字義的意味と推論 : 関連性理論をめぐって

 みなさんこんにちは、昼ゼミ2年の佐藤です。期限間近での提出になってしまいご迷惑をお掛けします。
 今年は成人式があったこともあり長く帰省していたのですが、どうやら高校での訛り(津軽弁)と地元の訛り(下北弁)のうち、後者がすっかり抜けてしまっているようで、さみしい気持ちになりました…青森県の訛りは大きく分けて3つあり、それぞれ全然違うので、青森弁って言わないでくださいね!
 さて、今回は以下の論文を紹介します。

國分俊宏「字義的意味と推論 : 関連性理論をめぐって」『文化情報学 : 駿河台大学文化情報学部紀要』14(1), 1-18, 2007-06  駿河台大学

 この論文では、関連性理論の軸となっている「字義的意味」と「推論」、またその解釈メカニズムである「コード解釈」と「推論モデル」という二層構造の捉え方が抱える限界を示し、意味と意図とは独立しておらず、ひとつの融合体として考えるべきであると論じています。

 まず、スペルベルとウィルソンの関連性理論について簡単にまとめます。

(1)A「コーヒーをお飲みになりますか。」

  B「コーヒーを飲むと眠れなくなるんです。」

 (1)Aの発話の意味として、コーヒーを飲むと眠れなくなるという「字義通りの意味」と、コーヒーはいらないという「発話の意図」のふたつが考えられます。しかしこの発言が前者ではなく後者の意味であるとすぐさま理解できるのは、質問の答えである以上Bの発話はAの発話に関連していると、無意識のうちに理解しているからです。
 このときAは

(2)<コーヒーを飲むと眠れなくなる>→<もうすぐ寝る時間であり、眠れなくなるのは困る>→<コーヒーは飲みたくない>

という「推論」を行っていることになります。よって、発話解釈において「推論」はもっとも重要なものであると、関連性理論では主張されています。
 また、「コーヒーを飲むと眠れなくなる」という文が「コーヒーの申し出を断る」という意味を内包しているわけではなく、言語体系上はあくまで「コーヒーを飲むと眠れなくなる」という意味以上にはなりえません。よって、メッセージのコード化とその解読という段階においてはあくまで「字義通りの意味」の復元だけを行い、そこから先の意味は「推論」によって導き出されていて、この二つの異なる伝達の仕組みによって言語伝達が行われるのだとスペルベルとウィルソンは述べています。

 國分はこの「字義通りの意味」の不確定性について指摘しています。
 字義的意味を決定することが不可能な文章(國分は「すごい人だね」という例文を挙げ、ある一人の人物がすごいのか、大勢の人出を指しているのか、またそのほかなのか不明であるとしています)が存在する以上、ひとつの意味に確定できない「字義通りの意味」という考え方はうまく作用せず、言葉の意味は徹底して文脈依存的であると述べています。
 スペルベルとウィルソンも、「コード解読」には必ず「推論」が必要であると述べていましたが、あくまでそれはコミュニケーション上での場合であり、二人は言語体系には中立的なコードが存在し、中立的な言葉の意味は必ず定まるという立場をとっています。
 しかし、國分はあくまで「文脈依存的でないニュートラルな言語体系、言語的意味」を一歳認めないとしており、この点においてスペルベル・ウィルソンと大きく異なっています。
 表面的には両義的解釈が起こりえないような文章においても、その理解は慣習という文脈に基づいているということが、その言語のネイティブならしないような解釈で翻訳がなされる場合があるという例とあわせて述べられています。

 また、「推論」についてもその解釈に疑問を投げかけています。
 國分は「推論」とは言語形式そのものに潜む論理性の別名で、しかもそれを言語化することはできないとしています。(2)のような推論の構築は可能ですが、実際の言語使用上においてはあくまで「推論」とは言葉にはならない「直観」的なもの、もしくは言葉そのものである「論理的形式」自体であるということです。
 つまり、「推論」とは頭の中で考えるものではなく、ほとんどコンテクストそのものの中に畳みこまれているようなもので、言葉の形式と別に「推論」が存在しているわけではなのだと論じています。
 
 全体を通して國分は「字義的意味」と「推論」という従来の関係性理論を支えてきた二層構造に対する批判的考察を行っています。言葉の意味はそのつど、その文脈において決定されており、しかもその理解には非言語的局面が潜んでいるという考え方が興味深いです。
 今回この論文を読み、関連性理論自体についても見識を深める必要性に気付かされました。言葉に二重の意味があるという視点とメタファーとの関連性について引き続き考察していこうと思います。

引用文献
D.Sperber & D.Wilson  1995, Relevance:Communication and Cognition. Second Edition. Blackwell.(内田聖  二ほか訳 1999『関連性理論‐ 伝達と認知‐』研究社)

メタファーとメトニミーの区別について―認知言語学的視点から―

お疲れ様です。夜ゼミ2年の鈴木貴美です。先程湯島天神から帰って参りました。いよいよ2月、受験シーズンですね。毎年この時期になる度に、受験生の頃の自分を思い出します。また私事ではありますが、教え子のなかにもインフルエンザに罹る生徒が増えてきているように思います。皆様もご自愛くださいませ。

ところで、私は前回までの発表で共感覚形容詞について調べていました。そのとき、谷口(2003)で述べられていたメタファーかメトニミーかの区別が難しいものや、そこから示唆される両者の連続性というものに興味を持ちました。今回は、その区別について認知言語学の基礎的な知識を見直すことも兼ねてこの論文を選びました。以下、簡単にではありますが、この論文について紹介いたします。

松井真人(2009)「メタファーとメトニミーの区別について―認知言語学的視点から―」『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』,第36号,pp.1-8

この論文は、メタファーとメトニミーは「理解」か「指示」かという機能の上でしか分類出来ないということを述べています。このことを説明するために、松井は伝統的な類似性や近接性という分類や、関わる百科事典的知識構造に纏わる用語を理想認知モデル(以下ICM)と纏め、その数による分類の不十分さを具体例を挙げながら指摘しています。以下、その順に即して要約をしていきます。

