日本語母語話者の独話に現れる接続詞「で」について

こんにちは。夜ゼミ2年の依田です。先週は突然の大雪で驚きました。また近い内に雪が降る可能性があるらしいので、皆さん気をつけてください。

今回は以下の論文を要約しましたので、紹介させて頂きます。
石島 満沙子,中川道子(2004)「日本語母語話者の独話に現れる接続詞「で」について」『北海道大学留学生センター紀要』第8号 pp.46-61
この論文では、接続詞「それで」とその短縮系「で」が学会発表の独話でどれくらいの頻度で使用されているかが調べられていて、さらにその意味・機能の分析がされている。

まず、石島,中川は「それで」または「で」の使われている学会発表のテキスト10編を使い、それぞれの使用頻度を調べている。

.       P1  P2  P3  P4  P5  P6  P7  P8  P9  P10  総数
「それで」   6    0     1     0    0     0   0     0   1     1    9
「で」       20  13  45  28  30   12    10    3    4    11   176

使用された総数は「それで」が9、「で」が176と大きな差が見られ、また「で」は全てのテキストが使用しているのに対し、「それで」は6つのテキストで使用されていなかったと分析している。

次に「それで」と「で」のそれぞれの意味・機能の比較をしている。「それで」の意味・機能は辞書および参考資料を使って以下の3つにまとめている。
(1)順接:前文を後文の原因と認める用法
(2)累加:前文に異なる状況を加える用法
[(3)相手の発言に対しさらなる発言を求める用法]
さらに論文内の分析対象は独和であることから(3)の用法を除外し、独和における「それで」の用法を(1)順接,(2)累加の2つとしている。

「で」の意味・機能は発表テキストに現れた176回の「で」から、どのような意味・機能で使われているかを分析し、以下の6つにまとめている。
(1)順接:前文を後文の原因と認める用法
(2)添加:前文の後に異なる後文を加える用法
(3)同列:前文の内容を後文で具体的に言い換えて説明する用法
(4)補足:全文で言及しなかった情報について後文で補う用法
(5)転換:前文の内容から転じて後文で新しい話題を導く用法
(6)対比:前文の内容に対立する後文を導く用法
「それで」の用法(1),(2)と「で」の用法(1),(2)は同じ用法だが、(3),(4),(5),(6)は「で」にしかない用法であり、「で」の方がより多様な機能を持っているという事が分かった。石島,中川はこの多様性が「で」の使用頻度を高めている一因なのではないかとしている。

また、この論文では「で」と他の接続表現が重ねて使用される、接続詞の二重使用にも少し触れられていた。接続詞の二重使用として上げられた例では、「で」に後続する接続詞が前文と後文の関係を示していて、「で」が無くなっても意味が通じるものがあった。このことから石島,中川は、接続詞の二重使用によって「で」の機能を弱めているのだと考え、寧ろこの場合の「で」は接続詞の意味と共に、単に発話者の語調を整える機能として使用されているのではないかとしている。

まとめとして石島,中川は、学会発表の独和という公式的な場で短縮系の「で」の使用頻度が高かったのは意外だったが、多様な意味・機能を持つ「で」の方が発話者が前文と後文をつなげる上で使用しやすいのだろうとした。また接続詞の二重使用については、「で」の接続詞としての機能が弱まっている可能性があるとし、これは発話者の語調を整えるという「で」の新しい機能を示唆しているのではないかという考えを示した。

副詞「なんか」の意味と生起環境について

こんにちは。夜ゼミ2年の秋山です。先日風邪を引いて喉がやられてしまい、殆ど喋れなくなってしまいました。今年の風邪はしつこいので、みなさん体調管理には気を付けてください。

今回は、以下の論文を要約しました。大工原勇人(2009)「副詞「なんか」の意味と韻律」『日本語文法』9巻1号pp.37-52.

この論文では、副詞「なんか」の用法において、先行研究は「ぼかす」や「やわらげる」といった談話標識としての表現効果についての記述が多いと大工原は指摘している。これを受けて、「なんか」に構文・文法レベルで注目し、次の4つの問題点が未解決だとし、列挙している。

① 「なんか雨降ってきたよ」の「なんか」は何を意味するか。
② 「なんか明日は雨が降るだろう」は不自然だが、なぜか。
③ 「なんかー、窓を開けてください」は不自然だが、なぜか。
④ 特殊な韻律の「なーんかうさんくさいな」はどのような環境で生起し、何を意味するか。

