依頼と謝罪における働きかけのスタイル

こんばんは。昼ゼミ二年の山口です。本っっっっ当に最近寒い・・・。風邪やインフルエンザには気を付けてください。今回、「依頼と謝罪における働きかけのスタイル」というのを読みました。以下のようにまとめておきます。

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前回の発表の際に、佐藤(2011)の謝罪言葉の7つの分類が甘いのではないかという指摘を受け、今回はその中の「依頼」に関する内容を掘り下げて研究するに至った。

熊谷(2008)は依頼や謝罪として使われる「すみません」等の言葉の発話メカニズムを考察している。またこれらの言語行動には、2つのスタイルがあり、その1つは説明や弁明によって事情を相手に理解してもらおうという働きかけのスタイルである。事情説明によって依頼の必然性、妥当性をアピールし、なるべく弱みを見せずに理屈で相手を納得させるスタイルといえる。それに対し、もう1つは自分の不手際や責任に言及するなど自分を弱い立場に置くような働きかけのスタイルが存在すると熊谷(2008)は述べる。

A.M:紛失したのは、ほんとに私の不注意で。

F:はあ。

M:(頭を下げながら)申し訳ないと思ってるんですが、17日の出張にはどうしても私が行かなきゃなりません。

F:はあ。(Mを見ながらうなずく)

M:何とかパスポートを発行していくわけには、いかないでしょうか。

例文Aのように、事情説明をしつつも自分の非を認めるのは、「それならばあなたが悪いのだからあきらめなさい」と突き放される危険性を含んでいるが、低姿勢によって相手の共感を得、依頼の承諾を得ることが2つ目のスタイルといえる。自らを弱い立場に置くこのスタイルは、依頼や謝罪の言語行動において効果を発揮する。

○謝罪→非を認めること

○依頼→無理な頼みだと認めるような事を述べる

                 ↓

話し手のポジティブフェイスが傷ついた状態(弱い立場)で、これらを修復するのが相手の許しや承諾といえる。

依頼と謝罪の言語行動の働きかけを見てきたが、他の分類ももっと掘り下げて研究していく必要があると思った。同じすみません等の表現でもシチュエーションや相手との立場や関係などが変わってくれば、用法も変わってくるのではないかと思った。今後は、これらを受けて、様々なシチュエーションをもとに、研究していきたいと思った。」

【参考文献】

熊谷智子 2008  「依頼と謝罪における働きかけのスタイル」月刊言語37(1)26-33

「数詞「一」からなる数量詞表現について―日本語と中国語との比較を中心に―」

こんにちは、昼ゼミ3年の横山です。いまだに正月ボケを引き摺り怠惰な生活を送っております…。
さて、私は前回の発表で「ひとつ」の副詞的用法について調べ、「一」という数字には特別な意味・用法があるということがわかったので、今回はそれに関連した論文を要約して紹介したいと思います。

林佩芬(2010)「数詞「一」からなる数量詞表現について―日本語と中国語との比較を中心に―」『多元文化』(10),p35-48

この論文では、数詞「一」に助数詞がついた数量詞表現について、日本語と中国語を比較し両者の機能の類似点および相違点を分析しています。なお、ここでは“一个”のような中国語の数量詞を「“一”+助数詞」、「一人」のような日本語の数量詞を「一+助数詞」とそれぞれ表記することとし、例(1)(2)のような表現を数詞「一」からなる数量詞表現と称しています。

(1) 他是一个好学生。
(2) ??彼は一人のよい学生です。

例(1)のように中国語では“一个”を付けることが可能であるのに対し、例(2)のように日本語では「一人(の)」を付けると不自然になります。先行研究では、これは中国語の名詞の特徴である「複数読み」に起因すると指摘されています。例えば「茶碗と皿がある。/有飯碗和碟子。」といった文の場合、日本語の無標識の名詞(「茶碗」と「皿」)は単数・複数いずれの解釈も可能ですが、一般的には単数と捉えられやすいのに対し、中国語では複数として捉えられる傾向にあるということです。しかし筆者は、中国語でも日本語と同様に単数・複数いずれの解釈で読むことも可能であり、どちらかを決めるには一般常識や文脈からの推測等、名詞の単数・複数読み以外の要因も考慮する必要があると述べています。そこで筆者は、数量詞の個体化機能に焦点を当て、様々な観点から「“一”+助数詞」と「一+助数詞」の数量詞表現を比較・検討し、両者の機能の類似点及び相違点を考察しています。