まず、理解することがメタファーの最も重要な機能として挙げられていることをLakoff and Johnson(1980)の説から示し、更にある概念(起点領域)と他の概念(目標領域)を対応付けるものであると纏めています。そして、この対応付けは「経験的類似性」と「経験的共起性」という二つの経験的基盤から動機付けられていると述べ、前者はLIFE IS A GAMBLINGGAME、後者はMORE IS UPという具体例を挙げています。また、Grady(1997)が提案したSTRONG DESIRE IS HUNGERなどの直接的な経験基盤を持つプライマリー・メタファーについても紹介していました。松井はプライマリー・メタファーも、共起性に基づくものであり、発達初期段階の子どもたちが言語を習得するときに生ずるということを述べています。(確かにプライマリー・メタファーの中にMORE IS UPは含まれていますし、直接的な経験基盤という概念も曖昧だと思いますが、ここに対しての指摘が薄いのが気になりました。)

次に、Langacker(2000)の参照点能力に基づくメトニミーの説明を認知的な際立ちが高いもの(参照点)から低いもの(ターゲット)へとアクセスするという認知作用であると紹介しています。例文としては”That car doesn’t know where he’s going.”を挙げ、that carを参照点、運転手をターゲットとしたうえで、目に見えるものの方が際立ちが高いと述べています。更に、Radden and Kövecses(1999)らが先述のICM内の心的アクセスとしてメトニミーを捉えており、古くから言われてきた近接性はICM内での概念同士の近接性であると紹介しています。また、松井はメトニミーにもメタファーと同じような概念メトニミーと、そこから生ずるメトニミー表現とを区別する必要性を提唱しています。それらを踏まえたうえで 松井は、心的アクセスには(ⅰ)ICM全体からそのICMへの部分へ、(ⅱ)ICMからそのICM全体へ、(ⅲ)ICM全体からそのICMの別の部分へ、という三つのパターンがあるとしています。それぞれ具体例としては(ⅰ)WHOLE THING FOR A PART OF THE THING(America for ‘United States’)、(ⅱ)PART OF A THING FOR THE WHOLE THING(England for ‘Great Britain’)、(ⅲ)AGENT FOR ACTION(to author a new book)が挙げられていました。

以上のように、メタファーは二つのICM間の対応付け、メトニミーは一つのICM内にある概念の心的アクセスと捉えられていることを確認したうえで、松井はMORE IS UPのような「経験的共起性」という基盤を持つメタファーが問題になると述べています。MORE IS UPは容器に水を入れればその量が増えるといった経験によって生ずるプライマリー・メタファーであるものの、「蓄積」という経験に関するICMを構成する要素として、「量の増加」と「嵩の上昇」が存在するという解釈も可能であると指摘しています。すなわち、この表現におけるICMはメトニミーと同様に「蓄積」一つであると分析しているということです。他にもKövecses(2002)やTaylor(2003)も同様のことを述べているということや、上下のスキーマが抽象的に用いられる時にのみメタファーになるということ、Radden(2003)がプライマリー・メタファーを”metonymy-based metaphors”と呼んでいることを紹介しています。

これらを踏まえ松井はICMの数ではメタファーとメトニミーの区別をすることができないとし、また伝統的な類似性や近接性に基づく分類も、共起性に基づくプライマリー・メタファーの解釈のゆれがあるため、十分な基準にはなりえないと分析しています。そこで挙げられたのが機能という基準です。松井は、メタファーはある概念を他の概念と対応付けることによって他の概念を理解すること、メトニミーはある概念から他の概念へ心的なアクセスを行うことで他の概念を指示すること、という独自の機能が存在していると述べ、そこに注目することが有効な基準であると主張していました。(これについては、どのようにそれを判断するのかが示されていなかったので、これから考えてみる必要があるように感じました。また、日本語についてはあまり触れられていなかったので、それについても引き続き考えたいと思います。)

参考文献

鍋島弘治朗(2011)『日本語のメタファー』くろしお出版

谷口一美(2003) 『認知意味論の新展開 メタファーとメトニミー』研究社

情報のなわばりと丁寧さ

昼ゼミ3年の菊島ですこんにちは!
風邪を引いて元気がないです!みなさん風邪やインフルや急性胃腸炎には気をつけてくださいね!
さて私は以下の論文をレポートします。



服部幹雄「情報のなわばりと丁寧さ」(1994)『名古屋女子大学紀要. 人文・社会編』40,pp253-264



服部は、神尾(1990)によって提唱されている情報のなわばり理論の立場から、丁寧さを考察している。情報のなわばり理論とは、言語によって表される情報内容の、話し手、聞き手とのかかわりに関する研究である。神尾は、ある情報が話し手のまたは聞き手のなわばりに属するか属さないかによって、直接形か間接形かの選択が決まってくるという。


情報の属し方によって、以下の4つのカテゴリーが設定される。


A:情報が話し手のなわばりに属し、聞き手のなわばりに属さない
(1)I’m feeling hungry.


B:情報が話し手、聞き手双方のなわばりに属する
(2)It’s a lovely day.


C:情報が話し手のなわばりに属さず、聞き手のなわばりに属する
(3)You seem to be very interested.


D:情報が話し手、聞き手どちらのなわばりにも属さない
(4)X:I’m not sure what time it is.
Y:I guess it’s about 3:00


一般に、A、Cは直接形、B、Dは間接形で表される。
そしてこの原則に違反した場合、丁寧さを欠いた表現となる。


(5)You are feeling hungry.(A違反)


この情報は聞き手の知覚情報なので、話し手のなわばりには属さない。このとき生じる厚かましさとは、相手のなわばりに属する情報を自分のなわばりに属するかのように表現した、すなわち相手のなわばりを侵したことに由来するものだと考えられる。


(6)Professor Brown is sleepy.(D違反)


これはProfessor Brownと特に近い関係にある人は別として、話し手にも聞き手にも遠い場所に位置する情報と言える。これを直接形で表現すると、話し手がProfessor Brownのプライバシーを侵害しているかのような非礼さが感じられる。


以上は、話し手のなわばりに属さない情報を、あたかも自分のなわばりに属するものとして表現した、典型的に丁寧さを欠く表現である。
しかし、逆に、この原則を破ることによって丁寧さが生ずる場合があるという。


(7)I know how hard this is for you.
(8)I seem to know how hard this is for you.


