「ようだ」と「らしい」―「そうだ」「だろう」との比較も含めて―

初めましての方は初めまして、そうじゃない方はお疲れ様です。尾谷夜ゼミ3年の倉田陽平です。寒いですね。3年生は就活がんばりましょう。2年生の皆さんは3年生になる準備をしつつ春休みを楽しんでください。
 
どうでもいい話はさておき、今回要約したのは以下の論文です。要約なので、以下より「ですます」調の文体やめます。ご了承ください。

菊池康人(2000)「「ようだ」と「らしい」―「そうだ」「だろう」との比較も含めて―」『国語学』第51巻1号pp46~58

この論文は、日本語の「ようだ」と「らしい」を中心にして、タイトルに書かれた互いに類似する4つの言葉の使い分けについて〈観察対象と判断内容の距離〉という観点から、それぞれの使い方を区別している。筆者はまず「ヨウダ」と「ラシイ」の意味について、

・ヨウダ:直接観察(体験)したところ、はっきりとはわからないが~という様子だ
・ラシイ:観察したものに推論を加えると、はっきりとは分からないが~という様子だ

と定義している。そのうえで両者の使い分けについて3つに分類している。

1.「ヨウダ」を使い、「ラシイ」を使わない

(1) 昨日彼と話しましたが、時々関西弁が混じる(よう/:*らしい)ですね。

(1)のような文は彼が関西弁を話すことは聞けば分かることであり、そこに推論は必要ないことから、筆者は「ヨウダ」のみを用い、「ラシイ」は使用することができないとしている。

2.「ラシイ」を使い、「ヨウダ」を使わない

(2) 人間の体は60兆個もの細胞でできている(*よう/らしい)ですね。

(2)は内容的に話者自身が経験したり、真偽を確かめたりできないが、〈しかるべき人が言うなら信じていいだろう〉という判断をしている為「ラシイ」を使うとしている。一見「ソウダ」も使えそうであるが、「ラシイ」が〈信じていいだろうと判断して使用する〉プロセスを含むが、「ソウダ」は〈そのまま伝える〉表現であり、判断や推論はそこには含まれないとも述べている。

3.「ヨウダ」「ラシイ」両方とも使える

(3) 誰か来た(ようだ/らしい)

(3)は例えば直感的に人が来たことをそばの人に伝える場合は「ヨウダ」が適切であり、玄関などから離れたところでノックの音が聞こえた時に推論する場合では「ラシイ」が適切であるとしている。このように直感的な見方も、推論的な見方も両方できる場合は「ヨウダ」「ラシイ」双方ともに使用できるものであると筆者は述べている。

以上の3つの分類に分けたうえで筆者は、「ヨウダ」と「ラシイ」の使い分けについて以下のように定義している。

 観察対象に密着して判断内容(=様子)が述べられる(と捉えられる)場合は「ヨウダ」、観察から距離を置いて(推論を介在させ、あるいはそもそも観察〈情報の入手〉が伝聞に基づいて行われ、)判断内容を述べる場合は「ラシイ」を使う。

つまり、観察対象との距離が近いほど「ヨウダ」を使用することが適切であり、反対に観察対象との距離が遠いほど「ラシイ」を使うことがふさわしいと筆者は主張している。

以上で要約を終了します。あまり参考にはならないかもしれませんが、少しでも皆さんのお役にたてれば幸いです。では、失礼します。

参考文献

菊池康人(2000)「「ようだ」と「らしい」―「そうだ」「だろう」との比較も含めて」『国語学』第51巻1号pp46~58

モダリティとポライトネス

 こんにちは。昼ゼミ3年の小川です。もうすぐ2月ですね。つまり私がAKB48のたかみなとしてサークルの合宿で「ヘビーローテーション」を踊ってから早1年。一刻も早く記憶から消去したいものです。

 それでは、以下の論文の報告をしたいと思います。

 三宅知宏 「モダリティとポライトネス」 『言語』大修館書店 28号 pp.64-69

  この論文の論点は「モダリティ」と「ポライトネス」の接点を探る、です。モダリティとは命題に対する心的態度を表すもので、意味論で扱われます。一方で、ポライトネスは、丁寧さなどの対人関係的修辞、またはコミュニケーションにおける方略に関わるもので、語用論において扱われます。つまり、この2つは異なるレベルにある概念で、これまでその関係性が論じられることはほとんどありませんでした。三宅は、日本語の質問表現「ダロウカ」をとりあげて、両者のどこに接点があるのかを論じています。

  まず、筆者は日本語のモダリティ研究において盛んに議論の対象となってきた「ダロウ」を考察し、「不定推量」という用法が「弱い質問」と「丁寧さの加わった質問」という用法に拡張されることを指摘しています。

  ダロウの最も基本的な意味は、「命題を想像の世界において認識することを表す」というものです。ダロウが平叙文に現れる場合は、「命題が確定的である、命題が真であると、想像の世界で認識する」という意味になります。例えば、「雨が降るダロウ」と言ったら、「雨が降る」ことが真である、と認識していると言っても、それは想像の世界での認識で、実際に雨が降るかはわからない、ということが表現されます。これを「推量」と呼びます。

  また、ダロウが疑問文に生起した場合は「命題が不確定である、命題の真偽が定められないと、想像の世界において認識する」という意味になります。これを「不定推量」と呼びます。

 (1)  明日は雨が降るダロウカ

 これは、独り言や心内発話で自然に用いられることなどから、疑問表現ではなくあくまでも話し手の認識を表すモダリティだ、と三宅は主張しています。

  そしてこの「不定推量」が、「弱い質問」と「丁寧さの加わった質問」という2つの用法に拡張します。まず、「弱い質問」からみてみましょう。

次の例文は、聞き手もまだその映画を観ていないことが明らかな状態での発話です。

 (2)  A      今度上映される「タイタニック2」って映画、おもしろいか?/ですか?

         B      今度上映される「タイタニック2」って映画、おもしろいダロウカ?/デショウカ?

Aは、聞き手が話し手に返答できないことが明らかなので、不適切な表現です。一方、Bのダロウカによる質問文は自然で、Aとは異なった表現効果を持っていることがわかります。それは、確定的ではなくてもなにかしら関与性がある情報を要求する、というものです。つまり、Bに対する返答は、「あの監督ならきっとおもしろいんじゃない」などの予想を含んだ不確定なものでもよいのです。聞き手に明確な返答を要求しないことから、三宅はこれを「弱い質問」と呼んでいます。ダロウカが本質的に聞き手への質問性を持っていないということは先述の通りです。しかし対話で用いられると、聞き手になんらかの応答を要求してしまいます。このことから三宅は、「弱い質問」は不定推量から拡張した用法である、としています。

  次に「丁寧さの加わった質問」です。

 (3)  A      どちら様ですか?