上の①~③を解決する仮説として、大工原は「エビデンシャル仮説」を提唱する。エビデンシャルとは、「話し手がいかにして命題情報を得たかを特定する言語形式」だと述べている。例として「彼は結婚したそうだ」という文を挙げ、文末の「そうだ」は〈彼が結婚した〉という命題情報を、伝聞によって得たと特定しているのだと説明している。そして、情報の認知過程を、環境とその認知者の関係を取り上げてモデル化して、示している。まず、環境から認知者への情報の流れを「刺激」、認知者の思考による情報の作成を「考察」、そして認知者が環境の様子を調べる様子を「探索」とした。「なんか」は「今語られる命題情報は、探索によって得られたもの」であるということを表すエビデンシャルだと大工原は述べる。よって①は、認知者が、空模様がどうなっているのかを調べ、「雨が降ってきた」という情報を得たと説明している。さらに②について、命題の真実性が問題にならず、エビデンシャルが不要な文と「なんか」は相性が悪く、使用できないと述べる。③も、真偽が問題にならない文であるため、②と同様の理由で「なんか」は使えないとしている。④については、「認知体験が複数回反復されたこと」であるという仮説(すなわち、大工原が提唱する「反復認知仮説」)を立てて、説明している。これは、いぶかしさや知覚の微妙さを示すのではなく、複数回にわたって探索を行ってもなお、同様の情報が得られることを示すものだとしている。例として「(この薬を塗ると)なーんかすごいヒリヒリする」という文を挙げている。これは、薬を塗った後に何度皮膚の感覚を探索しても、〈すごいヒリヒリする〉という情報が得られることを表すと述べる。さらに、いぶかしさや知覚の微妙さ、あるいは不審感に結び付きやすい理由として、これらの感覚が認知行為をやり直す強い動機になるからだ、としている。このことから、何度も認知をやり直すという想定が不自然になる場面では「なーんか」は使用できないと述べる。

 この論文では、これまで「なんか」がもつとされる役割についての研究が多い中、「なんか」それ自体の意味と、どういう場面で使われるのかに注目しており、その点が興味深いと感じました。しかし、文脈、場面によって「なんか」の自然さが増減したり、どういった理由でそうなるのかについては疑問が残ります。自然さは、分析レベルが文なのか、文章の一部なのかによっても変わってくるのではないかと考えられます。また、大工原が言うように、日常会話で「なんか」が頻出する一方、改まった場面では使われにくい理由も考えた場合、一つの説で説明しきれるとは限らないのではないか、と思われます。今後研究を続け他の論文を読む際、これらの点に留意していきたいと考えています。

引用文献
大工原勇人(2009)「副詞「なんか」の意味と韻律」『日本語文法』9巻1号pp.37-52.

意味論的(語用論)的情報への量的アプローチ

こんにちは。昼ゼミ2年の青木です。今年成人式を迎えましたが、若干はしゃぎすぎてしまったことを反省しつつ、今年1年慎重に頑張っていきたいと思います。
さて、今回は自分が興味ある語用論等に関係すると考え、読んだ論文について報告します。

加藤雅人(2005)「意味論的情報の可能性と限界」『関西大学総合情報学部紀要』第23号 pp.37-50.

この論文では、「情報」という概念を、意味論の対象とする質的概念と情報理論の対象とする量的概念に区別し、その関係性について、「意外性」という概念を用い情報理論をもとに質的情報の量化を考察している。そしてそれが可能なのは、(1)音素や文字などの非意味論レベル、(2)形態素、語、文などの意味論レベル、(3)、実際の使用という語用論レベルという三つのうち、(1)のレベルに限定されると指摘している。以下、各概念の説明とともに加藤が考察した内容をまとめていく。

加藤は、まず「情報」を質的側面から捉えると、(1)コミュニケーション(伝達)(2)『ニュース』の伝達を意味し、「情報」はデータの集まりといった静的な名詞的概念ではなく、「伝達し、他者に共有化させること」すなわち「知らせる」という動的な動詞的概念であるとし、受け手にとって情報性を有するのはニュース(新情報的)価値をもつメッセージのみであるとした。つまり、メッセージの情報価値を決定する要因には、発信者の意図や受信者の理解度といったコミュニケーション次元における語用論的要素も関連しているということであると、加藤は述べている。

次に、情報を量的側面から捉えた場合(情報理論)、情報はメッセージの「確率的特性」とみなされ、意味とは無関係なものと規定されるとしている。ある信号が情報を持つのは、「その代わりに出現しうる代替信号を排除する限りにおいて」であるとし、具体的意味を加藤が用いた例を挙げ説明すると次のようになる。
“Give me the a-”という断片的メッセージにおいて、「a-」という文字には何の意味もないが、それは「a-以外の文字で始まるその他の語」を排除する。さらにapr-の後に-icotが出現しとたき-icotはapr-に比べて情報量は遥かに少ない。というのも英語においてapr-で始まる語はapricotかapronの二つ(確率は50%)しかなく、排除量が極めて少ないからである。
・「a-」=「a-以外の文字で始まるその他の語」を排除
・「ap-」=「ap-以外の文字で始まるその他の語」を排除
以上のように、メッセージの確率論的特性が情報の量化を決定する鍵となっているとした。

続いて、「情報」の二つの側面を踏まえ共通点を続いて述べている。質的概念としての情報の鍵は「ニュース性」であり、既知のものや予想通りのものは情報価値をもっていないことから、「意外性」と言い換えができる。一方、量的概念として情報の鍵を握るのも、予想される出現確率の低い信号(意外な信号)ほど多くの情報価値をもっているとする、「意外性」である。すなわち、情報とはどちらにせよ、メッセージの「意外性」の尺度であり、質的情報、量的情報はこの「意外性」という概念に通底していると、加藤は考察している。