夫を病で失った直後の妻に対して、担当だった医師が発する言葉として(8)は(7)に比べて明らかに丁寧さにおいて劣っている。C違反にも関わらず直接形の方がより丁寧に感じられるのは、聞き手の気持ちを知っていることを話し手が前提とし、またそれを主張することで、両者が協調関係にあり、同じ感情を共有する”仲間”であることが表現されているからである。(8)では間接形の使用によって話し手の前提や断言が弱められる分、よそよそしさ、無関心さが感じられる表現になっている。
この両例により、厚かましさ、権威、プライバシーの侵害などの印象を与える性格を持つ直接形が、その反面、相手に対する感心、思いやりも示し得ることを説明している。


(5)(6)の直接形が非礼にあたる理由の説明として服部は、Brown and Levinsonのポライトネス理論を用いている。この非礼とは”顔(face)”が威嚇されたからであり、人の持つ”消極的な顔(negative face)”すなわち自分のなわばり、領分に対して主張できる基本的権利、が尊重されなかったことに由来しているという。
一方、(7)(8)は弔慰という本質的に丁寧な発語内行為を遂行するものであり、”積極的な顔(positive face)”が関わってくるとしている。これは自分や自分の所有物、自分の考えなどを認めてほしい、賞賛してほしいという欲求を指す。(7)(8)では、話し手と聞き手の間に共通する基盤を断言することで、この”積極的な顔”を満足させている。


逆に、話し手が自分のなわばりに属する情報を自分のなわばりに属さない情報として表現することで、丁寧さを表現することができる。教師が生徒の誤りを訂正する場合があるという。


(9)That’s not correct.
(10)I don’t think that’s correct.


直接形で表現された情報は、それが自己のなわばりに属することを強調するのみならず、聞き手のなわばりには属さないことをも強調する結果になりやすい。間接形によってそのはたらきを緩和している例であるとしている。



おわりに


服部は情報のなわばり関係の原則違反が丁寧さとどのように関わるかを考察した結果、発話の持つ文形が消極的な顔と積極的な顔の両者とからみあって、丁寧さを増したり、減じたりするのに貢献することを明らかにした。
また、訂正に見られる間接形の使用から、文形の選択には発話の会話管理上の機能も大きく関与していることを示した。



以上です!
それでは晩御飯の買い物にでもいくとします。



参考文献


服部幹雄「情報のなわばりと丁寧さ」(1994)『名古屋女子大学紀要. 人文・社会編』40,pp253-264

日本語の「主題」をめぐる基礎論

こんにちは。夜ゼミ2グループ二年の宮澤です。テストもようやく終わり、早いものでもう年度が終わるのかと思うと、時の流れのはやさに焦ります。そして、締切も近いのかと、さらに焦りました。

今回、私は、以下の論文をレポートします。

堀川智也(2010)「日本語の『主題』をめぐる基礎論」『大阪大学世界言語研究センター論集』第4号、pp.103-117

後期の個人発表の際に、主題の定義について質問され、そこを解決しなければ今後の研究が進まないと思い、今回この論文を選ぶことにしました。日本語の主題・主語をめぐる議論は、ハとガの使い分けとからめながら行われてきました。この論文では、従来、暗黙のうちに、ハは主題または対比のいずれかを表わす助詞であり、ガは主語を表わす助詞ということを前提としているが、この前提が確かなのかを、主にハをめぐって分析したうえで、「主題」とは談話上の概念なのか分析している。

ハの用法が「題目」または「対比」に限られるなら、それは、二者択一的、相互排除的に両者の関係をとらえる見方にたつことになるとしている。だが、題目提示の機能を失わず、対比の機能も併せもつことは可能であり、両者は相互排他的ではなく、同じハの中に共存可能な意味効果であるという分析を提案している。

「雪は白い」や「地球は丸い」といった、情態形容詞(属性形容詞)の文に使われるハは、題目提示と考えられやすい。このハは、普通「対比」の色は全く出ない。しかし、デ格やカラ格項を題目化する場合は、「デハ」や「カラハ」のような形にしなければならず、また、強力な対比文脈がなければならない。このような格助詞を残した「格助詞+ハ」の形は題目提示の典型とはいえず、このような場合のハに対比の色が出やすいと筆者は分析している。

一方、対比だと考えられるハの典型、文脈と関係なく一文で対比の色を感じさせるハは、副詞句につくハである。このハは、対比を色濃く感じ、題目語とはいいにくい。また、名詞句にデ・ト・カラ・マデなどの格助詞にハがついた場合も、ほとんど対比の色が出る。

以上のことから、筆者は、ハの中で対比を色濃く感じる対比らしい対比という用法とは、題目提示用法のハからは最も遠い位置にあると分析している。

しかしながら、筆者は、そもそも、対比と題目提示の両者を同じレベルで判断するのは、妥当ではないと述べている。対比かどうかは、当該の文で語られる事態と他の文で語られる事態との関係で決まり、題目提示かどうかは、あくまで一文中においてハの前後において表現上の立場が異なる二者を結びつけているかどうかで決まるのであり、同じ次元で判断すべきではないという観点からである。

それぞれの次元で判断するのであり、二者択一的なものでないのだとすれば、対比でも題目提示でもないハは理論的に可能になるとしている。このハが存在することから、筆者は、「対比」や「題目提示」という機能は、ハという助詞の本質ではなく、結果としてその表現効果になっただけだとし、ハの本質は、一文を二項に分離する機能だと主張している。

最後に、「主題」についてだが、筆者は「文内主題」と「談話・テクスト的主題」どちらの存在も認めたうえで、談話上の概念とするのは本質ではなく、あくまでも一文中の特定の成分を指す用語であるという立場をとっている。その根拠となるのは、題目語は、既知項目の場合が多いが、それは「PはQ」という表現が前提項目になりやすいだけで、そうでない場合も確かに存在し、また、ハによって分離された一文の第一部分が「主題」になりうるのであり、一文内に「主題」が想定される必要があるからだとしている。

今回の論文で、ハとガの使い分け、意味について今一度再確認でき、また、主題とはなんなのか理解を深めることができたので、自分が本来研究したい助詞の省略について参考になった。