   B      どちら様デショウカ?

  AとBに意味的な違いはありませんが、Bの方が丁寧に感じられます。Bでは、ダロウカを使って、質問性は表わさず不確定性だけを表しています。つまり、聞き手に間接的な要求を行っているのです。間接的に表現することが丁寧さの表出につながるということはよく知られています。「丁寧さの加わった質問」とは、このような原理により不定推量から拡張した用法である、と三宅は言います。このような発話の間接性という観点は、ポライトネスに関する理論と関わりを持ちます。間接性が大きくなるほど、丁寧さが高くなる、ということです。

  モダリティは、文の意味を最終的に決定するという性格上、「発話文」の表現効果の入力となるものです。そのためモダリティの分析は、ポライトネス等の対話における表現効果の分析とも関係を持つことになる、というのが筆者の主張です。

  助動詞「よ」と「ね」の用法を研究していく中で、モダリティにも関係が深いということで、この論文を読んでみました。「よ」や「ね」は聞き手が心的態度を表す表現形式としての特徴が強く、それによる丁寧さとの関わりについて論じられていることはあまりないことに気がつきました。(私がまだ読んでいないだけ、という可能性もあるので探してみようと思います。)しかし、目上の人に対して「よ」を使うのが適切でない場合があることから、「よ」や「ね」をポライトネスという観点から考察することもできるのではないでしょうか。

「異文化コミュニケーション場面にみられる共話の類型」

こんにちは!昼ゼミ3年の酒井志織です。副ゼミ長だというのにこんなにギリギリの提出になってしまい、すみません…。今年の幹部さん達は大丈夫だとは思いますが、絶対に見習わないでほしいところです…。

では、早速今日は以下の論文をレポートします。

笹川洋子(2007年3月) 「異文化コミュニケーション場面にみられる共話の類型」 『神戸親和女子大学言語文化研究』 1巻、pp.17-40、神戸親和女子大学

この論文では話者が共同で一文を創る共話の形態に加え、異文化コミュニケーションの場面で話者同士が行う共話の形態の多様性を述べています。共話というのは日本人の会話によく見られるものであり、二人以上の話し手が、共同で発話を創ることです。この共話は会話の背景知識を共有できる友人同士の会話で起こりやすいと言われています。そのため、異文化コミュニケーション時にはあまり見られないかと思われますが、共話が見られたということを、先行研究において黒崎(1995)や萩原(2002)、堀口(1997)などが示しています。しかし、これらの調査はそれぞれ異なる会話状況で行われており、分析話枠組みも異なります。そこで、この論文では同じ条件の会話状況において、同文化、異文化コミュニケーションで起こる共話の違いを調査しています。そして、この論文では様々な共話の形式を以下のⅠ~Ⅳの観点から分析しています。

Ⅰ笑い、あいづちやパラフレーズ、オーバーラップにより共感を示す共話。

Ⅱ文レベルで起こる共話。文の後半をもう一人の話者が引き継ぎ、完成させる一文を共同で創る共話と、推測、共感表現を添える共話がある。

Ⅲ共感を表現する以外の、励ましや誉め、謙遜表現に対する否定など、より積極的な発話行為により相手と協調関係を志向する共話。

Ⅳ文を超えた、談話レベルで起こる共話。助け舟型、共話連鎖、共感表現の増幅、共話的な話題交換、先行話題導入による共話が観察された。

以下ではこのⅠ~Ⅳの流れでまとめていきたいと思います。

まずⅠでは、笑いやあいづち、パラフレーズ、オーバーラップなどの副次言語による共話を挙げています。そしてこれらは異文化コミュニケーションにおいても同文化同様に見られたとしており、特にオーバーラップに関しては話者の属する言語文化圏によって評価が異なるものでありながらも、この調査においては様々な話者が協調的オーバーラップをしていたとしています。

次にⅡの共感を表す文を添加する共話は、以下の6つの型に分けています。予測による相手の発話の先取り文を添加する型、共感表現を添加する型、共感を示す意見を付け加える型、新しい情報を付け加える型、相手の発話を別の表現で言い換える型、先取り回答をする型です。先取り型は日本人女性の会話に多く見られるものですが、今回は中国人女性も使っているなど、ここにおいても異文化コミュニケーションとの差は無いとしています。

ここで、個人的に疑問だったのが、相手の発話を別の表現で言い換える型=パラフレーズなのではないかということです。また、記載されていた例における新しい“情報”というものが共感を示す“意見”としか感じられず、この分類は適切だったのか疑問に感じました。その一つが以下の例(1)です。

(1)(アメリカ人男性EM2と日本人女性JF3の共話)(下線部が共話の型)

JF3 :                日本のー

EM2:僕の海は日本かもしれない    そしてアメリカに帰ってすぐにふけちゃうかもしれない

JF3 :トランク開けたらねえhhhh

EM2:

そしてⅢの発話行為方略などをストラテジーとして用いる共話は、以下の7つの型に分類しています。共話を示す質問、交話的な挨拶を交わす、励ましの表現を用いる、褒めの表現を用いる、謙遜表現とそれに対する否定という、謙遜表現に関わる相互作用を行う、謝りの表現を用いる、誘いの表現を用いる、の7つです。これらも異文化コミュニケーションでも見られたとしているのですが、果たしてこの挨拶という表現は共話に入るのか、疑問に感じた点でした。

そして最後にⅣの共話の連鎖や、話題領域の交換によるディスコース・レベルの共話です。これはつまり一つ一つの発話というレベルを超えて、談話レベルで起こる共話のことを言っています。そしてここでも笹川(2007)は5つの現象が見られたとして分類しています。助け舟型、共話連鎖、共感表現の増幅、共話的な話題交換、先行話題の導入の5つです。ここでは談話レベルにおいても共話が起こっていることが確認できた、としています。一つ一つの発話レベルで調査されていることが多いので、大きく見る必要もあることを感じました。

結論としては、先行研究同様に日本人どうしの会話で見られた共話の型は異文化コミュニケーションにおいても観察され、そして母語話者と同じように日本語学習者も共話を創る役割を担っていたということです。しかし今回は親しい者同士の会話データは無かったため、そこは今後の課題としています。

最後になりますが、今回私がこの論文を読んだのは「共話」という点と「異文化コミュニケーション」という点が気になったからです。私が課題として取り組んできた「あいづち」は共話において特徴的なものであり、また異文化コミュニケーションにおいて差はあるのか気になっていたからです。今回は共話自体の使われ方に大差はなかったということでしたが、違う結果になった論文はあるのか、探してみたいと思いました。

引用文献

・黒崎良昭(1995)「日本語のコミュニケーション―共話について」『園田学園女子大学論文集30‐1』

・萩原稚佳子(2002)「日本語インタビューにおける「言いさし―割り込み」の連鎖―対人コミュニケーションの視点から―」異文化コミュニケーション研究第14号

・堀口純子(1997)『日本語教育と会話分析』くろしお出版

虚偽・悪文の表現効果  レトリックの観点から

こんにちは。夜ゼミ3年の奥村です。
寒さも一段と厳しくなり、インフルエンザ等も流行しているとのことですが、体調に気を付けてこの冬を乗り切りましょう!