はじめに日中両言語における「数量詞の個体化機能」についてですが、中国語の数量詞には指示物の数量をカウントする「計数機能」以外に、大河内(1985)が指摘しているような、「“一”+助数詞」を付け加えることで類名や総称という抽象的・非加算的な事物を具体的・加算的な個別物に変える「個体化機能」があると述べています。これはヨーロッパ言語の不定冠詞にきわめて近いものです。これに対し日本語では、一般的に文脈などから数量が明らかである(例(1)のように「彼」はこの世に唯一の存在であり、数量は「一人」に決まっている)場合には、「一+助数詞」の計数機能が働いていないため不自然な文になります。
しかし、日本語でも、「一」を用いて「冠詞的(不定冠詞)な働き」をする場合があると加藤(2003)は述べています。
(3)ひとりの中年の日本人男性が緊張した面持ちで証人台にたった。(毛利恒之「地獄の虹」)
(4)京都の下鴨に一軒の寿司屋がある。(加藤2003:52)
上のような文の場合、「一+助数詞」は、計数機能としてよりも、名詞の存在を顕著な形で指し示す「個体化機能」としての役割を果たしていると考えられるのです。
このように「一+助数詞」と「“一”+助数詞」のいずれにおいても、計数機能とは別に個体化機能というものが日中両言語に共通して存在していると主張しています。しかしその個体化機能には相違がみられるといいます。

そこで次に、事物の存在という観点から類似点、相違点を考察しています。数量詞の付加が事物の存在と密接に関係しているというのが筆者の主張です。
例えば「ここには一つのフランス語の学校はない。」「このあたりに一つのフランス語を学ぶ学校はありますか?」などと、否定文や疑問文で、事物が存在しない、或いは確認できない場合に数量詞を付加すると不自然な表現となります。これについては日中両言語で共通しています。
ただし、「ここに{一本のペン/ペン}があります。」といった存在義を有する文と、「これは{??一本のペン/ペン}です。」といった存在義を有さないコピュラ文(「A(主語)はB(補語)である」つまりA=Bの形である名詞文)の場合では異なる場合があると指摘しています。中国語では存在義を有しているか否かに関係なく、個体化機能が顕著である場合には数量詞の付加が自然であるのに対し、日本語では存在義を有さないコピュラ文おいて、数量詞が事物の属性として捉えられない場合、数量詞は付加されにくいとしています。
筆者はこの考察結果から、中国語の数量詞は日本語の数量詞と比較して、より強い顕著性を有すると推測しています。

次に「聞き手に対する注意喚起の用法」という観点から考察をおこなっています。建石(2005)は、「仕事を終えて男が帰宅すると、郵便受に一枚のチラシが入っていた。」のように「一+助数詞」は聞き手に新情報を提示する、または談話主題を導入する手段としても用いられると指摘しています。この聞き手に注意を喚起させる用法は中国語の「“一”+助数詞」の表現にも存在します。
ただし、日本語の場合は初めて登場した事物のみに「一+助数詞」を用い、二度目以降にその事物が言及される場合には、通常「一+助数詞」の形は用いられないのに対し、中国語では、事物が初めて登場するものであるか否かに関わらず、新情報のような注意を引き起こす要素が名詞に付加されている場合は、「“一”+助数詞」が用いられるという違いがあることを、筆者は指摘しています。

最後に「情報の焦点」という観点からの考察です。筆者は、助数詞は描写的な性質を有しているため、数量詞(「一+助数詞」「“一”+助数詞」)が付加される名詞が情報の焦点になると述べています。例えば、「一名の選手」と「一介の選手」ではニュアンスが異なり、後者には貶す意味合いが含まれます。また、中国語の場合は、“一位老师”、“一个老师”はいずれも「一人の先生」の意味ですが、前者の方が相手を高める、丁寧な言い方だということです。助数詞の持つこの描写的な性質によって、それと修飾関係にある名詞が指示する事物をより描写性の強いものに換えるため、情報の焦点になりやすいと考察しています。

以上のように、数詞「一」からなる日中両言語の数量詞表現には相違点が存在するものの、両者に共通する数量詞の個体化機能は、事物の存在、聞き手に対する注意喚起、情報の焦点と密接な関係にあると筆者は結論づけています。

この論文を読み、同じ表現を中国語と日本語で比較することで、やはり「一+助数詞」には日本語特有の機能があるのだということが分かりました。このことについてもっと深く調査し、自分の研究につなげていきたいと思います。

引用文献
加藤美紀(2003)「もののかずをあらわす数詞の用法について」『日本語科学』13号,pp.33-57,国書刊行会
建石始(2005)「日本語の限定詞の機能―名詞の指示の観点から―」博士学位論文 神戸市外国語大学大学院外国語学研究科

断り表現とラポールマネジメント

こんばんは。昼ゼミ3年の兵藤恋です。就職活動が本格化してきましたね。3年生の皆さんは健康に気を付けつつ全力で就職活動に励みましょう。そして、2年生の皆さんは今から計画的に進めると良いと思います。

さて、今日は以下の論文を要約します。

野木園子(2010)「日本人の断り表現とラポールマネジメントに関する一考察」『二松学舎大学論集』第53号、 pp.97-109.