「役割語」研究と社会言語学の接点 

 

こんにちは昼ゼミ2年の丸茂です。気づけばもうすぐ2月ですね。テストも終わり春休みが始まりました。長い春休みを充実させたいものです。さて、私は以下の論文を紹介したいと思います

「役割語」研究と社会言語学の接点 金水敏(2007)

「役割語」という概念は、金水 (2003)で提唱されました。また、フィクションのみならず日常会話でも使用されています。役割語を属性や言語面から論述し、さらに役割語の持つ機能とコミュニケーションの関係を述べています。

a. そうよ、あたしが知ってるわ

b. そうじゃ、わしが知っておる

c. そうですわよ、わたくしが存じておりますわよ

d.そうだよ、ぼくが知ってるのさ

a~dは同じ内容を述べています。このように、ある特定の言葉遣いを聞くと特定の人物像(年齢、性別、社会的階層、性格、時代等)を思い浮かべることができるとき、その言葉遣いを「役割語」と呼びます。

役割語とは、人物像=人物の「属性」(カテゴリー)とスピーチスタイルが心理的に連合し成立しています。言語共同体の中で共有され、社会的に共有された心理的連合をこそ、役割語の本質と述べています。また、属性のヴァリエーションは膨大で、また、文脈・状況に依存した、臨時的属性を導入する可能性もあります。

次に、言語面からみていきます。役割語の特徴は、大きく3つ挙げられます。

(1)人称代名詞 (わたし、あたし、わし、おれ、おいら、ぼく、うち、われ、拙者 等)

(2)断定の助動詞 (だ、です、である、でございます、でありんす、じゃ、等)

(3)終助詞 (わ、よ、ね、のう、ぜ、ぞ、わい等)

この3つは人物像を形成する重要な要素であると述べられています。(1)の人称代名詞は特に一人称に現れる傾向にあります。

さらに、言語面でも細かく分類することができます。

◎語彙面

・(狭義)敬語(尊敬語、謙譲語、丁寧・丁重語)の使用・不使用、また敬語の段階。

・美化語、専門用語、業界用語、ジャーゴン、略語等の使用・不使用

・感動詞、笑い声、生理音等:あら、おい、こら、うむ、おお、ははは、等

◎文法・語法的側面

・助詞の省略・非省略:「水がほしい」 vs. 「水φほしい」

・ピジン的特殊語法:「時間無いアル、早く払うヨロシ」等

◎音声的側面。

・音便、母音融合、音素の脱落・挿入等:「知らねえ」「そりゃあそうだ」、「行くのだ」 vs. 「行くんだ」等

・アクセント、イントネーション

◎語用論、ディスコース的側面。

・命令形の使用・不使用:「やめろ」「やめてくれ」cf. 「やめて」「やめてちょうだい」

・講義的口調の有無

・感嘆文の使用の多寡

言語面において細かく分類することができ、語彙、語法・文法に関しては、言語差が大きいとわかります。

コミュニケーションにおける役割語の機能は、スピーチスタイルの選択によって、話し手の属性を聞き手を中心とする周囲の参加者に伝達する機能を持っています。標準語と方言の切り替え、普通体と丁寧対の切り替えといった現象のように、それによって話し手の属性が伝達されているとすれば、役割語はメタ・コミュニケーションの一部であると述べられています。男性の発話における「ぼく」と「おれ」の選択・切り替えなどを観察すると、日常会話におけるスタイルの選択や切り替えが、フィクションにおける役割語の選択と共通の知識を参照していると言えます。

日常会話における遊びの要素としての役割語の使用については、親しい間柄での会話では、臨時的にさまざまな役割語のスタイルが用いられることがあり、音声会話だけでなく、携帯メールのやりとりでも観察されます。会話における遊び的な役割語の適用は、会話の雰囲気を和ませ、一体感を得る機能があると述べています。

一人称や語尾で人物像が変わる役割語に興味を持ちました。心理的連合と社会的共有があるからキャラクター像が形成されることが分かりました。言葉とイメージが密接に関係していることから役割語を心理面から考察していきたいと感じました。

参考文献

金水敏(2007) 「役割語」研究と社会言語学の接点 

応答詞「そうですね」の機能について

こんにちは。夜ゼミ2年の三浦結です。最近寒い日が続いていますがみなさん元気でしょうか。よく、「東北出身だと寒さに強いんでしょ?」と言われますが寒いものは寒いです。みなさんも風邪をひかないようにして春休みを満喫してください。

さて、今日は以下の論文についてまとめます。

小出恵一(2011) 「応答詞『そうですね』の機能について」 『埼玉大学紀要(教育学部)』第47巻第1号、pp.85-97.

私は後期に相づち表現の「そうですね」について調べたのですが、最近になってこの論文が新しく発表されたことと、私が発表したのと同じ先行研究を扱っていたということでこの論文を読むことにしました。この論文では「そうです」と、筆者が分類した2種類の「そうですね」(以下、「そうですねA」「そうですねB」とする)の性質、関係性について述べています。以下、要約です。

1.はじめに

「そうです」・・・先行する会話が「XはYだ」と解釈できるとき、その認識を肯定するもの。

(1)A:明日は休みですよね。

B:そうです。

「明日」について、「Aが言っていること(X)」は「その通り(Y)」だ、ということ。

「そうですねA」・・・「そうです」と置き換えが可能で、問いかけに同意するもの。

(2)A:そうするとわりかた短いシリーズ。

B:そうですね。もう本当にあのーそうですね。4、5日通勤すると終わるかなと言うような長さです。

「そうですねB」・・・「そうです」と置き換えが不可能で、同意ともいえないもの。

(3)A:ああ、でもこれぞという十八番はありますか?