以上のように「情報」の質的概念、量的概念に共通性があることから、加藤はさらに情報理論をもとに質的側面(言語)の量化を試みている。言語の量化をする上で、その適用は三つのレベルで適用する必要があるとして、(1)音素や文字という非意味論レベル、(2)語や形態素そして文という意味論レベル、(3)言語の実際の使用という語用論(コミュケーション)レベルに分けている。
(1)の場合、加藤は、個々の音素や文字の出現頻度、それらの組み合わせや語の中でも占める位置という文脈条件が情報値を決定するとし、量化可能であると述べている。すなわち音素の使用頻度や、音素の組み合わせ、文脈条件(例:英語の場合、qの後にuが来ることがほぼ100%決まっている)により、情報理論に基づく(1)の量化が可能であるということである。
(2)、(3)の場合、言語の量化は容易ではないとして、加藤は意味論的情報への量的アプローチの限界を考察している。(2)において、自然言語は意味論レベルにおいて、話者の語彙や言語レパートリの多様性が情報値に影響を与え、さらに個人の情報空間を数値化するのは困難であるため、量化は可能ではないということである。「個人の情報空間」とは、メッセージに対する「関心」や「信念」の強さ、メッセージの「有用性」や「信頼性」の程度、メッセージの「新しさ」や「確かさ」の程度であるとし、(3)においても同様に個人の情報空間の数値化という問題が量化の可能性を阻んでいるとしている。また、(3)では、情報の受信者の期待、好奇心、退屈、驚き、緊張、不安について量化することも不可能であるため、情報理論の語用論レベルの適用が困難であるとしている。

以上、加藤の考察を述べたが、自然言語を数値化・量化する試みに非常に興味を持った。また、情報理論からみる意味論・語用論レベルにおける個人の情報空間の数値化が困難であることから、意味や語用論が拡がりを持ち、曖昧な表現やポライトネスなど多彩な表現があるということが分かった。一方で、加藤のコミュニケーションにおける「情報」についても考察が必要であると感じた。

日本語動詞述語の構造

おはようございます。朝っぱらからバイト先から失礼致します。夜ゼミ3年鈴木貴美です。2012年度の前期は2グループにおりました。
クリスマスには課題を確認したはずなのに、もう1ケ月が経とうとしています……時が経つのは早いものですね。今年は就職活動やら卒論やらに忙殺される予定なので覚悟したいと思います。寒い日が続きますので、皆様もお身体には気を付けてお過ごしください。

去年の投稿を見ていただくと解るかと思うのですが、私は2年次にメタファーとメトニミーについての研究をしておりました。しかし、早々に壁にぶち当たり(笑)3年次からテーマを変えて「でした」と「だったです」についての研究に取り組んでおります。2年生の皆さま、テーマ選びは視野を広く、そして慎重に。
というわけで、些か前置きが長くなりましたが今回は以下の本について紹介をしたいと思います。

丹羽一彌(2005)『日本語動詞述語の構造』笠間書院

2012年度の後期の発表でも論文を紹介した方の著書です。論文も幾つか読んだのですが、私自身が文法に関心があったのもあり、とても興味深い話が多くあったので此方を選びました。方言なども踏まえ、命題の名詞化などにも触れていますが、今回はタイトルにも掲げられている動詞述語の構造と、私の研究テーマでもある丁寧語の文成立形式化を中心に紹介致します。

一点目の動詞述語には必須要素とオプション要素の二つがあると丹羽は述べています。それについて順に纏めていきます。

まず、前者の必須要素は動詞の活用形と文成立形式の二つに分けられます。活用形というのは語幹形、未然形、連用形、連体形、音便形のことで、それに付随する叙述、希求、禁止、意志、否定意志、推量の六つを文成立形式と呼んでいます。丹羽はこれらが組み合わさることによって動詞述語が成立するとしています。 例えば、書くという動詞は連体形kakuに禁止の-naが接続することで書くな(kaku-na)という述語を構成するということです。所謂学校文法では活用にさまざまな問題があるため、このような分け方は非常に画期的であるように思います。但し、私が研究している丁寧表現の一種であるマス(-mas-u)は連用形に接続しますが、新しい派生動詞であるとされていました。

続いて、後者のオプション要素というのは先述の「動詞活用形+文成立形式」に意味を付け加えるものです。これらは動詞活用形に続いて、使役、受動、授受、アスペクト、客観否定、目撃、尊敬、丁寧、主観否定、確認の順に接続すると丹羽は述べています。
例を挙げるならば、書かせる(kak-ase-ru)は動詞活用形(語幹形:kak)+オプション形式(使役:ase)+文成立形式(叙述:ru)ということになります。このあたりが私が今テーマにしている配列に密接に関わってきます。

二点目の丁寧語の文成立形式化というのは、本書では動詞述語には現れないためあまり触れられていなかったデスについてです。

まず、丹羽はデショーを文成立形式のダローと関連付けて述べています。現代語のダローには体言に接続するものと動詞述語に接続するものの二種類があることを指摘しており、それがデショーにも対応していると言うのです。即ち、デショーは「丁寧+推量」といった二つの意味の形式ではなく、推量を表す単独の形式であると述べているのです。これは実に興味深い指摘だと思います。なぜなら、ダローとデショーを推量という観点から括り、その後非丁寧か丁寧かという篩にかけているからです。丁寧かどうかという形式に捉われていた私からすると、まず意味で分けてみるというのは新たな切り口であるように感じました。