私は断り表現・依頼表現を研究しており、断り表現をポライトネスの観点から研究している論文があったので、こちらにしました。
この論文では、従来の日本人は具体的な断り表現を伴わないという主張に疑問を持ち、相手との親しさの度合いによって異なるのではないかと指摘しています。筆者は誘いに対して、「断り」という発話行為を親しい間柄において日本人話者がどのように表現するか調査し、その結果を「ラポールマネジメント」という概念を鍵として考察しています。

まず、筆者は「ラポールマネジメント」を、スペンサー―オーティ(2004)が述べた言語使用の持つ社会的関係の維持・管理という機能という概念であり、自己と他者間のバランスに強い関心を示すものと定義しています。
調査方法として、実際に映画に誘っても不自然ではない関係の人20名に、「今度の日曜日もしよかったら映画にでも行きません?」という質問をし、応答を見るという方法を用いています。質問に先立って、本当は行こうと思えば行けるが、気が進まないので断るという前提で回答してもらっています。

そして、岡本等(2003)の意味公式に多少修正を加えたものをもとに、分析しています。具体的には感謝、情報、共感、理由、結論、謝罪、関係維持、間を持たせる表現、自問的な文末表現、中途終了文の10つに分類しています。筆者は「理由」が90%の回答者に見られたとし、特に細かく分析しています。今回見られた「断り」表現を断る理由に応じて、以下の4パターンに分類しています。

・正直な気持を述べて断るケース
(1)なんか、ちょっとここんとこ疲れててさー。映画って言う気分じゃないんだよね。ちょっとねー、寝るわ、たぶん。

・自分自身の事情に絡ませて断るケース
(2)行きたいんだけど、具合悪いかな、今は。

・他の人に絡ませて断るケース
(3)えっとね、友達が、あの、アメリカから、あのちょっと、帰ってくるんで、彼女の予定を聞いてみないとわからないんでー。ちょっと、行けないんですよ。

・その場で断らないケース
(4)スケジュール確認してから、あの、折り返し電話します。

考察として、大方の回答者は断る理由を明確に述べ、曖昧性が見出せなかったとし、40~50代の女性で、親しい友人の間柄の友人間においてという今回の調査結果に限ってだけ言えば、日本人の断り表現は曖昧であるという指摘は成り立たないとしています。

最後に「ラポールマネジメント」という概念を使って今回の結果を説明しています。断る理由として、正直な気持を述べた回答者の説明は長く、共感、関係維持を表す表現を多用する傾向にあるとし、これは断られる人との調和的関係を脅かす言語行為を和らげる効果があるからであると述べています。一方、具体的でない断り表現を用いた回答者の談話は短い傾向があり、これは事情を察してほしいという断る側の心理が働いたためと推測しています。「結論」を述べた回答者が半数弱だったことから、日本人のコミュニケーションにおいて「理由」さえ伝われば必ずしも「結論」を言う必要がないことを主張しています。

今後の研究として、目上、または親しくない相手に対しの発話行動も調査し、比較することが必要と述べていますが、私は世代別調査も必要であると感じました。40~50代の女性と20代~30代の女性とではやはり変わってくると感じ、より曖昧な回答が増えるのではないかと考えられます。私の本来の研究である断り表現・依頼表現も、こういった別の観点からアプローチし、卒論につなげていきたいと思いました。

参考文献
野木園子(2010)「日本人の断り表現とラポールマネジメントに関する一考察」『二松学舎大学論集』第53号、 pp.97-109

日本語の取り立て助詞

こんにちは。尾谷昼ゼミの大内です。寒い日が続きますが、みなさん体調を崩さぬようきちんと健康管理しましょう。今回、私は以下の論文の要約をしました。

  中村ちどり(2008)『日本の取り立て助詞と限定詞・名詞句フォーカス』岩手大学人文社会科学部 言語と文化・文学の諸相, pp.263-274 

 この論文では、日本語の取り立て助詞を中心に数量詞・名詞句を取り立てる場合についてフォーカスの観点から論じています。

 1.日本語の取り立て助詞の「は(対比)」「だけ」「しか」は、

(1)  学生が5人は来た。

(2)  学生も、5人来た。

のように、数量詞や名詞を取り立てる。ここでは、主語名詞句の量化にかかわる取り立て助詞が(1)のように数量詞を取り立てる場合と、(2)のように名詞句を取り立てる場合について、フォーカスの観点から分析する。

