼>は話し手にとっての有益性を基盤とした行為要求の系列と言われている。一方<許可><進め>は聞き手にとっての有益性を基盤とする行為要求の系列と言われている。

後者の説明は評価のモダリティー形式で、聞き手にとっての有益性を基盤とする行為要求を分析する際重要な観点になってくる。行為の実績に関して話し手の強制力と聞き手の決定権のいずれかという点だと思われる。

これを踏まえて以下を説明、要約していきたいと思う。

・<許可>と<勧め>の違い

許可は聞き手の行為の実現を話し手が容認することを伝える機能で積極的に聞き手に対し行為を促すものでない。一方、勧めは、聞き手にとって有益だと考えられる行為を実現するように話し手が聞き手側に踏み込んで促す機能。このように許可は聞き手の決定権が優勢で、勧めは話し手の強制力が優勢である。

もう帰ってもいいよ。<許可>

もう帰るといいよ。<勧め>

話し手の強制力の強さは様々で異なる形式により、表し分けられる。

もう帰ったほうがいいよ。

もう帰らないといけないよ。

(2)(3)(4)を比較すると話し手の強制力は(2)<(3)<(4)の順に強くなる。逆にいえば行為を実現するかどうかについて聞き手の決定権は(2)>(3)>(4)の順に弱くなっている。(2)は勧めといえるが(4)になると勧めより<忠告>と呼ぶほうがふさわしい。(3)は両者の中間的な意味である。このように許可、勧め、忠告といった機能の位置づけには、話しての強制力の強弱という観点が不可欠である。さらに各機能には、行為の実現でなく非実現を求める<否定の許可><否定の勧め><否定の忠告>というべきものがある。

まだ帰らなくてもいいよ。

「帰る」という行為の非実現を許可する、否定の許可である。

・各形式による行為の要求の典型

評価のモダリティー形式が➀制御可能な➁未実現の➂聞き手の行為について用いられ、行為要求となる時の最も基本的、典型的な機能を確認する。

「てもいい」は、許可として機能する。

(6)「おかあさま、もう寝てもいいです。ぼく何時間ぐらいねむったの」

(三浦綾子 『塩狩峠』p113)

「なくてもいい」は聞き手がその行為を実現しないことを許可する、否定の許可として機能する。

(7)「わざわざ、来てくれなくてもいいよ、遠いから」

(増野綾子 『太郎物語-大学編-』p307)

・<勧め>と<忠告>

勧め、もしくは忠告として機能する評価のモダリティー形式は「といい」「ほうがいい」など複数あり、それぞれ意味が異なる。

「といい」はその行為を単純に望ましいものとして勧める場合に用いられる。話し手の強制力は弱い。

(8)「長浜へ行ったら雑多イに替え玉っていうものをやるといいよ。」

(林真理子 『美食倶楽部』p85)

「ほうがいい」はその行為を実現しないと悪い結果になるというニュアンスを帯びやすいため多くに場合、忠告に近い意味になる。

(10)「でも永沢さん、ハツミさんのことを大事にしたほうがいいですよ。あんな良い人なかなかいないし、あの人見かけより傷つきやすいから」

(村上春樹 『ノルウェイの森』p169)

・評価のモダリティー形式の意思の表明

評価のモダリティー形式による行為要求が多岐にわたっているのに対し、意向への関わりは限られている。

(11)「(略)よかったら、夕食は私のほうで何かこしらえてもいいわ」

(林真理子 「東京の女性」p167)

「てもいい」が制御可能な未実現の話し手の行為に用いられると、話し手のその行為を行う、意志を表し、「しよう」などによる意志の表明に近い意味になる。ただし、「てもいい」による、意向はその行為を行うことが許容できる、もしくはその行為を行う準備があるという、消極的な意向の表明の留まるという点で、「しよう」などによる意志表明とは異なっている。