そして、最後にデスの文成立形式化についてです。デス・マスは述語を構成する要素ですが、丁寧な表現というのは伝達内容から独立した要素です。すると、分節的形式でありながら超分節的意味を表すという矛盾が起きてしまいます。デスについては後期の発表でも紹介した井上(1998)の表でゴザイマス→デス、マス→デスへの拡張が指摘されていましたが、丹羽はこれを先述のような言語体系の矛盾を減らすための変化によるものだと考えています。実際に、古い形式である「高うございました」と新しい形式である「高いです」を例に挙げて説明致します。なお、今回は触れませんでしたが、本書では動詞述語の構造を[[[命題]判断]態度][働きかけ]と表しており、以下はそれに則った表記を致します。

高うございました   [[[ござる]丁寧+確認]φ ]
高かったです   [[[高い ]     確認]丁寧]

以上のように、丁寧が[判断]の位置から[態度]の方へと移動しています。これは先に述べた矛盾を解決するために文末に丁寧を配置したのではないかというのが丹羽の主張です。その結果、形容詞述語を丁寧にする文成立形式としてデスが生まれたのであり、ゴザイマスとの単純な交替ではないと言うのです。また、丹羽はこの観点から動詞述語に移行する際は「行く+です」よりも「行った+です」が最初に現れるということも述べていました。

勿論、これは形容詞述語の話ですし、動詞述語にはマスという形式があるので容易には変わらないと思います。しかし、以前は誤用であるとされていた形容詞+デスが容認されつつある今、全くないとは言い切れないと私は感じています。それらを考えると、この観点は欠かせないものです。今後はこれらも踏まえたうえで、文法的な観点と通時的な観点の両方から研究をしていきたいと思う次第です。

参考文献

井上史雄(1998)『日本語ウォッチング』岩波書店

接尾辞「-ぽい」の新規用法

 こんにちは。最近、会社説明会などでりんかい線に乗る機会が多いのですが、ある駅を通過するたびに、「一体どこの漫画の主人公だろう?」と思ってしまいます。そうです、天王洲アイル。ゴールデンボンバーの5人目にもなれそうな響きですね。共感してくれる人、いると思います。

 申し遅れましたが、昼ゼミ3年の竹内郁美です。
 
 さて、頭を切り替えて本題に入りたいと思います。以下、読んだ論文について簡単に報告します。

梅津聖子「現代日本語にみる接尾辞『ぽい』の広がり」『拓殖大学日本語紀要』 (19), 55-64, 2009.03, 拓殖大学国際部

 「~っぽい」は従来、接尾辞として語幹に接続、独立の語を形成して形容詞のような働きをしていました。しかし、梅津はブログから用例を集め、言い切り形に接続して助動詞のようにふるまう用法が多く見られるようになってきたことに着目しています。

1. 推量として使用されている例

1-1.動詞の言い切り形+ぽい
 (1)なんか、ツキ指したっぽいです。
 (2)スタッフに間違われたっぽい

 (1)は、ツキ指したように指が痛いが、病院へ行っていないため、はっきり診断がされておらず、話し手自身が感覚的に「ツキ指である」と感じているようす。(2)は、イベントにおいて、客としてイベントに参加した話し手が、会場にいた他の人に、イベントスタッフであるかのような扱いをされたことを受けての発言です。

1-2.形容詞の言い切り形+ぽい
 (3)こーいう系の服がSLには少ないっぽいし
 (4)お土産もすげーっぽいです!

 (3)は、「SLという店にはこーいう系の服が少ない」と、(4)は、「どんなものかはわからないが、お土産に普通ではないものを貰える」ということを話し手が感じての発言です。

2. 婉曲の意味を表している例
 
 (5)いつも一番高いっぽいの買ってしまう癖があります
 話し手が買ってしまうものが一番高いかどうかははっきりと言えないため、婉曲表現として「ぽい」をつけている例です。

 このように、事物に対しての話し手の捉え方を表す際に使われる助動詞的な用法がブログ上で多く見られるようになっている背景について、梅津は「もともと『ぽい』が持つ、『外部の状況を、話し手が脳中のある基準と重ねてみて、ずれを感じる気持ち』が根底にあることから、不確かなことを“推量”したり、また不確かさを“婉曲”的に伝える際にも用いられるようである。」と述べています。

おわりに
 ポライトネス・ストラテジーとして使用されている「ぽい」について調べていきたいと思っていたので、今後の研究に役立ちそうな論文でした。また、ブログに限定して使用状況を調査しているところが面白いです。ブログ上での新規用法としての「ぽい」の使用は、使用している人物の年齢や立場にも深く関連していると思うので、これから研究を進めていく過程で、そうしたデータも調査してみたいです。