 まずフォーカスだが、取り立て助詞は、文中の特定の要素を他の要素と対立させるために使用される。この文中の要素を「フォーカス」された要素と考えると、取り立て助詞はある範囲内でフォーカスによって示された要素の入れ替えを行う役割を持つといえる。「学生が5人は来る。(→学生が5人以上来る)」のように、取り立て助詞が限定詞(数量詞)を取り立てた場合は、「以上」「ちょうど」「未満」等数量についての習慣的含意が付け加えられる。取り立てられた限定詞は、保守性を満たす、単調増加・減少の意味が付加される、否定によって単調性の反転が起きる、数量詞否定の用法を持つ、等の典型的な限定詞の性質を持つ。したがって「数量詞+取り立て助詞」の全体が新たな限定詞を作っていると考えることができる。「~は」の場合、肯定では「学生が5人は来る」の「5人は」は「5人以上」を含意する。したがって「少なくとも」と共起可能であるが、「多くとも」とは共起できない。

2.動詞句否定の場合、「学生が5人は来ない」という文が「来ない人が少なくとも5人いる」という解釈を持つ時肯定文と同じく「5人は」は「5人以上」を示す。

  数量詞否定の場合、「学生は5人は来ない」が副詞「多くとも」と共起可能である時「来る人が5人未満である」という含意を持つ。しかし「~」が1の場合は、「学生は(多くとも)ひとりは来ない」のように数量詞否定だけが共起できず、数量詞が全量の場合は「学生はすべては来る」のように肯定と動詞句否定が共起できない。「~は」以外に例を挙げると、「~しか」は肯定も動詞句否定の用法も持たず、「~だけ」は肯定と動詞句否定の用法のみを持つ非単調的・保守的な限定詞である。

 「限定詞+取り立て助詞」はAの個数についての情報を持ち、「名詞句+取り立て助詞」はBの個数についての情報を持つ。したがって限定詞と名詞句の両方にフォーカスがある場合は、2つの解釈の合計が文の意味解釈になる。たとえば、(3)における量子は「学生も来る」と「5人は来る」の解釈により来る学生の数は5人以上、学生以外で来るものの数は1以上であると判断できる。

3.まとめとして、取り立て助詞が限定詞を取り立てた場合は、新たに否定限定詞を含む典型的な限定詞をつくっている。また、名詞句を取り立てた場合には典型的な一般量化詞をつくることはないが、一般に特有の保守的な演算を行う。さらに、限定詞と名詞句の両方を取り立てた場合はその両方の解釈を持つ。したがって、取り立て助詞そのものは限定詞や一般量化詞ではないが、フォーカスに応じて限定詞の一部を構成したり、疑似的な一般量化詞解釈を導くと考えることができる。

 考察.

 取り立て助詞の基本的な用法、用いられ方に着目しつつも名詞句や動詞句に焦点をあてたところが新しいと思った。要約では便宜上載せていないが、数式のようなものがあり、これについての説明が不足だと感じた。また、書いてあることの意味が不明な箇所もあった(例:↓mon↓)のでこれまた説明不足に感じた。多様な捉え方の一つを学べた点においては非常に良かった。

 <参考文献>

中村ちどり(2008)『日本の取り立て助詞と限定詞・名詞句フォーカス』岩手大学人文社会科学部 言語と文化・文学の諸相, pp.263-274 

日本手話の非手指動作の基本タイプについて

こんばんは。夜ゼミの中島侯です。三年生就活頑張りましょう。

今回私は以下の論文を要約しました。

市田泰弘(2001)「日本手話の非手指動作の基本タイプについて」『日本手話学会第27回大会予稿集』pp16-19. 日本手話学会

この論文は日本手話において文法的意味をなす非手指動作について考察したものです。非手指動作とは手や指以外の動きで、例えば「うなずき」や「眉上げ」です。例文を挙げると次の文は同じ手話単語で表されます。