私は、今年度の後期授業で「レトリック」を個人課題として研究しました。そして、レトリックとかかわる新しい研究として、今回下記の論文の要約をしました。

柳澤浩哉(2009)「映画の中の虚偽・悪文」『表現研究』(90), pp.1-8

以下、要約です。

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1.はじめに
 この論文で扱うテーマは、タイトルにもある通り≪虚偽≫と≪悪文≫である。本来これらは誤った表現方法である。筆者の柳澤浩哉(2009)も論文の冒頭で、一言でいえばルール違反の表現であり、これらの表現を積極的に取り上げる発想は伝統的なレトリックにはないと述べている。しかし、同時にこれらの表現は我々の目を引く表現方法でもあるため、印象的な表現を作るときはあえてこの二つを利用していると主張する。特に作家やシナリオライターがこの表現を演出の重要な道具として認識していると分析し、主に映画の中で使用されている例を挙げ、この現象の生まれる原因を考察している。

2.虚偽・悪文による表現効果
 まず柳澤は、虚偽・悪文のもたらす表現効果について、それに気付いた(小説であれば)読者、(映画であれば)鑑賞者に、【知的優越感を与える特殊な修辞的効果】があると指摘する。例えば小説で、決して動揺を表に出さないと思われていた登場人物Aの台詞に、突然文法のおかしい悪文が使用されたとする。すると読者は「今、Aは動揺したのでは?」と説明がなくとも読み取ることができるのである。

3.映画の中での虚偽・悪文
 柳澤は、映画の場合でも虚偽と悪文の使用方法は基本的に変わらないとしているが、映画の方が表現の出現頻度は多く、使い方が計算されているとしている。それは主に、「言語から得られる情報が不足している」といった映画という媒体の特殊性が関係していると主張する。柳澤は、5つの映画で使用されている虚偽・悪文の台詞を引用し、その効果について考察している。

 5作品の引用例全てに当てはまる、虚偽・悪文表現の特徴・効果は
(a) 作品の冒頭、または、発話者の初登場場面において使用
という点が挙げられる。この点については4.まとめにて、柳澤の考察を述べる。

 また、虚偽表現の特徴・効果は
(b) 対話場面において使用
(c) 虚偽を使用した台詞の発話者における個性を印象的に表現
(d) (b)に関連して、対話している登場人物同士の人間関係を印象的に表現

の3点が挙げられる。柳澤の挙げる3作品の例を見ると、『オーシャンズ11』では、主人公である男性詐欺師の虚偽表現による聴聞官からの質問のかわし方により、主人公の男性が詐欺師として高い能力を持っていることを印象的に表現している。『家族ゲーム』では、息子の虚偽表現による母と息子の会話のずれにより親子関係の歪みを、『12人の優しい日本人』では、一人の陪審員の虚偽表現による陪審員同士の意見の食い違いにより今後の裁判の多難さを、巧みに表現している。

 そして、悪文表現の特徴・効果は
  (e)(邦画の場合)内容が不明、空疎である
  (f) 悪文を使用した台詞の発話者における心情を端的に表現

という点が挙げられる。柳澤は、邦画の台詞では文法的な悪文は稀であり、文法的には乱
れていないが内容が不明な文が、多くみられる使用方法としている。これについては、以
下の引用を参考にする。

(2)『リンダ リンダ リンダ』の悪文
   僕たちが子供じゃなくなる時、①それは大人への転進だなんて、誰にも言わせ
   ない。僕たちが大人になる時、それは子供をやめる時じゃない。②本当の僕た
   ちはどこにいるのか。本当の僕たちはここにいていいのか。本当の僕たちのま
   までいられる間、あと、少しだけ。2004、芝高ひいらぎ祭。

 この映画は、自分が分からなく何をすべきか分かっていない4人の女子高生が、迷いながらも学園祭でバンドを成功させるという単純な物語である。作品冒頭で、女学生が上記の引用文を読み上げる。この台詞は、①のように否定してもそれに代わる答えはなく、②のように問いかけてもその答えは見当たらないといった、空疎で思春期の迷いを感じさせる内容である。柳澤は、このように登場人物たちの特徴を端的に伝えることによって、映画全体を象徴する台詞になっているのだと分析している。この他『花とアリス』では、主人公の一人であるアリスが、幼い時以来久しぶりに父と再会した場面で、父の台詞に悪文が使用されている。父の初めての台詞は、内容が空疎で、意味のない話題ばかりを繰り返すといったものである。これにより、二人の気まずい関係性、また作品全体に漂う不安定さを象徴している。

4.まとめ
 柳澤は、このように、虚偽と悪文が担う効果は多彩であり、事例ごとに違うのに対し、現れる場所は(a)のように共通している理由として、映画の中ではどちらも第一印象の決め手として使用されているためであると分析している。虚偽も悪文も強い印象を作る形式であるために、第一印象を鮮やかにする目的でこの場所に使われるのである。
 さいごに、柳澤は、修辞技法を使用場所という点から分類すると、これまでの分類とは全く違う分類が生まれだろうと推測している。そしてその分類がわずかでも確立されれば、それは表現分析の強力な道具となるに違いないと主張している。

【参考文献・参考作品】
柳澤浩哉(2009)「映画の中の虚偽・悪文」『表現研究』(90), pp.1-8

『家族ゲーム』(1983)
『12人の優しい日本人』(1991)
『オーシャンズ11』(2001)
『花とアリス』(2004)
『リンダ リンダ リンダ』(2005)

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以上です。

ポライトネスから見る若者ことばの機能―龍谷大学キャンパス語の分析を通して―

 こんにちは。夜ゼミ6グループの成田みどりです。春休み目前ですね。私の春休みの目標は、朝型生活です。4月には立派な朝型人間に!…この課題を夜中にやっている時点で、実現するか怪しいですが。皆さんも充実した春休みをお過ごしください。

 今回は、私が「る」による動詞化を調べる中で見つけた、若者ことばについての論文をレポートします。

 村田和代(2005) 「ポライトネスから見る若者ことばの機能―龍谷大学キャンパス語の分析を通して―」 『龍谷大学国際センター研究年報』 第14号、pp.25-37、龍谷大学