形容詞の副詞的用法について

 こんにちは昼ゼミ3年の丸茂沙耶香です。1月も後半になりましたね。時間があっという間に過ぎていく気がします。体調・スケジュール管理に気をつけて充実した毎日を過ごしていきたいです!
 では、本題に入ります。最近、「すごい美味しい」のように「すごい+形容詞」表現が頻繁に使用されていることに気付き興味を持ったため、調べてみました。以下の論文を要約します。
増井典夫(1996)「否定と呼応する副詞と程度副詞についての覚書」『愛知淑徳大学現代社会学部論集』増刊号 
*********************
●副詞は情態・程度・陳述の3種類に分類することができる。その中で、程度修飾に用いられる形容詞の副詞的用法について述べている。
 「美しく咲く」の美しくのようなものは、一般に「形容詞連用形の副詞的用法」と説明されている。程度修飾に用いられる「すごく」や「えらく」の場合においても、
(1) すごくキレイだ
(2) えらく大きい
一般的に形容詞連用形の副詞的用法と説明されている。
(3) すごいキレイ
(4) えらい大きい
しかしこの場合副詞と説明されることがあるが、互いに別品詞ということに疑問を持つ。
程度副詞の「状態性の意味を持つ語にかかって、その程度を限定する副詞」という点に着目しすべて程度副詞であると説明することもできる。しかし、同じ程度修飾に用いられる「おそろしく」が当てはまらないため、一概に程度副詞とは言い切れないと述べられている。
 ●辞典での扱いについて
 「すごく」の品詞の扱いは何か18種類の辞典で調べている。その結果
① 形容詞(15冊)
② 形容詞・副詞(1冊)
③ 副詞(2冊)
 辞書による定義が統一されていないことが分かり、矛盾が生じている。副詞としてみるのではなく、形容詞の連用形と位置づけるべきと述べている。
●流行語的に用いられる「えらい」「すごい」
 若者言葉において程度がはなはだしいことを強調する副詞的に用いられているが、少しでもより多く自分の気持ちを伝えようとするため、過剰に用いがちになっている。
● おわりに
「すごい」は形容詞の副詞的用法であると述べられているが辞書による違いがあることが分かった。若者言葉においてすごいの代わりにチョーが使用されるようになったとあったが現在では「チョー」よりも「すごい」の方が多用されているのではないかと感じた。「すごい」が程度副詞なのか、意味拡張なのか分かれていたので変遷についても今後考察していきたい。

成人と幼児の言い間違いにおける比較

こんにちは。昼ゼミ2年の菅野です。こたつで寝てしまう日々が続いたため、風邪を引いてしまいました。

まだまだ冬もこれからなので体調管理もしっかりしていきたいです。

さて、今日は以下の論文を読んだので簡単に報告したいと思います。

寺尾康(2006)「言語産出メカニズムの連続性についてー言い間違いからみた言語発達―」静岡県立大学 ことばと文化 9, 115-131,

この論文では日常生活での成人と幼児の特に音韻単位での言い間違いを分析し、この両者の類似点と相違点を明らかにした上で、言い間違いという着眼点から、言葉が実際に口から出るまでの過程、つまり言語産出のモデル構築研究の意味合いについて述べている論文である。

はじめに言い間違いのいくつかのタイプを寺尾は紹介している。

 代用 ジャン カップ (ジャパンカップ) 音韻単位の間違いであり後の音韻の予測

    時間で言うと、深夜に時間するのは(電話)語彙単位の間違いで前の語彙の保続

付加 草野均さん司会の司会で(草野均さんの司会で)語彙単位の間違い

欠落 青木となかじ の組(なかじま)音韻単位の間違い

交換 ながせばはない (話せば長い)形態素単位の間違い

混成 しょったい (招待+接待) 語彙単位の間違い

                      (下線部は誤り、( )内は話者の意図)

 この「予測」の間違いというのは、誤りの元となったと考えられる要素が誤りよりも先の未発話の部分にあるものであり、「保続」は源が誤りよりも前の既発話の部分にあるものである。この成人の代表的な間違いのタイプの特徴の多くは幼児の間違いにもみられるという先行研究をもとに、寺尾は幼児の間違いのタイプを挙げている。

 代用 マラ― (マフラー)

付加 キカンシャ (機関車)

削除 トウモ コシ (トウモロコシ)

交換 オカハ (お墓)

混成 ネンコ (ネコ+ニャンコ)

これらの幼児の言い間違いのタイプと成人の言い間違いのタイプを比較しても幼児に独特のタイプというのは観察さらないことがわかる。そして、成人の誤りに観察される諸特徴、例を挙げると(1)誤りが起こっても発音不可能な音連続は生まれない、(2)子音は子音と、母音は母音と、のように同じ資格を持つ要素同士が誤りに関連する(3)誤りが起こっても音節の構造は維持される、などは幼児の言い間違いにもあてはまると寺尾は解釈する。また、タイプ別の間違いの頻度も成人と幼児の両方で代用型が他を圧倒して多く観察されている。以上が成人と幼児の言い間違いの類似点であるとし、寺尾は次に相違点について言及している。幼児特有の言い間違いには次のような幼児音と呼ばれる逸脱が多く観察されているのだ。

  1. タッチュービン (宅急便)
  2. モ (こども)
  3. ンカンセン (新幹線)

上のような誤りは先行研究では、幼児の調音器官や調音方法の未発達が原因であるという説と、調音の難易度よりも音韻表象の形成が関与している説もあるが、寺尾はこれらの説のどちらかが正しいにしてもbのような誤りは、発話者である幼児の意図からの逸脱、つまり/do/と言おうとして思わず/ro/と言ってしまった誤りとは考えにくいと述べる。

なぜなら同じ誤りが一定期間繰り返されること、訂正の要求に応じないこと、特定の誤りが多くの幼児に共通していることからも確認されているからだ。さらに、幼児特有の言い間違いとして以下のような例も挙げている。