(1)日本語1 「雨が降ったら渋滞する」

日本語2 「雨が降ったから渋滞した」

日本手話 〈雨〉+〈渋滞〉

この二つの日本語の違いは非手指動作よって表されます。

(1)日本語1 「雨が降ったら渋滞する」

   日本手話1 ↗〈雨〉▼ +〈渋滞〉

日本語2 「雨が降ったから渋滞した」

   日本手話2 〈雨〉_▽ +〈渋滞〉

※(↗)→眉上げ、(_▽)→遅れたうなずき

眉を上げながら〈雨〉を手話で表現し、〈雨〉のあとにうなずきを入れます。うなずきを入れることで「雨が降ったら」という条件を解除することができます。日本手話2の順接は〈雨〉を表現したあとに遅れたうなずきをすることにより表されます。

このように日本手話には非手指動作が文を構成する上で大きな役割を果たしています。市田はこのような非手指動作に「4種の基本タイプ」があるとしています。それは「緊張」「弛緩」「制御」「収縮」で、これらは「強弱」と「大小」という二つのパラメーターの組み合わせによって説明できます。「強弱」は「弱」が無標、「強」が有標、「大小」は「大」が無標、「小」が有標で、以下の表で表されます。

              非手指動作の基本タイプ

タイプ

 

ⅠからⅣはそれぞれ「弛緩」「制御」「緊張」「収縮」に相当しますが、この論文ではこれらの特徴に対して先入観や固定観念を持つことを避けるために、身体感覚的な名称を与えずに単にⅠからⅣという番号で呼んでいます。

 

頭の動きと4種の基本タイプ

 非手指動作のうち、あらゆる手話文の節や句に現われて、文法的な標識となる頭の動きには「保持」「うなずき」「あご上げ」「首振り」などがあります。あらゆる非手指動作に共通する4種の基本タイプが存在するということは、例えば「うなずき」には4種類の「うなずき」があるということになります。

文末での保持の解放

 文末解放される保持(頭の動きの固定)はその文が平叙文であることを示します。

 (2)日本語 「彼はろう者だ」

   日本手話 〈ろう者〉+pt3

pt3というのは3人称に対する指差しという意味で、ここでいう「彼」を表します。Ⅰの保持はもっとも普通の文であり、話し手の提供する情報が聞き手にそのまま受け取られることを前提といた述べ方であり「彼はろう者です」となります。Ⅱの保持は聞き手の判断が間違っていると確信していて、その判断の修正を迫るような述べ方であり「(違いますよ)彼はろう者ですよ」という意味になります。Ⅲの保持は断定的な述べ方であり「(間違いなく)彼はろう者ですよ」となります。Ⅳの保持はⅡに似ていますが、一方的な意見の表明であり「(違いますよ、私が思うに)彼はろう者です」となります。

時間差をおいて現われる文末のうなずき

 文末の「うなずき」のうち、手話単語の表出後に時間差をおいて現われるうなずきは、相手の注意を引く眉と目の動きと伴って、「同意要求」または確認の文である事を表します。

(3)日本語 「行くよね?」

  日本手話 〈行く〉+pt2

Ⅰのうなずきは、聞き手の同意が得られることを前提とした同意要求文「行くよね?」となります。Ⅱのうなずきは、話し手の想定が聞き手の思っていることと同じであるかどうか五分五分であるような状況で使われる「行くんだよね?」という意味になります。Ⅲのうなずきは、話し手の想定が正しいことを認めさせようとするような断定的な述べ方である「(もちろん)行くね?」となります。Ⅳのうなずきは、話し手と聞き手の意見の相違を確認するようは述べ方「(本当に)行くの?」となります。

文末のあご上げ

 文末のあご上げは命令文である事を表します。

 (4)日本語 「行け」

   日本手話 〈行く〉+pt2

Ⅰのあご上げは、話し手の要求が聞き手に当然受け入れられることを前提とした命令である「行けよ」となります。Ⅱのあご上げは、判断を聞き手にゆだねる提案である「行ってみたら?」となります。Ⅲのあご上げは、聞き手が受け入れようが受け入れまいが、とにかく話し手の意見を表明するというような「行けばいいじゃないか」となります。Ⅳのあご上げは、聞き手に対して突き放すような「行けば?」となります。

否定疑問文に対する応答の首振り

 首振りにも基本タイプごとに異なる4種の首振りがあります。「田中さんは結婚していないんですか?」に対する首振りによる応答を見てみます。

Ⅰは「田中さんは結婚していない」ことを伝える首振りで、「結婚しているかどうか」についての否定を表しています。Ⅱは「いや、そんなことはない」と質問者の想定を訂正する応答になります。Ⅲは「いいえ、田中さんは結婚していますよ」という質問に対する応答になる。Ⅳは「いや、知りません」や「そんなことは言っていない」というような、質問が自分に向けられたこと自体が間違っているとする応答になります。