 この論文では、「フラ語」「コピる」といった若者ことばについて、収集した語の分類と、ポライトネスの観点からの分析を行っています。「若者ことば(若者語)」は、「中学生から三〇歳前後の男女が、仲間内で、会話促進・娯楽・連帯・イメージ・伝達・隠蔽・緩衝・浄化などのために使う、規範からの自由と遊びを特徴に持つ特有の語や言い回しである。」と米川(1996)で定義されています。この「若者ことば」の下位分類に、大学生がキャンパスで使用する学校に関する語である「キャンパスことば」、それより広い概念で学生が使用する語を指す「学生語」などがあります。

 筆者は、若者ことばに関する先行研究として米川(1996・1998)などを、ポライトネスに関する研究としては宇佐美(2001)や吉岡(2004)などを挙げ、これらを評価した上で、収集したキャンパスことばをポライトネスの観点から分析し、キャンパスことばはポジティブ・ポライトネスであると述べています。

 筆者はまず、龍谷大学の学生100人から収集した「龍谷大学キャンパス語」116語を、米川(1996)や中東(2002)を参考に2種類の分類法で分類しました。

A 造語法による分類

A-1 省略(59語)

(1)フラ語(フランス語) 追いコン(追い出しコンパ)

A-2 合成(21語)

(2)おな中(同じ中学出身者)

A-3 名詞の動詞化(9語)

(3)コピる(コピーをとる)

A-4 英語を取り入れた造語(9語)

(4)だぶる(留年する)

A-5 語呂合わせ(4語)

(5)シャカシャカ(社会学部社会学科)

A-6 イメージからの語(8語)

(6) 祇園精舎(深草学舎顕真館(法要などが行われる建物))

A-7 元の意味とは異なる意味で用いられる語(11語)

(7)エース(授業にほとんど出席しない人)

B 表現対象による分類

B-1 龍谷大学に直接関係する語(76語)(米川(1996)の「キャンパスことば」)

(8)祇園精舎 龍大

B-2 日常生活等に関する語(42語)(米川(1996)の「学生語」)

(9)コピる 飲み

 筆者はこれらの「龍谷大学キャンパス語」の特徴にとして、以下の点を指摘します。

・話し手と聞き手の共通の既存知識の有する必要がある。

・省略が多い。

・ユーモアが見られる。

・マイナスイメージの語(概念)をプラスイメージの語で表現する。

(10)「前期エースだったから、後期は出た方がいいんじゃない?」

 (10)のでは、「エース」というキャンパス語は、「前期授業休んでばかりだったから」という発話内容を和らげ、ユーモラスにする働きがあると説明します。

 このことから、キャンパス語の機能は、会話する相手との円滑な対人関係を構築し維持する機能があると述べています。

 ゼミ生にはご存知の方が多いと思いますが、ここで、対人配慮に関わるBrown and Levinson(1987)のポライトネス理論について簡単に触れておきます。ポライトネス理論では、人は対人関係上の欲求、フェイスを持つと考えます。これには、相手に認められたい、受け入れてほしいという欲求のポジティブ・フェイスと、相手に傷つけられたくないという欲求のネガティブ・フェイスがあります。ポライトネスとは、相手のフェイスを脅かす行為であるFTA(Face Threatening Act)を回避する行動を指します。この時、相手のポジティブ・フェイスに配慮した行動をポジティブ・ポライトネス、相手のネガティブ・フェイスに配慮した行動をネガティブ・ポライトネスと呼びます。

 ポライトネスの先行研究には、宇佐美(2001)、Usami(2002)や吉岡(2004)があります。宇佐美(2001)、Usami(2002)は、初対面同士の72の会話の分析から、若い層を中心に気楽で対等な人間関係を志向したポジティブ・ポライトネスの比重が増しつつあることを指摘しています。吉岡(2004)は、10~60代の594名を対象としたコミュニケーション意識の調査を行い、「楽しく話すこと」を重視する意識は若い世代で高いと指摘しています。

 筆者は、これらの指摘を支持した上で、キャンパス語を含む若者ことばをポライトネスの観点から分析し、キャンパス語を含む若者ことばにみられる、親しみを表す、会話を楽しくする、聞き手と連帯感を分かち合う、言いにくいことを言う際、相手を傷付けないようにするといった機能は、すべてポジティブ・ポライトネスであると結論付けます。

 私は今まで、「コピる」など「る」による動詞化だけを見てきたので、キャンパス語にあった他の造語法はとても興味深かったです。

 分類については、特にAの分類は、7つの違いが分かりにくいと感じました。米川(1996)では既存の語と無関係な新語と既存の語を利用した新語の2種類に分け、それを細分類していたので、そのような大きな分類をまず示した方が良いと考えます。

 ポジティブ・ポライトネス・ストラテジーには「内輪である標しを用いる」というものがあり、これが若者集団の言葉である若者ことばそのものを表します。そのため、若者ことばがポジティブ・ポライトネスであることはその通りですが、あまりオリジナリティーのある主張とは言えないと考えます。しかし、(10)はキャンパス語が遊びの要素を持つ言葉として、意味内容を軽くすることを表す面白い例文だと思いました。

<参考・引用文献一覧>

宇佐美まゆみ(2001)「「ディスコース・ポライトネス」という観点から見た敬語使用の機能―敬語使用の新しい捉え方がポライトネスの談話理論に示唆すること―」」『語学研究論集』6 東京外国語大学語学研究所 pp.1-29

中東安恵(2002)『現代キャンパスことば辞典―岡山大学編』 吉備人出版

吉岡康夫(2004)「コミュニケーション意識と敬語行動にみるポライトネスの地域差・世代差―首都圏と大阪のネイティブ話者比較」『社会言語科学』7(1)  pp.92-104 社会言語科学会

米川明彦(1996)『現代若者ことば考』 丸善

Brown,P.,and Levinson,S.1987.Politeness:SomeUniversals in Language Usage.Canbridge:Cambridge U .P.

Usami,M.2002.Discourse Politeness in Japanese Conversation:Some Implications for a Universal Theory of Politeness.Tokyo:Hituji syobo.

ノダ文の提示するもの――「解釈」という観点から

おはようございます。昼ゼミの桜井香澄です。元日から高熱を出し、病院も休みだったのでタミフルももらいに行けませんでした。正月三が日の記憶がほとんどありません。とても損した気分です。皆さん、体調にはお気をつけください。ところで、今日は以下の論文をレポートしたいと思います。

名嶋義直(2001)「ノダ文の提示するもの――「解釈」という観点から」『ことばの科学』14、pp.71-92.