(12)人間、容姿ではありませんよね。私もまだまだ、がんばらなくちゃ。

(毎日新聞2001.4.4)

「なくてはいけない」は義務や規則ではなく、話し手のその行為を行うことへの強い意欲を表すような場合がある。

・行為要求から評価のモダリティーへ

「実行→評価」の方向での関連として、代表的、典型的な行為要求の形式である命令形、禁止形が評価のモダリティー形式へと接近する様子をみる。

・命令形、禁止形と評価のモダリティー形式の基本的な違いは、命令形、禁止形において、評価のモダリティー形式と異なって、テンスが分化しない。

(13)早く行け。

(14)まだ行くな。

また、行為者は基本的には聞き手に限られ、明示されない。

(15)({私は/君は/彼は})早く行け。

(16)({私は/君は/彼は})まだ行くな。

命令形と禁止形が表す基本的な機能は、それぞれ<命令><禁止>である。命令・禁止は行為の実現、非実現を聞き手に強制するもので、聞き手に対する配慮を含まない点で、評価のモダリティー形式によって表される<勧め><許可><忠告>、<否定の勧め><否定の許可><否定の忠告>と異なる。このようにみると、命令形、禁止形と評価のモダリティー形式は、基本的な文法的特徴の点でも、また行為要求としての意味の点でも異質なものに見えるが、用法を詳細にみれば、両者の間には共通する性格もみえる。

・命令形から評価のモダリティー形式への接近

(17)「おい次郎。ちょっとこいよ。話がある。」

(山村美紗 『凶悪なスペア』p286)

(18)「おーい、誰か」

丸岡は椅子ごと身をよじって、若い男を呼んだ。

「伊東邸と深沢邸をお持ちしなさい」

それは家の模型で、どちらも奇妙な形をしていた。

(林真理子 『美食倶楽部』p65)

このように強制力が強く、聞き手に配慮しない行為要求は命令形独自の用法であるが、このような行為要求が行える場合は、話し手の立場、聞き手との関係で限られる。

典型的な<命令>以外の用法の中には、評価のモダリティー形式に近いものがある。

(19)私はメロンを切って博士に手渡しをし、安楽いすの傍らに腰をおろした。

「君も食べなさい」

「ありがとうございます。どうぞお気遣いなく」

(17)(18)でことなる点は実現するように働きかけている行為が聞き手にとって有益なものとして捉えられている。

(19‘)君も食べるといい。

また、聞き手がその行為の実現を望んでいるという状況で、命令形が用いられる場合。

(20)忘れてもいいのよ、忘れなさい。

(池田満寿夫 「エーゲ海に捧ぐ」p193)

命令形と評価のモダリティー形式との共通性は、別の観点からも見いだせる。

(21)一方的に話を終え、受話器を置いたとき、家の中に気配を感じた乃武夫が台所で水を飲んでいた。

「入る時は玄関から入れよ」

(向田邦子 『阿修羅のごとく』p221)

これらの命令形は、評価のモダリティー形式の用法と近い。

(21‘)入る時は玄関から入るべきじゃないか。

(21)は、非実現に事態する評価を表すもので、聞き手を非難している点で(21‘)と同じである。

・禁止形から評価のモダリティー形式への接近

禁止形「するな」をみる。

(22)カオル「今ときめいたな」

ウシ「……」

カオル「とぼけるなよ、俺にはわかる。そういうきたならしい目つきで俺のソノコ勲を見つめるな!」  虫酸が走る!」

(松岡錠司 「バタ足金魚」p89)