以上、日本手話の非手指動作には、異なる非手指動作であっても4種類の基本タイプによって分類できるという論文の要約でした。

参考文献

市田泰弘(2001)「日本手話の非手指動作の基本タイプについて」『日本手話学会第27回大会予稿集』pp16-19. 日本手話学会

岡典栄、赤堀仁美(2011)『文法が基礎からわかる 日本手話のしくみ』 大修館

関西方言のヤンナとヨナについて

こんにちは。夜ゼミ2年の須藤涼子です。春休みを目前に控えて浮かれたいところですが、華の女子大生生活もいよいよ折り返し地点に突入と考えると少しセンチメンタルですね。さて、今日は次の論文のレポートをしたいと思います。

松丸真大(2007) 「関西方言のヤンナとヨナ」 『阪大日本語研究』19

私は後期に関西方言の終助詞「や」と「な」について研究したのですが、この研究を進めるにあたって研究題材を標準語の「ヨネ」と関西方言の「ヤンナ」に広げてみては、とのアドバイスを先生から頂いたので、今回はこの論文を読みました。この論文では、標準語のヨネに相当して用いられる、関西方言のヤンナ・ヨナの意味と用法をまとめています。

まず用法の面では、原則としてヤンナ・ヨナは平叙文とのみ共起し、ヤンナのほうが共起できる品詞や活用型の幅が広く、たとえば次のように、ヨナは名詞に後接すると不自然が生じます。

(1)あそこの制服って学ラン{ヤンナ/*ヨナ}?

また、ヨナは話し手が体験したエピソードや情報を聞き手に伝える場合に用いられる、情報提示の用法をもちません。次のようにヤンナを用いることで、話し手は発話のターンを握ったまま会話を続けることが可能になります。

(2)昨日、ふらっと昔住んでたアパートの近くに行ってみてん{ヤンナー/*ヨナー}。そしたら、近所の人にばったり会ってねー…

これは聞き手からの応答を求めているのではなく、これから話題としてとりあげる情報が、談話の場で共有されているかどうかを確認しているのです。一方、ヤンナは命令表現や独話表現の場面で用いにくくなります。

(3) 遅れるんやったら、はよ連絡せー{ヨナー/*ヤンナー}。

(4) どうしてもそうなる{ヤンナー/ヨナー}。

(5) 気がついたら、もう12月なん{*ヤンナー/ヨナー}。

「命令+ヨナ」という文が誰に対する命令かという点を考えてみると、標準語の「動詞テ形+ヨネ」の場合は聞き手に対する命令であるのに対して、関西方言のヨナの場合は聞き手以外の第三者への命令になり、「はよ連絡せーよ」という第三者への命令を「(ヨ)ナー」という文末詞で聞き手と共有しています。独話表現ではヨナは常に適格ですが、ヤンナは不適格になる場合があります。(4)ではヤンナは適格ですが、(5)では、ヨナを用いた場合は独り言として解釈することができるが、聞き手を目の前にしてヤンナを用いた場合はどうしても聞き手に確認をとるという意味になってしまい、独話表現としては不適格です。

最後に松丸は、これらのヤンナ・ヨナの用法の面から、意味の面を次のようにまとめています。

ヤンナ:話し手の中で既に定着している知識・判断を提示し、聞き手の反応を要求する。

ヨナ:話し手が推論・判断した事柄について、聞き手の判断との一致をはかる。あるいは、既に共有している事柄について、当然のこととして提示する。

この論文では、情報提示の場合のヤンナのような、心理的な理由からのヤンナ・ヨナの使い分けがあるのが面白かったです。しかしヤンナ・ヨナについては研究題材がまだ十分なものではなく、この論文でもなぜ名詞に後接出来ないのかという詳しい理由については言及されていなかったので、今後は根気よく関連論文を探して関西方言の研究を進めていきたいです。

それでは皆さん良い春休みを。

参考文献

・松丸真大(2007) 「関西方言のヤンナとヨナ」 『阪大日本語研究』19

フェイス・ワークの観点から見た「なんか」について

こんにちは。昼ゼミ3グループの2年下山千亜紀です。ようやく、後期テストも終わり浮かれています。みなさんはどのように過ごされるのでしょうか?初めて、このような文章を書くのでとても緊張しています。
ところで、今日は以下の論文をレポートします。福原裕一著者の『会話に見られる「なんか」の機能拡張―フェイス・ワークの観点からー』では、フェイス・ワークの観点からみた「なんか」を、意味論的機能と語用論的機能に分けて分類しています。そのなかでも、「なんか」をフィラーとして扱い3つに分類している部分をレポートします。
Aにはフィラーの機能を、Bにはフェイス・ワークについて記しています。
フィラー(1) 「今、適切な言葉を探している。」ことを示す。
A:とりあえず「なんか」と発話することで、今ある自分の発話権を保持する。
B:聞き手の注意を自分に喚起すると同時に、聞き手に発話権を奪われないようにするための、話し相手の保持機能。
例:「あたしは自分はななんか、なんか、その、なんか、それを言われたときは…」