名嶋は、ノダが提示するものは「ある先行発話や思考」の「解釈」であるという観点から考察しています。

最初に、「解釈」を「ある発話や思考を別の表現や別の視点からとらえなおし、『関連性のある発話』たらしめる行為」と定義しています。

(1) A「ここは危険です。」
B(普通の店だと思っていた)→「ぼったくりバーなんだ。」

(1)の例では、Aの発話をBが解釈したということです。
次に「描写的用法」と「解釈的用法」について説明し、それがノダ文の分析に有効であると述べています。

(2) A:先生、何て言った?
B:明日テストをしますと言った。
(3) A:先生、何て言った?
B:明日プレゼントがあるって。

(2)は描写的用法、(3)は解釈的用法です。ある文が、事態を「描写する」ために用いられた場合は描写的用法に、「話し手や他者の発話や思考」を「解釈して」言い表すために用いられた場合は解釈的用法に属するとしています。

そして、話し手の先行会話を「解釈」する場合と、聞き手の先行発話を「解釈」する場合の具体例をあげ、ノダが「ある解釈」を「聞き手側からの『解釈』(またはその一部)として」提示するという機能を持つことを検証しています。
話し手の先行会話を「解釈」する場合では、「言い換え」「詳細説明」「繰り返し」「付け足し」「一般化」があると述べ、次の具体例を挙げています。

・ 言い換え
先行発話や思考に対する「より具体的な解釈」を提示しています。

(4) オヤジ:これで○○組の組長をはじいてこいや。なに、チョイとケガをさせるだけでええ。殺さなくていいんだ。

・ 詳細説明
後行発話が先行発話に対する詳しい説明として機能しています。

(5) 六月―ネパールは、すでにモンスーンに入っている。これから、ヒマラヤの南側が、一年のうちで最も雨の多い時期に突入していくのだ。

・ 繰り返し
先行発話は「事態」、ノダ文は「解釈」を提示しています。

(6) それ、私です。私。私なんですよ。

・ 付け足し
ノダ文が提示する「解釈」が、先行発話から聞き手が導き出すであろう「解釈」をさらに豊かなものにしています。

(7) β‐グルカン含有量は100gあたり11.6g。それだけではありません。最近ではβ‐グルカン以上に研究者の注目を集めているポリフェノール酸化酵素も、豊富に含んでいるのです。

・一般化
一般的であると思われる第三者の思考を「解釈」したこと(またはできなかったこと)を示し、命題に対する話し手のとらえ方や表現態度を示しています。

(8) (韓国で。大学が購入した日本製印刷機の説明書の翻訳を頼まれて)なぜ日本製を購入するのだ!

聞き手の先行発話を「解釈」する場合は、話し手が他者の先行発話を受けて、その発話に対する「解釈」を提示する場合にノダが用いられることがあると述べています。

(9) 裕子「帰りたくないんだ、家になんかー」
金子「おい、裕子、どうしたんだよ?おいーどこにいるんだ今?わかった、俺、すぐ行くから、待ってろ。」

(9)の金子のノダ文は、聞き手の発話を「原因」と「居場所」という2つの観点から「解釈」しています。

(10) (引っ越した上村家について、見知らぬ恵里にいろいろ尋ねられた主婦が、今度はやや胡散臭げに恵里に質問する)
主婦:あなたは?
恵里:あ、沖縄から来たんですけど、昔の友達なんですよ。文也くんの。

「あなたは?」という質問を、話し手は「あなたは誰で上村家とはどういう関係なのか」という質問であると理解し、それに対し回答しています。しかし、単に回答するのであれば(10)の下線部のノダは必要ありません。したがって(10)は(11)のような「解釈」を話し手が聞き手に「聞き手側からの『解釈』として」提示していると名嶋は主張しています。

また、先行発話に対する「解釈」だけでなく、因果関係を述べていると理解されるノダ文も「解釈」という観点から記述できるといいます。

(11) 只野:ハイ。しかし、もう少し調べさせてください。
会長:なぜだ?
只野:以上がなさすぎてかえって気になるんです。

ノダで提示されているのは聞き手が導き出そうとした2事態間における関係解釈「只野はXという理由で『もう少し調べさせてくれ』と言っている」の不定部分Xを埋めるものです。(11)のノダで提示されているのは、話し手(只野)の思考に対する聞き手(会長)の「解釈」であると言えます。
これと関連して、語り文についても述べられています。語り文でノダが用いられやすいのは、それまでの経過をまとめて提示するという語り文の機能と「聞き手側から見た『解釈』として」提示するというノダの機能が共通性を持つからだとしています。
名嶋は、ノダ文はある「解釈」を「聞き手側から見た『解釈』として」話し手が提示するものであり、非ノダ文は「生起した事態の描写」を行うものであると考えることができると主張しています。

私は終助詞としての「もの」について調べています。「~ノダモノ」「~モノ」の両方の言い方があり、それぞれの違いがどのようなものであるかという点に繋げていきたいと思い、この論文を要約しました。ノダが提示するものは事態や命題ではないという点が興味深かったです。

テレビコマーシャルの好感度 世代別言語ストラテジーの視点から

皆さんこんばんは。昼ゼミ2年の佐々木遥奈です。今バイト帰りで眠さと戦いながらこの課題を書いています。新年になってからまだ皆さんとお会いしていませんが、今年もよろしくお願いします。

さて、今回は以下の論文を要約します。

村田和代(2004)「テレビコマーシャルの好感度 世代別言語ストラテジーの視点から」『メディアとことば1 「マス」メディアのディスコース』pp.2-35

テレビコマーシャルを作る目的で最も大きいのは、不特定多数の視聴者に広告対象商品を購入したもらうことです。ゆえに、広告の表現に求められているのは「商品を売る力」であると言えます。

普及している広告効果の心理階層モデルとしてアイドマ(AIDMA)の法則というものがあります。これは、「消費行動」(消費者が広告によって商品を知り、それを購入するに至るまでの心理的過程)の仮説で、Attention(注意)、Interest(興味)、Desire(欲求)、Memory(記憶)、Action(行動)の各頭文字を取ったものです。この法則に則れば広告作成者側は広告(商品)に注目させて興味を持たせて欲しがらせればいいわけですが、ここで注意や興味に繋がらせるのに「好感を持ってもらう」ことが大事になってきます。フランツェン(1996)の研究にも、広告が「心地よい」など好意の度合いが高いほど広告の効果を高めるという結果が出ており、また、消費者の価値観自体が、「良いから好き」ではなく「好きだから良い」に変わってきていると言えます。(奥野,1997)