  1. ベッィ (スパゲッテイ)
  2. ネリチェチゴン (ねり消しゴム)

こうした誤りは音韻表象が確定していないことと、誤った思い込みの複合要因であるのかもしれないと寺尾は考える。そこで寺尾が相違点として注目すべきであると考えるのは、文脈的代用言い間違いの頻度の少なさである。成人の音韻的代用の誤りの約三分の二(1238例中795例)は文脈的音韻代用と呼ばれる言い間違いであるため次の例を示す。

にっんでもスペースシャトルを (にっぽん)

この例では「にっぽん」の「ぽ」が5モーラ先(「えんぴつ」なら4モーラで「にっぽん」なら3モーラというように発音する文字を1モーラという)の「ペ」に代わられてしまった予測型であり、このような言い間違いが幼児では2843例中52例中である。この点は音韻処理過程においての処理の方向性やスパンを反映していると考えられる点で重要であり、このような音韻的代用による言い間違いは誤りが生じた部分とその源と考えられる部分の位置関係を調べることで言語産出のある部分の処理が一度に射程に入れることができたスパンを知ることができるのだと述べる。

この論文で特に興味深いのは音位転倒による言い間違いの考察である。音位転倒による言い間違いを調べている項目に面白い例が挙げられているので紹介したいと思う。

  1. ツマカシ (つまさき) tu  ma  ski
  2. アミレカ (アメリカ) a   me  ri   ka
  3. ドウブツエン (動物園)do  o  bu  tu  e  N
  4. ミモジ   (もみじ) mmi  zi
  5. バシフ (しばふ) ba  si  fu

ここでa. b. の例はそれぞれ子音、母音が交換された文節音単位の誤りでありc. d.はそれぞれの交換された部分の母音部分、子音部分が共通している誤りである。e. の例はモーラ自体を交換していることがはっきりわかる。これらの例をとおして寺尾は音位転倒の起こりやすい距離を調べている。その結果幼児の音位転倒は5モーラ以上の長い語の語中部分が多いことを指摘している。そして幼児の言い間違いに音位転倒が多い理由はこの5モーラ以上に間違いが集中することに関連して、幼児の音韻要素を処理できる容量の大きさが成人と比べて小さく、幼児の処理能力の射程は2モーラ以下だと寺尾は考える。

このような寺尾の考察は音韻代用や音位転倒における興味深い考察だと感じた。音位転倒や音韻代用が何故起こるのか、そのメカニズムや、寺尾の論文に述べられている法則以外にもあるのではないかと考えられる。

引用文献

乾・寺尾・天野・梶川(2003)「発話の縦断的データによる幼児の音韻的誤りの分析」日本発達心理学会第14回大会(神戸市)発表論文

「~てほしい」と格助詞

こんにちは、昼ゼミ2年のフェリックスです。もうそろそろ暖かくなるだろうと思ったら、急に雪が降り、焦り半分興奮半分の気持ちでした。まだまだ冷え込む日が続きそうですね。試験中の人や就活中の人もいるかもしれないが、体調を崩さないように頑張りましょう。今日は以下の論文について簡単に報告したいと思います。

山西正子(2011)「「~てほしい」と格助詞」『目白大学人文学研究』第7号, 165-174

この論文では、現代日本語の「~てほしい」形式において、実際の動作主体を明示するものとして、格助詞「に」のほか、格助詞「が」も一定の制約のもとで使用されていることを指摘する。山西は「手作業」とデータベース『聞蔵』により、「朝日新聞」にある用例(170例)と20世紀の文学作品にある用例(265例)を集めて、「~てほしい」形式とともに使われる助詞にどのようなものがあるかを調べて、そして「が」が使われる背景についてまとめています。

まず、どのような助詞が「~てほしい」とともに使われるのか見てみましょう。山西の「朝日新聞」調査は以下の通りです。
「に」60例、「には」22例、「にも」13例、「にこそ」1例
「で」1例、「では」1例
「が」26例
「は」28例
「も」17例
「こそ」1例

「朝日新聞」調査の結果を見れば、「に」は優勢であるということが分かります。この「に」は「先生に教えていただく」の「に」と同じような働きを持っています。
  例:①これからもより多くの高校生に世界に挑戦してほしい。
そして、組織が動作主体となる場合は「で」を使うことができます。
  例:②(沖縄基地問題について)管政権ではとらえ直してほしい。
「は」と「も」は取り立てし助詞として「~てほしい」とともに使われています。
  例:③ぐずる子にてこずっている母親がいたら、近くの人は手を差し伸べてほしい。
    ④流行の長くゆったりしたマキシ丈スカートを履く女性も注意してほしい。
「が」の用例は次のようにあります。
  例:⑤松山校長は「これを機に、子ども自身が安全に対する意識を向上してほしい」と話している。
    ⑥「社民党が議席を増やして民主党を牽制してほしい」。そんな期待をわき起こしたい。
この現代語調査(朝日新聞調査)には例⑥のように、「その社民党に」が省略されていると考えられる側面もある。

20世紀文学作品の調査は以下のようになります。(265例中、動作主体が明示される例は43例のみ)
「に」19例、「には」5例、「には」1例
「で」1例
「から」4例
「が」4例
「は」6例
「も」3例