フィラー(2)新たに発話権を獲得することの前置き
A:直前の話題と関連性が保たれている場合は、発話権獲得であるが、直前の話題との関連性がない場合は、新しい話題の導入となる。
B:これからの発話権を獲得したり、新しい話題を展開することを聞き手へ喚起するための、話し手の保持機能となり、聞き手の気持ちを侵害することもある。話し手が沈黙を回避する際にも使用することもある。その場合には、聞き手の気持ちを損ねない。
例:(直前の発話と重なる形で)「なんかあたし、そのまま付き合ったこととか何回かあったんだけど」
例:(沈黙の後)「なんか、俺が思うに、お前はランキングが自分にとって本当に必用なものを選ぶのを邪魔してるってことじゃないの?」

フィラー(3)相手の発話を引用し、それに対する自分の評価を示す。
A:展開されている話題や聞き手、または第三者の発話(発話をそのままの形で引用することに限らず、考えや意見など)を引用し、それに対する話し手の評価や態度を示す。
B:聞き手や第三者に関わるため、前置きとして「なんか」を発話することで形式上引用する内容が「不確か」であることをメタ言語で表現する。事前に「不確かさ」を示す ことで発話責任を回避するための、話し手のマイナスの気持ちの保持機能を持つと同時に、評価の根拠が不確かである以上、結果として話し手の評価が正しくはない可能性を示唆するための、聞き手のプラスの気持ちの保持機能を持つ。
例:「君はさーさっきなんか学歴とりゃいいと思ってるやつは?…だめだみたいなこと言ってたけど…」
今まで読んだ論文の中では、「なんか」を談話標識や若者言葉として見られる特徴を扱っていて、分類された「なんか」の機能が、「ていうか」などの談話標識とどのような違いを持つかについて説明されていませんでした。しかし、フェイス・ワークの観点からみている論文を読んでみて、「なんか」がプラスの作用を持つため、多く使われる可能性があるのではないかと思いました。「なんか」以外の談話標識の作用を調べ、考察してみたいと思いました。

引用文献一覧
『会話に見られる「なんか」の機能拡張 ―フェイス・ワークの観点からー』福原 裕一 東北大学 国際文化研究(15) PP181-195 (2009)

日本語の主語はなぜ現れにくいのか

どうも、平井です。最近寒いですね。でも雪降ったしテンションあがります。

高橋道子(2008)『日本語の主語はなぜ現れにくいのか―社会文化的要因としての「世間」』を要約してみました。よかったら読んでみてください。

高橋道子、日本語の主語はなぜ現れにくいのか・要約

画像の張り付け型が分からなかったのでこんな形式ですみません…

実用日本語語彙から見た多義語

 こんにちは。昼ゼミ3グループの板垣美実子です。私は部活(バスケ部)のシーズンが終わり長期オフに入りました。シーズン中はかなり身体に負担をかけてきていたので最近は軽く体を動かす程度で調整期間として体調管理をしています。もう少ししたら、次の大会に向け身体づくりに取り組もうと思います。

 さて今日は以下の論文をレポートにします。

西原一幸(2009)「実用日本語語彙から見た多義語」

  この論文では、多義語について取り上げられています。多義語とは「意味的に関連づけられている2つ以上の意味を持つ語」であり、辞書では2つ以上の意味が記載されているものです。著者は(1)「きく」を例にして、どこまでを同一語の別儀とみるのか、同音の異義語とみるのか判断が難しいと述べています。

 (1)    (三省堂国語辞典)「聴く」と「聞く」を区別している

(清水国語辞典)「聴く」と「聞く」を区別せず2者を同一語とみている

このように判断が異なる場合があるとわかりました。

そこで著者は『清水国語辞典』から多義語の実態を分析し、数値として以下5つの解答を求めました。

①    最も多義である語はどの語か。

「とる(取る)」…手に持つ、船のかじをとる、消す など

 →28の語義を区分している。

②    実用日本語語彙全体において多義語、単義語の占める割合はどのくらいか。

多義語 14,301語(28%)