このような典型的な、禁止は禁止形独自の機能である。評価のモダリティー形式に置き換えると、意味が変わる。

一方、典型的な、禁止から離れ評価のモダリティー形式が表す意味に近づく場合。

(22‘)俺のソノコを見つめちゃいけない。

(23)小声で

「姉ちゃん、出るな」

ひとりで玄関の戸をあけた。

実現しないように聞き手に働きかけるものである。

(23‘)「姉ちゃん、出ちゃいけない」

これは<否定の勧め>もしくは<否定の忠告>と考えられ、「てはいけない」の意味に近い。

以上、命令形、禁止形から評価のモダリティー形式への接近といえる現象を見てきて、<命令形><禁止形>だけに限らず、状況、文脈によっては、評価のモダリティー形式と共通する機能を果たす場合がある。命令形、禁止形は話し手の評価を示すものでなく、文脈によって、さまざまな色合いを出すことができる。

今回はテーマを絞って第9章だけを読んでみました。とくに、行為要求としての機能と命令形、禁止形と評価のモダリティー形式との関係のついて、言い方や状況などによって機能も変わっていくことが分かり、モダリティーについて視野が広がった。

引用文献一覧

朝日新聞 2001 『CD朝日新聞2001データ集』 日外アソシエーツ

池田満寿夫 1982 「エーゲ海に捧ぐ」 文藝春秋 p193

曽野綾子 1979 『太郎物語-大学編-』 新潮社 p307

林真理子 1989 『美食倶楽部』 文藝春秋 p65、p85

林真理子 1989 「東京の女性」 文藝社 p167

松岡錠司 1991 「バタアシ金魚」 映人社 p89

三浦綾子 1937 『塩狩峠』 新潮社 p113

向田邦子 1985 『阿修羅のごとく』 新潮社 p221

村上春樹 1991 『ノルウェイの森』 講談社 p169

山村美紗 1983 「凶悪なスペア」 講談社 p286

条件節「ば」の用法と文末制限について

こんにちは。昼ゼミ2年の早川です。提出期限ギリギリになってしまい、申し訳ございません。最近寒いですね。そして私の部屋も非常に寒いです。私の部屋にある暖房器具はハロゲンヒーターのみ。ハロゲンヒーターは真正面の光が当たっている部分しか暖めてはくれないのです。キーボードを叩く手もかじかみます。パソコンとチョコだけが私の友達です。

さて、今回私は以下の論文を紹介させて頂きます。

谷口真樹子(2009)「条件節「ば」の用法と文末制限について」、『言語文化教育研究』(4), pp.24-28

「ば」と「と」と「たら」は以下例(1)のように互いに置き換えられる場合と、(2)(3)のように互いに置き換えられない場合がある。

(1)a まっすぐ行くと、スーパーがあります。
b まっすぐ行けば、スーパーがあります。
c まっすぐ行ったら、スーパーがあります。
(2)a*人数が多いと、帰ったほうがいい。
b 人数が多ければ、帰ったほうがいい。
c 人数が多かったら、帰ったほうがいい。
(3)a*電車に乗ると、座ってください。
b*電車に乗れば、座ってください。
c 電車に乗ったら、座ってください。

これらの3形式を区別するための手段の一つとして「文末制限」の違いがあるが、(1)~(3)の例からわかるように、「たら」は文末制限が無く、「と」は後件に主観的表現が許されないことに対し、「ば」は文末制限が明確でない。
本論では、「ば」の個別の機能と特徴を明らかにし、どのような場合に文末制限がかかるのか、また、何故その場合に制限がかかるのかを考察している。また、その結果を基に日本語教育における条件節「ば」の指導案を示しているのだが、今回は考察の部分のみに焦点を当てる。

先行研究で明らかになった「ば」の用法は、大きく分けると「一般条件」と「仮定条件」の二つに分けられる。鈴木(1978:211)によると、「一般条件」は「前件が成立すれば、必ず後件が習慣的・反復的・自然発生的に後件が生じる」ことを述べるものであるとしている。また「仮定条件」についてグループジャマシイ(1998:478)は「特定の事物・人物について『Xが成り立てばYが成り立つ』という関係を表す」としている。また、この二つの用法のうち「一般条件」が基本的用法であることも明らかになった。次に、文末制限においては、グループジャマシイ(1998:480)は「前件が動作動詞で、後件に『意志・命令・禁止・依頼』などのムードが来る場合は、制限がかかる」ことを明らかにしている。しかし、これらの先行研究では「一般条件」と「仮定条件」の区別が「一般的」であるか、または「特定の事物」であるか無いかに留まり、線引きが難しい例文も出てくる。また、文末制限についての条件は明らかとなったが、何故文末制限が起こるのかという疑問については未だ明らかとなっていない。そこで谷口は、これらの疑問を解明するため、分析・考察を行った。