20世紀文学作品では「に」、「で」、「は」、「も」は現代語と同じように使われている。「に」の優勢も変わらないです。一方、「が」は用例が現代に比べて少ないということが分かりました。

山西は「~てほしい」形式と格助詞「が」の共起は近年浸透し始めていると推測しています。また、格助詞「が」とともに使われる用例に以下のような傾向があると述べています。
i)実際の動作主体は抽象的概念であったり、非個人であったりする例が多いのではないか。
 例:⑦「〈略〉文学者の中に自然への新たな意識が生まれてほしい」と話す。
ii)また、発話者の期待する状況は、特定あるいは一定範囲の人物の具体的な動作により実現するものではなく、抽象度が高いものである。
 例:⑧(慰霊祭開催を)受け継いでくれる人が出てほしい。
iii)そのような具体性を欠く状況では、しばしば説明要素が多くなるので、「に」の重複を避けるために、動作主体が「が」で示されることになる。ただし、「に」の重複を避けることが最優先され、「が」が使用されるとはいえない。(例⑤参照)
 
以上とは関係ないが、最近、格助詞「が」と「~ていただく」形式の共起もあるということも指摘する。
 例:⑨先生が教えていただく

「日本における「言語コード論」の実証的検証:小学校入学時に言語的格差は存在するか」

こんにちは。夜ゼミ3年の小野寺です。提出大変遅くなり、申し訳ありません。今日は以下の論文を報告したいと思います。

前馬優策(2011)「日本における「言語コード論」の実証的検証:小学校入学時に言語的格差は存在するか」『教育社会学研究 88』pp.229-250

 この論文では、バースティンの唱えた「言語コード論」の視点から、小学校入学時における子どもの言語運用の差異、また、その差異を生み出す要因について考察しています。

 まず、「言語コード論」について説明します。言語コード論は、「なぜ労働者階級の子どもの教育達成度が低いのか」という問題を「言語」という観点から説明しているものです。「限定コード(restricted code)」と「精密コード(elaborated code)」の二つから成っており、それぞれのコードからは異なったタイプの言葉が産出されるとされています。また、限定コードによって発せられる言語は文脈(状況)への依存度が強く、精密コードは弱いとされています。そして、労働者階級の子どもは限定コードによる言語運用を多く行い、中産階級の子どもは精密コードによる言語運用を多く行っていると指摘されています。

 筆者は、異なる言語コードを用いる二つのグループの違いを規定する要因は何か、を分析するため、以下のような調査を行いました。

【調査対象】
 大阪府北部に位置する同一中学校区内の三つの小学校に通う小学校1年生の児童93名。それぞれ、校区に同和地区がある学校から27名(一学年全員)、ほとんどの子どもが公営団地に居住している学校から36名(一学年全員)、新興住宅地の中に立つ学校から30名(5クラス中の1クラス)。

【調査方法】
 はじめに、調査者と子どもが向き合い、調査者が5枚の絵を机の上に順番に並べて掲示する。絵の順番を確認した後、「この絵を見てできるだけたくさんお話してください」と、その後5枚の絵について物語を作るよう促す。「もう準備はいいですか?」という質問の後、子どもが同意してから子どもの発話の録音を開始する。そして、それを文字に起こしたものをデータとして使用する。規制されて表出した言語運用をとらえることで、「限定コード」または「精密コード」を主に用いていると想定される2つのグループへと分類をする。
 なお、日本語は諸外国の言語に比べ、状況依存性の高い言語といわれており、具体的には「主語や格助詞の省略」という形をとって現れやすいと考え、小学1年生の日本語運用において、「主語と格助詞の省略」に注目することが「限定コード/精密コード」の使用をとらえるうえで有効であると判断し、それらの使用実態を中心に検証する。

[事例1]ボールで遊んでる。ボールを投げてる。ボールを、取ろうとしてる。おぼれてる。助けてくれた。
[事例2]ぞうがボールで遊ぼうとしたら、ボールを落として、ぞうがとろうとしたら、ぞうが落ちちゃって、もう一人のぞうが助けてくれた。

 このように子どもたちが作った「物語」を、以下の指標を作り、それに沿って分類しています。
①最初の場面での主語(ぞう)の使用
②最後の場面での主語(ぞう)の使用
③五つの場面で使用された主語の個数
④格助詞の省略回数

上の例にあてはめると、以下のようになります。

[事例1]①主語なし ②主語なし ③主語0 ④格助詞省略0
[事例2]①主語あり ②主語あり ③主語4 ④格助詞省略0

 そして、上記のようにコーディングした四つの指標を基に、91人の子どもを二つのグループへと分類するために階層クラスター分析を行い、主語や格助詞の省略がみられる傾向にあるグループを「限定コードグループ」、もう一方の主語や格助詞の省略が少ないグループを「精密コードグループ」と名付けています。それぞれのグループの人数は、「限定コードグループ」が27人、「精密コードグループ」が64人となりました。
 この結果を受け、調査対象のうち、70.3%が精密コードを有していると想定でき、逆に約30%が精密コードを使用していないことが読み取れる、としています。また、「限定コードグループ」と「精密コードグループ」では、主語の使い方が異なり、言語コードのグループ間の差異を生む要因のひとつである、と筆者は述べています。