B:これぞは、そうですねえ、スパゲッティは好きですけれども色々作ります。

吉村(2000)が「耳障りなほど頻繁に使われている」と言っていた「そうですね」はこちらのBタイプです。

2.「そうですねA」について

小出は斉木(2008)が『「そうですねA」は「ね」があってもなくても意味は変わらない』としたが、「そうですねA」と「そうです」は本当に同じ意味なのかということを以下(4)の例文で検証しています。

(4)a. A:あなたは田中さんですか。 田中:そうですね。/そうです。

b. A:あなたのお住まいは横浜ですか。 B:そうですね。/そうです。

c. A:平成元年は1989年ですか。 B:そうですね。/そうです。

d. A:円周率は3.14159265ですか。 B:そうですね。/そうです。

(4)の例文すべてにおいて「そうです」と応答することは可能ですが、「そうですね」は可能なものとそうでないものがあります。たとえばaやbなどの個人領域への質問に対する応答では「そうですね」は不自然に感じられ、cの元号と西暦の換算、dの円周率の記憶検索など、回答に手間がかかる質問になるほど「そうですね」の自然さは高くなる、と小出は解説しています。このように「そうですね」が「そうです」と異なる点は、それが正しいかどうかという「命題の成否」の判断を示すことが中心なのではなく、判断に至るまでの話し手の心的な仮定の存在がしめされるところであり、心的過程がない場合や認められない場合には「そうですね」は現れないはずだと述べています。

3.「そうですねB」について

「そうですねB」ははじめにで見たように先行発話の命題的な内容には関係しません。これはA類と異なる点であり、B類では内容的な側面が希薄になった分、談話形成にかかわる側面が強くなっています。小出は特徴として以下のものをあげています。

  • 相手の発話を受けて発せられる。
  • 発話権を持つ場合のみ出現し、あいづちの「そうですね」はB型ではない。
  • ターンの冒頭だけではなく文中にも現れる。

また、「そうですね」をフィラーの一種と捉える人がいますが、フィラーの典型例は取り去っても談話の内容に関係しないもの(「えー」「うーん」など)です。この「そうですねB」は談話形成の働きを持つため、はじめにの(3)の例文では取り去ることはできないとしています。

4.まとめ

小出は2つの「そうですね」の共通点と関係について以下のように述べています。

A類とB類の共通点は心的反芻の過程が存在すること。

(A類は前の会話の内容に対しての確認、判断などの過程が想定され、B類では心的なものが現れる過程と連動していると考えられる。)

  • 「そうです」:前の会話を「XはYだ」という判断と捉え、情報的な観点で肯定する。正誤の観点を重視。(命題的)
  • 「そうですねA」:前の会話中の判断について、自分で考えた結果その判断が許容できることを示す。正誤の観点は二次的なものになる。(対人的)
  • 「そうですねB」:前の会話を受け、その話題を捉えなおしたうえで自分の意見の表出を行うことを示す。(談話的)

5.考察

後期の発表で定延・田窪(1995)の「『そうですね』は“フィラー”の働きを持つと考えてよい。」を取り上げてまとめにも入れたのですが、今回の論文では「そうですねB」はフィラーとは別物だと批判している点が興味深かったです。今後も「そうですね」の持つ機能や分類の仕方について深く掘り下げていきたいと思いました。

それではみなさん良い春休みを。

参考文献

定延利之・田窪行則(1995)「談話における心的操作モニター機構―心的操作標識『ええと』と『あの(ー)』」『言語研究』第108号、pp.74-93.

吉村浩一(2000)「『そうですね』の会話分析の枠組み―心理学とエスノメソドロジーからの検討―」『社会環境研究』(金沢大学)第5号、pp1-10.

斉木美紀(2008)「談話分析から見る『そうですね』」『横浜国大国語研究』第26号、pp.60-45

小出恵一(2011) 「応答詞『そうですね』の機能について」 『埼玉大学紀要(教育学部)』第47巻第1号、pp.85-97.


会話の中のいわゆる〈女性語〉

 

  こんにちは。昼ゼミ2年の狐塚です。1月は成人式やテストやらで、大忙しの月でした。成人式では、式典の司会進行を努め、だいぶ緊張しました。ですが、司会終了後の企画ではバンドでボーカルをして暴れさせていただきました(笑) 成人として、真面目さと自分らしさを兼ね備えた大人になろうと決意した次第です。

 さて今回わたしは、以下の論文を紹介します。

松本善子(2007)「会話の中のいわゆる〈女性語〉」『言語』 第36巻3号, pp62-69,大修館書店

 この論文では、女性語というものがジェンダーの差のみによって使用されている訳ではなく、同一人物が一連の会話内でもさまざまな言語スタイルを巧みに使い分け、各自の人物像を創出しているという考えがなされています。

◎考察と結論

 

 まず本論にて扱われている、この〈女性語〉と呼ばれる言語形態は、実際の使用例を考察すると、単に女性が使う(または使うべき)形式であるという抽象的、規範的なルールとしての理解とは明らかに異なった法則が見られるとあります。〈女性語〉という観念は(〈役割語〉のようなものとして)一般には根強くあり、その意味で日本語話者の言語使用意識を反映しているとはいえ、言語形態の分析をする上でのカテゴリーとしては確立したものではないと言えるのです。分類には、社会的規範や判断する者の主観が加わってくるので、ここでは〈いわゆる〉〈女性語〉と呼ばれるものが実際の会話においてどのような使用をされているのかを題材に考察されています。

 〈女性語〉を分析する際に中心となって考えなければいけない文末表現に、典型的なものとして「行くわ」「行くよ」等の特に終助詞を伴った文があります。これらが、なぜ男性と女性の表現として各々結びつけられるかには指標性の概念が関係しているといいます。Ochs (1993)は、日本語の終助詞「わ」と「ぜ」の例を挙げ、「わ」は話者の感情を表す度合いの繊細さを、「ぜ」はその粗さを直接指示していますが、その一方を女性に相応しく他方を男性らしいと捉える価値観が仲介することにより、「わ」は女性を、「ぜ」は男性を間接的に指示することになると述べています。直接的に示される話者の姿勢がここでいう語用論的意味であり、ジェンダー化されたスタイルとは別のレベルの特徴を持つと考えます。また、「~だ」と「~だわ」について語用論的な意味について考えてみると、「だ」はもともと文の内容に対する話者の確信の強さを示す表現であるので(寺村1984、Konomi1994)、その使用は話者の断定的ではっきりとした姿勢を直接指示します。これとは対照的に、終助詞「わ」は、話者の控えめで繊細な姿勢を表すと考えられています。「わ」は、発話が話者自身に向けられていることを示唆するので「わ」の使われていない発話や、「よ」「ぜ」「ぞ」のようなより強い主張の助詞が使用されている発話に比べると、聞き手に訴える力は弱くなります。「だ」及び「わ」の使用不使用は、話者が用いる断定的なスタイル(文体)、または控えた姿勢のスタイル(文体)を示す手段となるのです。