そこで、CM好感度調査で、消費者がどのような理由で好感を持つか、というのを1500名のモニターを使って調査したところ、1位が「出演者」、2位が「ユーモラスな所」、3位が「宣伝文句」(1990年~1996年)(1997年~1999年は3位が「ストーリー展開」、「宣伝文句」は4位)という結果が出ました。この結果をみると、「話されていることば」が、好感を持てるか否かを左右すると言えます。 (ここの部分は、結論がやや強引な印象を持ちました。この結果からは「話されていることば」は多少影響するにしても、左右するとまで言えない気がします。)

ゆえに、視聴者に好感を持たれるコマーシャルで使用されることばは、視聴者に好感を持たれることばであると考え、村田は分析対象を登場人物やナレーターが直接視聴者に向けて語る言葉に限定し、言語使用はどのような特徴があるか、視聴者の好感度を得るためにどのような言語ストラテジーが使用されているのかについて以下の方法で分析しました。

1999年度の好感度Top500のテレビコマーシャルにはどのような言語特徴が見られるのかを、1999年5月19日の番組開始から20日の番組終了まで朝日放送(大阪)で放送された全コマーシャルと比較して、登場人物の世代別で言語使用を考察。

どちらも登場人物が20代までを若者コマーシャル(以下、若者CM)、30代からを大人コマーシャル(以下、大人CM)として世代分別して分析しています。

若者CMでは友人と話しているような話体(speech style)が好まれ、基本スピーチレベルは常体(「~だ」「~である」といった言い切りで終わる形)でした。また、述語部分の省略やオノマトペ、造語、語呂合わせや押韻、体言止めなども多く見られました。これらにはコマーシャルに活気やリズムを与えユーモラスに仕立てる(オノマトペ、語呂合わせ、押韻)、注意を喚起し、文にするより短く終えることで強い印象を与える(体言止め)、解釈を視聴者に委ねる(述語部分の省略、体言止め)などの特徴があります。若者CMは慣習的な語や表現を使わずに、同じ意味のインフォーマルな語や表現を使用していて、堅苦しさを払拭する傾向にありました。これらは若者語(米川、1996)のカテゴリーに入ると同時に、相手との距離を縮めるためのポジティブポライトネスの言語ストラテジーに含まれます。しかし、若者語は会話を促進したり連帯感を表す機能がある一方で、「仲間内のことば」という最大の特徴を持つ以上、全ての世代でポジティブポライトネスとして機能するとは言い難いと言えます。

大人CMでは、比較的年齢層の高い登場人物では、丁寧体(「~です」「~ます」で終わる形)の使用が基本で、友人に話すような口調はほとんど見られませんでした。彼らは、これまでの日本語に見られる敬語という体系の中に身を置き、丁寧な話体(speech style)に好感を持つと考えられるので、登場人物やナレーターと視聴者の間に一定の距離を保ったまま親しみを表すことには好意的でも、若者世代のように友人のように語りかけられることに対してはあまり好ましいとは考えていないのです。

スピーチレベルを基本(常体or丁寧体)に保ちながら、相手に親しみを表せるように、終助詞(「よ」「ね」」「よね」など)を付加しているものもありました。終助詞は話者の伝達態度を表し、話し手と聞き手の潤滑油のような役割を担い、また、堅苦しさ(formality)を緩和する特徴があります。

また、ターゲットが若者・大人という区分を超えて広い年代層向けに設定されているコマーシャルでは、コマーシャルの最終文ないしはその直前に丁寧体を使用するという特徴が見られました。基本スピーチレベルを丁寧体とする大人CMでは、視聴者、特に若い世代に親しみを表すために一旦常体を使用することでダウンシフトするものの、最後には丁寧体に戻しています。一方で、若者CMでは、彼らの基本スピーチである常体を使用し、最後に年代が上の視聴者への配慮で丁寧体へアップシフトしています。スピーチレベルの上げ下げにより、広い年代層の視聴者への配慮を示しているのです。(私はここの解釈を、広い年代層の視聴者への配慮ではなく、親しげに話していながらも結局は消費者はお客様なので、お客様全般に対する配慮なのだと考えました。)

この論文のように若者・それ以外と世代を2区分するのではなく、もっと細かい分類で調べた方が面白いと思います。また、どの終助詞だとどの年代・性別に好感度を持たれるか、などの調査結果も知りたいと思いました。若者だから常体のCMに惹かれる、というのは必ずしも当てはまらないと思います。それは話者に対する好き嫌いも当然あれば、喋っているトーンや速さ、喋り方も大いに関係すると思うからです。さらに、この調査だとテレビが世に出始めたころの方が大人の世代として区分されていますが、テレビが普及し始めた世代、テレビなしには生きていない大人世代は、さほど丁寧体にはこだわっていないのではないかと考えられます。崩れているとは言えないまでも、敬語という体系が緩くなってきていると考えられるからです。時代の変遷とともに世代の感覚も変わってきていると思うので、そのことも加味しながら授業で進める研究とは別に学習を進めていきたいと思います。

参考文献

村田和代(2004)「テレビコマーシャルの好感度 世代別言語ストラテジーの視点から」『メディアとことば1 「マス」メディアのディスコース』ひつじ書房,pp.2-35

比喩表現における「主観性の帰属問題」

 こんばんは。昼ゼミ2年の張リンブンです。自分は試験期間中テストがないため、思い切り(というか勝手に)春休みをはじめましたが…残られた宿題を忘れてはいけませんね。自分の書いたボロい文章が皆さんに読まれてしまうなんて…想像するだけでもう日本海に飛び込みたいくらい恥ずかしいです。しかし仕方ありませんね…宿題ですもの。変な日本語使い方があっても、スルーしてくださいm(_ _)m

  今回私は以下の論文を紹介したいと思います。

 岡本雅史(2007.12.)「比喩表現における意味論的主観性と語用論的主観性」、『日本語用論学会第9回大会発表論文集 第2号』、p.9-16、日本語用論学会

 この論文では、従来の認識言語学的な主観性の議論が認識主体と話者の混同から生じる「主観性の帰属問題」と言語表現に埋め込まれた主観性を発見し認知しる「主観性の理解過程」の軽視という二つの問題を抱えていることを指摘しています。

 従来扱われてきた認知言語学の主観性に関する言語現象は次のようなものです。
1)      Vanessa is sitting across the table from me.
2)      Vanessa is sitting across the table

 例のように、どちらも話し手を参照点(reference point)とした言語表現ですが、1)では話し手が言語的に明示されているのに対し、2)では明示されていません。Langacker(1991)は1)のような文を発話する場合とは例えば自分がVanessaと一緒に写っている写真を見ながら説明するような場面であり、2)のような文を発話する場合とは、実際にVanessaと向かい合って座っている場において発話している場面であると解釈されると説明し、2)のような場合は本来認知的に把握される対象となる事態に中に話者自身が入り込んでいるため「主観化(Subjectification)」が生じると主張しました。