 この論文は、他の分析も行っているのですが、今回は私の研究テーマが「日本語の省略」であるため、省略に関連している箇所のみを抽出し、レポートしました。言語の省略について、個人の育った環境と結びつけるという観点がおもしろいと思い、この論文を選びました。しかし、筆者も述べているようにこれはあくまで傾向の話であり、現代における「階級」という概念のあいまいさからも、明確な答えを出すのは難しいのではないかと思います。ただ、小学1年生の段階で、言語使用にすでにこのような差が出ている、という点に関しては非常に興味深い結果であると感じました。今後研究していく中でのなにかヒントになれば、と思います。

参考文献
Bernstein, Basil, 1971 Class, Codes and Control Volumel Theoretical Studies towards a Sociology of Language, Routledge & Kegan Paul.

臼木智子(2008)「雑誌の片仮名表記–基準から外れる表記について」

こんにちは、こんばんは、おはようございます。夜ゼミ3年の田上です。みなさん健康にはお気をつけください。

今回は以下の論文について要約しました。

臼木智子(2008)「雑誌の片仮名表記基準から外れる表記について」 国学院大学大学院紀要, 文学研究科 40, 265-280,

この論文で筆者は、現代日本語では片仮名表記が様々な形で文章に用いられており、外来語だけでなく、漢語や和語などの片仮名表記も多く見られることに注目しています。そこで臼木は外来語以外の片仮名表記の実態を明らかにするために雑誌を対象に調査を行い、用例数の変遷と外来語以外の片仮名表記の使われ方について考察を行っています。

片仮名表記の基準

臼木はまず片仮名表記の基準として、文化庁が示す「国語表記基準」や出版社や新聞社が独自にしてしている表記の基準を参考にしている。その基準をまとめると、外来語と外国の地名、人名は片仮名で表記するのが文化庁、新聞社のどちらの基準でも一致している。しかし擬態・擬声語などについては平仮名表記とする基準、片仮名表記とする基準が存在している。臼木は、外来語と外国の地名、人名を除いたものを「外来語以外」と呼び、外来語以外の片仮名表記についての考察を行った。またこの論文では、片仮名表記を正式名称とする人名、店名、映画や漫画の題名は外来語以外に含めていない。

調査

臼木は前述した「外来語以外」の片仮名表記の用例を集めるために、『キネマ旬報』『サンデー毎日』『週刊朝日』『婦人公論』『文芸春秋』の雑誌5誌と『CanCan』『SEVENTEEN』『non-no』『荘苑』の女性向けファッション誌4誌を対象に年代ごとにおける片仮名表記の用例調査を行った。この調査で雑誌5誌で4500文、ファッション誌4誌で2400文の用例を集めている。

※雑誌5誌は1926年から10年ごとに1冊ずつ、ファッション誌4誌は1981年から5年ごとに1冊ずつ資料としている。

結果と考察

まず雑誌5誌の用例調査の結果は19501960年代と全用例ののべ数は増加し、一旦は減少したものの再び増加をつづけている。しかし外来語以外の用例数は1980年代を境に減少している。この結果を受け臼木は、1980年代以降に限れば外来語以外の片仮名表記は多用、多様化しているとはいえない。むしろ用例は減少傾向にあるということが出来る。また外来語を含めた片仮名表記全体についてものべ数の増加に異なり語数が比例しなくなってきていることから、記事の中で同じ片仮名表記が繰り返し用いられていると考えられ、片仮名表記の多様化は近年収束しつつあると推測している。

次にファッション誌の調査の結果だが、全用例数、異なり語数の増減の傾向は雑誌5誌の結果と近似している結果になった。またファッション誌でも全用例ののべ数の増減に関わらず異なり語数が横ばい状態であることから雑誌5誌同様に同じ片仮名表記が繰り返し用いられる傾向にあると臼木は述べている。

片仮名表記の使われ方については、文末詞の「ね」「な」「よ」や長音、促音、撥音を片仮名表記する用例があるが、どの用例も1996年ごろから減少傾向にあり、文末詞の片仮名表記は現在では使用されない傾向にあると述べている。また表記の基準により表記法が分かれていた擬態・擬声語の片仮名表記は資料とした範囲の中では擬態語は平仮名、擬声語は片仮名で表記するなどといった厳密な書き分けは見られず、擬態語擬声語どちらにも片仮名表記を確認している。年代による用例数の変化を見ても調査した年代全ての年代で用例を確認でき、長期間に渡って片仮名での表記が続けられていることがわかった。それに加え、前述の文末詞や長音、促音等と違い減少傾向もなく、片仮名表記が多く用いられていることもわかった.

まとめ

臼木は長期間に渡って発行されている雑誌を中心に片仮名表記について用例数の変遷を見るとともに、外来語以外の片仮名表記を主とした考察を行いました。限られた範囲での調査なので、より多くの資料を用いた調査が不可欠ではあるが、今回調査対象とした範囲では1986年以降、外来語以外の片仮名表記が減少し続けているということが明らかになり、外来語を含めた片仮名表記全体についても同じ表記が繰り返されることが増え、片仮名表記の多様化は収束しつつあると臼木は結論づけています。