 以上のことを踏まえて、本論では実際の会話の例に従って考察を展開します。ここに登場するのは、規範的な〈女性語〉を使用していると思われがちな、中流家庭の中年女性グループです。例のひとつである車内での会話シーンをあげてみます。

 (1)A:あ、やべえ、これ右しか行けないわ

  (2)B:あ、ほんと

 (3)A:あららら

 (4)B:みんな一方通行になっちゃって

 (5)A:こっち入りたくないんだよな

 (6)B:あら、ずっとだわ。

 (7)C:ここんとこずっとそうなんですよ、道が

 (8)B:あそうなんだよね

 (9)A:裏行きたいのよね、裏を

 この例を見ると、違ったスタイルの混沌が目につきます。Bさんの発話を見ると、(2)と(8)では「だ」の使用により主張が断定的にかつ相手に同意していることが明確に提示されています。これとは対照的に(6)では、「わ」で終わる控えめな表現であたかも独り言のように叙述し、自分の見解をはっきりと主張することを避けています。また、Aさんは自分の置かれた好ましくない事態に対する気持ちを表すのに(1)の「やべえ」や(7)などのはっきりとした主張を示す表現を使用していますが、(1)の「行けないわ」や(9)では控えめな表現を用いています。

 上記の例を見ると、個人の発話で同じ相手と同じ話題をしている時にもかかわらず複数の文体が使われています。これによって、個々の話者が言語表現に伴った様々な意味を組み合わせ、個々の人物像(またはペルソナ)を創り出していると言えるのです。それには、どの言語表現が女性、男性等のアイデンティティーと関係しているかということだけではなく、その関係の語用論的意味、つまりどんな意図や態度がその言語形式によって表わされているかについて注意する必要があります。Bさんは相手の言うことには力強く同意し、自分の意見は相手に押し付けない傾向があります。この二つから、Bさんが自分が相手を思いやる友好的な人物であるというペルソナを提示することに成功していると言えます。これは、Bさんが女性的な態度と男性的な態度を交互に取っていると解釈するのとは異なります。Aさんは、明確な区分は見られませんが、直接的ながらも控えめな姿勢を見せ、また中流の成人女性に期待される伝統的な言語行動を認識している反面、時代錯誤的な規範的ジェンダー観念に対する社会的非難も意識しているというパターンを見せ、単純には決められない多角的な人物像を醸し出しています。この他にも本論では、いろいろな会話のパターンから発話者が創り出す人物像について分析されています。

 このように、これまで規範的な女性の言語スタイルを使用すると思われがちであった中流家庭の中年の女性らが、実際の会話ではさまざまな表現が多岐にわたって使用されていることが理解できます。またそれによってそれぞれの話者が色々な社会的、語用論的意味を蓄えた表現を縦横に駆使し、話者によっては混沌したスタイルを生み出すことにより、それぞれの人物像、ペルソナを創り出していると言えます。

◎感想

 以前から私はわざと「~わ」や「~よ」という表現を使っていました。最近はさまになってきて、自分のひとつのキャラクターのように普通に話せます。周囲からも自分の性格的な特徴として受け入れられています。今回は、このことから、少し女性語についての論文を見てみることにしました。私は、その「女性語」はユーモア的な面を含めて使用していますが、それがこの論文にて語られているペルソナを創り出すための要素であると理解し、確かにと納得しました。これに関連して役割語の話題があり、キャラクターとしての「女性語」にも興味がわきましたので、今後の研究の参考にできたらなと考えています。

参考文献

KonomiEmiko.1994.The Structure of the Nominal Predication in Japanese.Unpublished Ph.D.dissertation.Cornell University.

OchsElinor.1993.Indexing gender.In Sex and gender hierarchies,(ed.)Barbara Diane Miller.Camblidge University Press.149-169

TeramuraHideo.1984.Nihongo no Sintakusuto Imi (Jpanese Syntax andMeaning )Vol.II.Tokyo:Kurosio Syuppan.

洋語の現状と将来-言語干渉の視点から-

こんにちわ。夜ゼミ2年1グループの神村賢です。期限ギリギリの提出で申し訳ないです。1月は自分の大好きなクリームパンを毎日のように食べていました。残り11ヶ月間もクリームパンに囲まれて生活をしたいと思います。さて、今日は、以下の論文についての簡単な要約を紹介したいと思います。

鈴木孝夫(1985)「洋語の現状と将来−言語干渉の視点から−」『日本語学-洋語-』第35号、pp212-225 明治書院

この論文では、日本語に入り込んできた外来語について、従来多くされてきた意味変化や音声学音韻論的な側面での研究ではなく、日本語と外国語との間に起こる言語干渉という広い視野の中で取り上げています。また、外国語の範囲を英語だけに絞らず、漢語やフランス語、朝鮮語などにも言及しており、幅広い視野での研究がなされています。また、外国語の氾濫という問題に対し、これまで理由とされてきた「欧米崇拝」や「外国語に対する憧れやコンプレックス」だけでなく、「行き過ぎた戦後の英語教育」にも責任があるとしていて、最終的には日本人が使っている外国語は、その意味や組み立て方を分析し、外国語と日本語(洋語)の間の中間型という主張をしています。上記の点をもっと詳しく書いていきたいと思います。

まず、鈴木は日本語における語彙を本来の日本語である和語、主として漢字で表記される古代中国語系の漢語、カタカナ表記される洋語の3つに大きく分類しています。そして、この三種の異なる表記の使い分けこそが、日本人の意識の中に外来語の観念がいつもはっきりしている理由の一つになっているといっています。なぜこのようなことが起こっているのかというと、日本語に外来語として入ってくる言葉が、言語の系統からいっても文字システムの点でも日本語とは全くかけ離れた言語に属するからであります。例えば、英語だとフランス語系の語彙やラテン語など外来語として入ってくるものも英語にとって養子縁組のようなものであり、その上文字も同じであるため、あまり外来語現象が起きないというようなことです。この点、日本語は表記も由来もすべて違うため、外来語への意識が過敏になっているのです。