「一般条件」と「仮定条件」の相違点を分析するにあたり、谷口は森田(1967:33)が述べている「結果の句には話し手の主観や恣意性が許されない」と、グループジャマシイ(1998:33)が述べている「『仮定条件』には、文末には「だろう」「はずだ」または「思う」などの表現を伴うことが多い」という二つの見解に着目した。そこで「一般条件」と「仮定条件」の違いは、後件が客観的に述べられているか、主観的に述べられているかによるものと仮定し、分析し検証を行った。検証の結果、「一般条件」は、後件が客観的に述べられており、話し手がコントロールできないという特性を持っていることが分かった。一方「仮定条件」は、後件が主観的に述べられており、話し手のコントロールが及ぶものであることが明らかとなった。以上の分類を踏まえた上で、「文末制限」の観点から見ると、後件が主観的に述べられている「仮定条件」の中で制限が起こっていることは明らかである。しかし、その制限がかかる要素は、命令や依頼などの主観的表現の一部であることや、制限がかかる要素については分からない。そこで、谷口は「ば」の用法の新たな分類を試み、制限が起こる要因について分析した。

谷口は「ば」の文末制限はムード(話し手の判断や心的態度)に関係していることから、富田(2007)によるモダリティの体系に従い分類することが有効ではないかと考え、「ば」を新たに分類し、分析、検証を行った。谷口は「ば」の用法を「話し手の認識・判断」と「話し手の行為実行」に分類し、分析した結果、まず「話し手の態度・判断」は、「前件が成立すれば、必ず後件が生じる」と話し手が客観的事実として認識しているものと、それを基本として、主観的判断・評価が加えられたものがあると結論付けた。次に、「話し手の行為実行」については、多くの場合非文となる。その理由として、「ば」は「時制辞を持たないため、前件が表す事態の実現を前提としない」という井上(2007:46)の見解より、「ば」は「前件が表す事態は未確定/未完了を意味する」という考えを導き出した。したがって、前件の行為が完了を意味しなければ述べることのできない「話し手の行為実行」は後件にくることはできないことが分かった。しかし、先行研究であげられていた「状態性述語」は、「行為の完了」とは無関係であるため、後件に「話し手の行為実行」を表すことができると考えられる。このように、後件に「話し手の行為実行」が来る場合は、多くの場合非文となり、限られた前件の条件でしか述べることができないため、「ば」の基本的用法であるとは考えにくい。したがって、谷口は「ば」の用法はあくまでも「話し手の認識・判断」を基本としており、「話し手の行為実行」は二次的用法であると結論付けた。
以上の分析結果から、モダリティによる「ば」の用法の分類、文末制限は次のようにまとめられるとしている。

a.「ば」の本来の用法は、「話し手の認識・判断」を表すものである。
b.二次的用法として、前件が「行為が未確定・未完了」の場合は、後件の選択の一つとして「話し手の行為実行」について表すことができる。
c.bの特徴から外れる「話し手の行為実行」は、非文となる。

以上で要約を終了します。
条件節について研究をしていく上では文末制限の違いに目を向けるということを今回の論文から知ることができました。また、前回の課題の際には条件節全体に目を向けて研究を行いましたが、今回のこの論文を読んで、条件節の中でも特に「ば」について興味を引かれました。これから更に研究を進めていき、「ば」をはじめとした条件節についての考察を深めていきたいと思います。