 しかし、こんな言語表現はある意味で「主観的」なものですが、問題なのはこうした言語表現の主観性がどこまで「いま・ここ」の話者に帰属されるべきなのかは、まだ曖昧のままです。一見主観的な言語表現であっても、その主観性が過去の認知主体に帰属するものなのか、「いま・ここ」の発話主体に帰属するものなのかを問う必要があります。これについて、Langackerは「話者(Speaker)」と「概念化者(Conceptualizer」の区別をつけましたが、深田(2001)が指摘するように、現在「主観化(Subjectification)」をめぐる議論はほどんどに両者を混同しています。

 <意味論的主観性><語用論的主観性>の区別を行うもうひとつの背景として、「言語表現の交換可能性」についてこんな例が挙げられました。

(美しい女性を見かけて)
ア)彼女は美しい。
イ)彼女は素敵だ。
ウ)あのコはイケてるね。
エ)あの女性は薔薇のようだ。

 こうした言語表現における話者の主観性を捉える上で問題となるのは①同一の対象や事態について言語化は本当に複数可能であるのか(客観的事態の主観的把握)、②解釈者(聞き手)は発話に対し一様に安定した主観性の指標を適用することが可能か、という二つの点です。しかし、話者の言語表現は言語習慣やその場のコンテクストからの要請や制約があって、発話の内容を話者の「認知の直接的な反映」と捉えると、不適切な部分もあります。例のように話者にとって「美しい女性」や「素敵な女性」は同じレベルでない上、それが指し示すものの同一性を保証するものは存在しません。従って、言語表現の交換可能性は認知言語学の「用法基盤(usage-based)」の不徹底を表すんものであることを指摘されるべきと、この論文が述べています。

 当該の言語表現が主観的であるか否か「認知主体」の側から問題にする限り、従来の言語表現の主観性(=意味論的主観性)と、その言語表現を使う時点での話し手の主観性(=語用論の主観性)を明確に切り分けるのは難しいですが、発話者からではなく、解釈者からの立場から主観性の問題を再把握すると、実際に「いま・ここ」の発話者がどの程度主観的であったかという客観的な実在論を超え、解釈者によって認識論的に見出されるものとして捉えることが可能になります。

 この論文の一番面白い部分は、岡本他(2006)の<意味論的主観性>と<語用論的主観性>の概念を導入してから、メタファーや直喩などの比喩表現がどのように解釈者に理解されるについて、主観性の議論に新たな視点を投じるところです。例えば習慣的で使われている「Time is money」など<意味論的主観性>だけがメタファーではない、次の例のように、後続する表現によって、<語用論的主観性>の高い表現も解釈できます。

(指導する学生に将来の進路を相談されて)
ア)君は違う道を行きなさい。
イ)君は違う道を行きなさい。君が選ぼうとしている道はあまりにも険しい。
ウ)君は違う道を行きなさい。君が選ぼうとしている道はまだ全然舗装されていないし、普通の人間が気楽に歩けるものではない。

 一方、直喩はメタファーと違って、事態認知が聞き手や読み手と共有せず、話者や書き手の主観性だけを直接に表す表現だと認識されています。しかし日本語における典型的な直喩「~のような」「~みたいな」は言語形式の観点から単純に直喩とみなすにも問題があります。「彼ってバカみたい」「玉のような汗」みないな<語用論の主観性>が薄れ、<意味論的主観性>が強い表現はむしろ直喩とは言いがたいです。従って、メタファーも直喩も、改めて主観性の観点から捉え直すべきだと思います。

【参考文献】

岡本雅史(2007)「比喩表現における意味論的主観性と語用論的主観性」『日本語用論学会第9回大会発表論文集 第2号』、p.9-16、日本語用論学会

日本語の補助動詞「‐てしまう」の文法化 : 主観化、間主観化を中心に

こんばんは。夜ゼミ3年の岩本です。テニスの全豪オープンの決勝5時間53分すごかったですね。3年生は就活が早く決まるように頑張っていきましょう。

今回私は以前から興味のあった「間主観化」を取り上げている論文を要約しました。

一色舞子(2011)「日本語の補助動詞「‐てしまう」の文法化 : 主観化、間主観化を中心に」『日本研究』第15号 pp.201-221 高麗大学日本研究センター

以下要約です。

本稿は、文法化の観点から日本語の補助動詞 「 ―てしまう」 の意味変化に伴う主観化、間主観化の様相を明らかにすることを目的としている。

1,「―てしまう」のアスペクト的意味

まず、従来の研究において決まって指摘されてきた「―てしまう」のアスペクト的意味について論じる。従来の研究では「アスペクト的意味を本質的にみる」ものと「それとは異なるものを「―てしまう」の本質とみる」ものの二つの論がある。

 まず、「アスペクト的意味を本質的にみる」論では、金田一(1976)、吉川(1971)、杉本(1991)の先行研究が挙げられる。以上の先行研究によると、「―てしまう」という形には「終結態」と「既現態」の二つがあるという。終結態は「ある動作・作用が完全に行われる」つまり「完了する」という意味を持つ。既現態は「その動作・作用が実現する」ということを表す。

 一方、「それとは異なるものを「―てしまう」の本質とみる」論では、藤井(1992)と大場(1999)が挙げらる。藤井(1992)によると、「―てしまう」は感情ㆍ評価的意味の方がより一般的であって、限界達成はむしろ部分的、あるいは付随的であるという。大場(1999)は「―てしまう」は動作ㆍ作用の過程の、客観的に指摘できるある部分を表す形式なのではなく、「決着がつく」という述べ方であるため、その解釈は相当に文脈に依存しており、それゆえアスペクトを表すように見えたり、話し手の情意を表すように見えたりするという。

 一色は藤井(1992)の論を認めつつ、自身で調べたことを根拠に、どの「―てしまう」も何らかの主観的意味が付きまとっている場合が多いとしている。ただ、複数の出来事の継起的発生を表す複文または重文に用いられた場合は、一切の主観的意味を排除したアスペクト性が現れやすくなる。以下例文である。

(1)  a.太郎がカードを配ってしまうと、皆はそれを一斉に手に取った。

b.太郎がカードを配ると、皆はそれを一斉に手に取った。

(1)aは「配る」という動作の完了を表しているが、(1)bの場合は太郎がカードを配りはじめた瞬間か、あるいは配っている途中に皆がカードを一斉に手に取ったと解釈することも可能である。