外国語による干渉の分類には、追加、併存、置き換え、翻訳、中間系の5つがあるとしていて、この内容は従来の研究で主張されてきたことと重複している部分が多いのですが、1つずつ簡単に説明すると、まず、1つめの『追加』では日本語の中に対応する語が全くない状態でその事物や現象が入ってきたときに使われる手法で、これは許容すべきものであると鈴木も言っています。

次の『併存』では、「御飯」と「ライス」を例に出して、日本人の文脈取り込み型の認識形態を示しています。例えば、「御飯」で私たちが連想するのは、「米を炊いたもの」に加えて<茶碗によそわれている>という言語外の文脈要素を含んでいるのであり、<洋皿に盛られている米の飯>はライス、と無意識のうちにそのもの自体だけではなく、それが出現する文脈をも同時に表現の中に取り込んでいるのです。鈴木は、これには、文化論だけの問題でなく、戦後日本における国民規模での英語教育の普及をあげなければならないと言っています。知識がなければ置き換えもできないという観点から、洋語の氾濫の責任の一端は、義務教育となった中学校で、ほとんどの人が受け、その内の九割強の人が高校でも受ける英語教育にあるといっています。

3つめの『置き換え』では、日本人が「猿股」と「パンツ」「ブリーフ」を例に出し、日本人の、同じことやものを上品に見せたい、豪華な感じを与えたい、不快な連想を避けたいといったことばを飾る心理が描かれています。

4つめの『翻訳』では、それによって社会的な伝達や相互の意思疎通の障害になっているという従来の意見を出し、日本人が日本語における漢字の便利さや効率の高さを指摘し、日本人の日本語への深い理解の必要性を主張しています。

そして、最後の『中間形』では、外来語を先で説明した追加としての洋語として扱うのか言語学で言う一種の“引用”と考えて日本語ではないとするかという意識を問題としています。その例として、ガソリンスタンドやイメージチェンジ、クーラーやナイターなどが挙げられます。これらは、明らかに外来語ではないのだが、個々の言語要素はすべて正しい洋語であり、組み立て方も英語であるのに、ことばの意味するものが英語には存在しなかったり、全く別の言葉で呼ばれていたりする点で中間型なのであります。要するに日本語でも外国語でもない、英語語といったような中間の存在であり、これは英語教育の結末なのだから、受け入れなければならないと鈴木は指摘しています。

鈴木はことばというものは目的と手段、相手と場面を考えて使い分けるものであり、それがなければその言語行為は混乱し自滅する他ないと結んでいます。

以上で要約を終了します。この論文の面白いところは、いろいろな言語を例として出し、日本語の特徴をしっかり掴み、それゆえの外国語問題なのだということをはっきりと主張しているところです。

まとまっていなくて読みにくいと思いますが興味のある方はぜひご参考にしてください。では、これで晴れて春休みを迎えることができます。さようなら。

日本語の終助詞「ね」の持つ基本的な機能について

夜ゼミの須永佑磨です。以下の論文の要約です。

北野浩章(1993)「日本語の終助詞「ね」の持つ基本的な機能について」『言語学研究』京都大学言語学研究会vol.12 pp.73-88.

1.はじめに

北野(1993)では主に終助詞「ね」の機能について考察されている。これまでの数々の研究の中から主要なものを概観した上で、終助詞「ね」の意味・機能について新たに提唱されている。

2.先行研究

「ね」に関する機能について、これまでの研究は主に「共有情報説」「内部確認行為説」に大別することが出来る。

「共有情報説」

 「ね」は話し手と聞き手との間の共有情報を表示するのに用いられる。又、(1a)の同意要求、(2)の確認のように聞き手に対する要求が伴うという性質もあわせ持つ。

  (1)a.あの車かっこいいですね。

     b.そうですね。

  (2)彼女は確か沖縄の出身でしたね。

尚、筆者が挙げた先行研究と論旨を以下にまとめる。

大曽(1986):「ね」は話し手と聞き手の情報、判断の一致が前提となる。

益岡・田窪(1989):話し手が相手も同じ知識を持っていると想定する場合に使用される。

森山(1989):「ね」は平叙文では当該情報が聞き手にも存在するという話し手側の仮定の

表示。→「聞き手情報配慮非配慮の理論」

神尾(1990):話し手と聞き手が同一の情報を持っている場合は「ね」が必須要素。

金水(1991):話し手の仮説と聞き手の仮説の強弱関係に注目。話し手の仮説が聞き手の仮

       説より強くない場合、聞き手に同意要求や確認をすることを示唆。

「内部確認行為説」

蓮沼(1988):(3)の様に話し手が述べようとしている事について間違いがないか、確かにそうであるか等、確認しながら発話する機能。

  (3)a.理想の女性は?

     b.やっぱり、しとやかで優しい女性ですね。          北野(1993)

  (4)a.お住まいはどちらですか?

     b.*神戸ですね。                      北野(1993)

 (4b)の自分の住所のようにわざわざ確認する必要がないものは不適格になる。

3、問題点

「共有情報説」…(3b)の様に話し手と聞き手との間に情報共有がない例に対する説明不足。

「内部確認行為説」…(5a)(5b)の様に「ね」の使用が内部確認行為と一対一で対応するとは言い切れない。

  (5)a.うーん、どんなに考えても、思い出せませんね。

     b.うーん、どんなに考えても、思い出せません。        北野(1993)

4、筆者の提案

  (6)終助詞「ね」の基本的な機能:

    「ね」は、聞き手に対し、話し手の発話が妥当かどうかを確認するために用いら

    れる。

 すなわち、「ね」が付くことにより発話の妥当性を聞き手に問う、という点に基本的な機

能を見出す。→「発話確認」

「共有情報説」との比較

 (6)より、ある種の要求を行っていることから同意要求や確認に通じるものは存在する。

しかし、共有情報という前提は不要としている。

  (7)a.ちょっと郵便局に行ってきます。

     b.ちょっと郵便局に行ってきますね。             神尾(1990)