単義語 36,948語(72%)   合計51,249語

③    多義と品詞との関係はどうなっているのか。

(2)    失敬…[名][形動][自サ]人に対して敬意を欠くこと。失礼。

   [名][自サ]別れること。

   [名][他サ]他人の物を黙って自分のものにすること。

(2)では同一語形の品詞が変化することがわかりました。

④    語種別(和語、漢語、混種語、外来語)に見たとき最も多義である語種はどれか。

和語が多義語となる比率が最も大きい…外来語の1.9倍、混種語の1.4倍

著者はこの分析によって実用日本語語彙の多義語の主役は和語だといっても過言でないと確信し、その考察として、和語というものは本来その語の指し示す意味範囲が広く、反対に漢語は指し示す範囲が狭い。和語に多義語が多いのはそのことに関係があるだろうと述べています。

この論文で多義語は和語が多いとはっきりと数値に出ました。しかしこれは辞典によって出された結果であるため、私がテーマにしている仙台方言の特徴としてどうなのかはまだ明確ではありません。しかし触れたかった多義語については詳しくわかったので仙台方言「だから」が今回読んだ論文に関連しているのか調べ進めていきたいと思います。

 参考文献

清水国語辞典

「全体化」と「類化」  2年中村里奈

みなさんこんにちは。昼ゼミ二年生の中村里奈です。ここ一週間、東京でもグッと冷え込み体調管理が大変な時ですね。徐々に春休みに入った方も多いことかと思いますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか? 

さて、今日私が紹介するのは『「全体化」と「類化」-並列助詞論、特に「と」・「や」を中心としてー』というもので筆者は柏木成章氏です。私は後期で並列助詞「とか」について考察しました。この論文は後期で私が見てきた並列助詞の分類について新しい視点で述べており、今後の研究にあたり参考になればと思い読むことに決めました。

 柏木は並列の機能を果たすものとして「と」「や」「、」「・」をここで挙げており、「と」を全体化、「や」を類化として差異化を図っています。一方で「とか」に至っては、この「全体化」や「類化」が適用されないものとして問題提起し、「口頭語的用例」という言葉で表わしました。

(1)  だからしょうがないから数学とか(・・)勉強してさ、少し物理分かるようになったけど…

上に示した例で「とか」は名詞句を並列しておらず、独立的に用いられています。「とか」に関して、筆者は先行研究について具体的に述べていませんが、この用法を、

 すなわち、「とか」以下も、この観点よりすれば、「全体化」と「類化」の概念の何らかの形での適用によって解かれなければならないと考えられるが、その場合の一つの示唆は、やはり、これらの「口頭語」性、話しことばに存するものと考えられる。つまりこれらは、「全体化」・「類化」の原理を、「と」や「や」のように、いわば荘重・厳格に体現するというより、話し言葉の軽快性・実用性・感情性にふさわしいような形で、「気軽」な形で上述の原理を用いているのではないか。

と分析しています。また、日々変化する言葉をいちいち(・・・・)完全・厳格に分類する厄介さを批判する一方、差異化を図るなら「全部/一部」「列挙/例示」「全体/類」の含蓄に付ついて徹底的に把握する必要性がある、というのが筆者の考え方です。

 この論文では最初、文語調における並列助詞について言及しています。そして論文中で筆者は11項の生教材から「と」「や」「、」「・」「とか」の使用実態を考察しており、その結果より「とか」は用いられることが少ないとしています。しかし筆者が問題に挙げた「とか」は口語調で用いられることが圧倒的に多いはずです。よって今回は調査対象となったデータが口語データでないことを考慮していないように思いました。

 用例を多数挙げているにも関わらず、ひとくくりに「話し言葉性によるものだ」としているのは分析が甘いです。

この論文で中心命題となっている「全体化」「類化」という概念は、私が研究している話し言葉中の「とか」において、一つの分類基準として使える気がします。バックラウンドを踏まえた意味的要素の観点による分類を今後の方針とし、ますます「とか」の新用法に付いて具体例を用いながら考えていきたいと思います。

以上が論文の要約、自分なりの考察です。このような形式で論文要約を行うのは初めてだったので、至らぬ点がいくらもあるかと思います。みなさんの投稿も参考にしながら今後はもっと分かりやすい要約が投稿できるように努力して参ります。

それでは皆さま、よい春休みを!

参考文献

・柏木成章(2006)「「全体化」と「類化」-並列助詞論、特に「と」・「や」を中心として-」『大東文化大学別科論集8』pp99-pp107