 (7)についても郵便局に行くという話し手の意思を発話し、その妥当性を問うのが「ね」の機能としている。

「内部確認行為説」との比較

 (5a)(5b)の様に内部確認行為と「ね」を直接つなげることは疑問が残る。このような例も「発話確認」の「ね」として考えられる。ただし、聞き手に確認を求める力は小さいか、ほとんどない。

又、(4b)が不適格であることも、聞き手の発話の妥当性を確認する必要がないため、「ね」が使用できないと説明出来る。

主に以上の様な内容から「ね」の基本的な機能が「発話が妥当であるかどうかを聞き手に確認する」ことを示し、様々な現象がこの基本的な機能により説明することが可能であるとし、まとめている。

5、参考文献

北野浩章(1993)「日本語の終助詞「ね」の持つ基本的な機能について」『言語学研究』京都大学言語学研究会vol.12 pp.73-88.

大曽美恵子(1986)「誤用分析1 『今日はいい天気ですね。』-『はい、そうです。』」 『日本語学』明治書院vol.5 no.9 pp.91-94.

神尾昭雄(1990)『情報のなわ張り理論 言語の機能的分析』大修館書店

金水敏(1991)「伝達の発話行為と日本語文末形式」『神戸大学文学部紀要』神戸大学文学部vol.18 pp.23-41.

蓮沼昭子(1988)「続・日本語ワンポイントレッスン・第2回」『言語』大修館書店vol.17 no.6 pp.94-95.

益岡隆志・田窪行則(1989)『基礎日本語文法』くろしお出版

森山卓郎(1989)「認識のムードとその周辺」『日本語のモダリティ』くろしお出版pp.57-120.

音声対話の言語学的モデル:談話管理標識としての感動詞の分析

こんにちは!昼ゼミ3年の近間鮎美です。面接の試験がある度に「自分らしさ」について考えますが、「私は○○です」と言うにはまだ過程の段階であって、そう胸張って言えるようになるまでには、まだまだ年を重ねなければならないと思ってしまう今日この頃です。「私は○○になる予定です」なんて言ったら落とされそうですね……。

 さて、今日は以下の論文を紹介します。

 田窪行則(1994)「音声対話の言語学的モデル:談話管理標識としての感動詞の分析」『情報処理学会研究報告. SLP, 音声言語情報処理』90(40) pp15-22 一般社団法人情報処理学会

 この論文では、これまで対話のデータとしては無意味なものだとして切り捨てられてきた、間投詞、言いよどみ、呼びかけ、つなぎ言葉などが、話し手の心的処理状態の標識だということを指摘しています。その根拠として感動詞を挙げ、感動詞を「入出力制御系」と「言いよどみ系」に分けてそれぞれの特徴を述べています。

 まず「入出力制御系」の感動詞を、応答系、問い返し系、驚き、迷い、納得の5つに分けています。

 応答系:ああ、はい、はあ、ええ、うん、んん、ふん(下降イントネーション)

 問い返し系:は、はあ、え、ええ、へえ、ふん(上昇イントネーション)

 驚き:あっ、えっ、はっ、ふんっ

 迷い:ううん(高平長)

 納得:ふうん、へええ、ええ、(低平長)

 そして筆者は、これらの感動詞類は原則的に独立文をなし、情報の入出力に関係するとしています。(情報の入出力とは、論文には説明されていませんでしたが、「入力」を、頭の中にある知識や記憶などのデータベースを言語変換すること、「出力」を、データベースに入力されたことがらについて発話することと考えるとわかりやすいと思います。)

 「入出力制御系」の感動詞について「はい、ええ」を例に挙げ、上昇イントネーションの場合は入力に失敗したこと、高平長で母音を伸ばす場合は入力に成功し、出力の評価に時間がかかっていることを示す標識、低平長で母音を伸ばす場合は入力に成功し、それに基づく出力のモードに入ることを示す標識であるとして、この類の感動詞は入出力を制御する標識であることを主張しています。 

 また「言いよどみ系」の感動詞類について以下のような例を挙げています。

 非語彙的形式:え、ええ、単語末母音の調音化

 語彙的形式:

  ①内容計算:ええ(っ)と、ううんと

  ②形式検索:あの(ー)、その(ー)、この(ー)

  ③評価:ま(あ)、なんというか、なんか、やっぱり

 筆者は「言いよどみ系」の感動詞を、出力の際の操作に関係すると述べ、「ただ今検索・演算中」を示す場つなぎ的な語、つまりフィラー(filler)であると定義しています。

 最後に、これら「入出力制御系」と「言いよどみ系」の感動詞は、情報の発出や管理にかかわるものであり、聞き手はこれら話し手の心的モニターの標識としての言語表現を手掛かりに、話し手が次に何を言おうとしているのかを予測して、会話をスムーズにしているのだと結論づけています。

 私は現在、「まあ」の根本的意味・機能についての研究をしています。「まあ」という語には副詞やフィラー、感動詞といった様々な用法があります。それらをまとめて一つの意味として説明できないかと考えて、今回は感動詞についての論文を紹介したのですが、感動詞というのは私がはじめに予想していたものとは違っていました。私は感動詞の「まあ」を、「まあ、たいへん!」のように驚きを表す用法として考えていましたが、この論文では感動詞の「まあ」を、会話と会話をつなげるフィラーとして述べられていました。私が予想していた用法とは違った「まあ」でしたが、この論文を読んでみて私はある仮説を思いつきました。もし筆者が言うように、フィラーの「まあ」が感動詞とするならば、驚きを表す「まあ」も感動詞であるということになります。したがって、驚きを表す「まあ」を、フィラーの「まあ」と同じ要素をもつ「まあ」だとして説明できないか、ということです。

 これまでの「まあ」についての先行研究は、副詞の「まあ」からフィラーの「まあ」が生まれたことを説明することができても、驚きを表す「まあ」を含めては説明することができませんでした。しかし、フィラーの「まあ」も驚きの「まあ」も関係があるとすれば、全ての用法について説明することが可能になるのではないでしょうか。

 今後はこの仮説を実証できるような根拠を見つけて、論文へつなげていきたいと思います。