さらに、金田一(1976)のいう終結態及び既現態という観点から検討した。結果として、「動作ㆍ作用の<完了>としての終結態は継続動詞であるという前接動詞の性質によるものというよりは、複数の出来事の継起的発生を表す複文あるいは重文という限られた文脈において現れやすいということ」と「動作ㆍ作用の<実現>としての既現態も瞬間動詞であるという前接動詞の性質のほか、発話状況も含めた文脈によっても解釈され得るということ」が明らかとなった。アスペクト的意味が本質的なものか、付随的なものか問題はあるが、「―てしまう」には何らかの形でアスペクト性が関与しているといえる。

2,「―てしまう」の主観的意味

 本稿では「―てしまう」の主観的意味として<一掃>と<遺憾>を挙げる。これらは固定的な意味というよりは、発話状況を含めた文脈によってその都度実現する語用論的意味である。「―てしまう」の主観的意味は主観化の結果帯びたものであると一色は考える。まず「一掃」についてみていく。

 一掃は「動作主体が意志を持って行為を行って負担感などを一掃し、その結果、話し手が爽快感を感じること」を表す。また、「―てしまう」 の一掃の主観的意味は、意志形や命令形、願望の「-たい」と共起した場合に現れやすいのである。その理由として、藤井(1992)のいう、「話し手にとって都合のいい状態への転換をうながす心理というものは、命令に限らず、自身の意志や願望にも共通して存在している」ということ挙げている。

 遺憾は「動作主体が意志を持って行為を行い、あるいはコントロール不可能な状況下で行為を行い、その結果話し手が残念な気持ちになること」を表す。また、遺憾の用例は主体の意志的行為の場合にも見られるが、主体の無意志的状況で実現したことを表す場合が多い。理由としては、通常、当該行為や作用が、話し手のコントロールの範囲に及ばない、他者の意志による行為や自然発生的現象として実現するときに、話し手が自分にとっては好ましくないと否定的に捉える傾向が高いということを反映しているからとする。ただ、これは傾向に過ぎず、「―てしまう」が遺憾の意味を表すわけではない。

3,「―てしまう」の間主観的意味

 「―てしまう」の間主観的意味として<言い訳><照れ隠し><配慮>が挙げられる。

<言い訳>は、話し手が 「―てしまう」 を付加して行為の意図性を軽減させることにより意図的にその行為を行ったという印象を弱めその行為に対する反省の念を聞き手に伝えるもの。

 <照れ隠し>は、明示されない主体の意図性を、「―てしまう」によってさらに軽減することにより、たとえそれが主体=話し手の働きかけによって実現した事態であると話し手が認識していようと、それが主体=話し手の働きかけによるところではないという意味合いを敢えて聞き手に伝え、話し手自身にとって好ましい事態が実現したということを控えめに伝達するものである

 <配慮>は、「―てしまう」 の付加によって主体の意図性が軽減され、表現が直

接的なものから間接的なものへと変わる、つまり主体である聞き手に対する配慮が生じるものである。

 以上の「―てしまう」の意味には意図性の軽減がみられる(ここでは非意図化と呼ばれている)。非意図化ということは、つまり主体の後景化を意味しており、主体=聞き手を後景化させて主体の関与性が希薄化したより間接的な表現をすることによって、聞き手への配慮の意味を生じさせるのである。この後景化は先行研究においてすでに言及されていて、Ivan・酒井(2003)、益岡(2007)を一色は挙げている。

 以上見てきた「-てしまう」の<言い訳><照れ隠し><配慮>の意味においては、さらに話し手の聞き手に対する認識的ㆍ社会的注意(配慮)を表す意味へと変化するという 「間主観化」 が起こっていると考えられる。これは、「-てしまう」 の 「非意図化」に基づく<言い訳><照れ隠し><配慮>という意味が、話し手の事態(命題)に対する聞き手への発話ㆍ伝達態度を表していると考えられるからである。したがって、本稿ではこれら<言い訳><照れ隠し><配慮>の意味を、「-てしまう」 の間主観的意味として提示する。

4,「―てしまう」の音韻縮約形「―ちゃう」

「―ちゃう」は「―てしまう」が頻繁な使用の中で音韻縮約を起こした形式である。意味面では大きな差はないものの、運用面で異なる特徴を見せるということ、音韻縮約によって一形態素化した 「-ちゃう」 は 「-てしまう」 の文法化における形態的な証拠であるということが言える。

以上、要約でした。今後、語の間主観化をテーマに研究するにあたって参考にしようと思います。

<参考文献>

Ivana, Aㆍ酒井弘(2003) 「敬語文の構造と軽動詞」 『日本言語学会第127回大会予稿集』

大場美穂子(1999) 「日本語の補助動詞 「しまう」 の意味と用法」 『日本言語学会第118回
             大会予稿集』

金田一春彦(1950) 「国語動詞の一分類」 『言語研究』15巻
        (1976) 「日本語動詞のテンスとアスペクト」 金田一春彦編 『日本語動詞のア
        スペクト』, むぎ書房, pp.27-61.

杉本武(1991) 「「てしまう」 におけるアスペクトとモダリティ」 『九州工業大学情報工学部
          紀要』, 人文ㆍ社会学編4, 九州工業大学, pp.109-126.
_____ (1992) 「「てしまう」 におけるアスペクトとモダリティ(2)」 『九州工業大学情報工学
          部紀要』, 人文ㆍ社会学編5, 九州工業大学, pp.61-73.

藤井由美(1992) 「「してしまう」 の意味」 言語学研究会編 『ことばの科学5』, むぎ書房,
            pp.17-40.

益岡隆志(1991) 『モダリティの文法』,くろしお出版.
            (2007) 『日本語モダリティ探求』,くろしお出版.

吉川武時(1971) 「現代日本語動詞のアスペクトの研究」 金田一春彦編(1976) 『日本語動
            詞のアスペクト』, むぎ書房, pp.155-327.

片仮名表記の用例と使われ方の変遷について

こんにちは、こんばんは、おはようございます。夜ゼミ3年の田上です。みなさん健康にはお気をつけください。

今回は以下の論文について要約しました。

臼木智子(2008)「雑誌の片仮名表記基準から外れる表記について」 国学院大学大学院紀要, 文学研究科 40, 265-280,

この論文で筆者は、現代日本語では片仮名表記が様々な形で文章に用いられており、外来語だけでなく、漢語や和語などの片仮名表記も多く見られることに注目しています。そこで臼木は外来語以外の片仮名表記の実態を明らかにするために雑誌を対象に調査を行い、用例数の変遷と外来語以外の片仮名表記の使われ方について考察を行っています。

片仮名表記の基準

臼木はまず片仮名表記の基準として、文化庁が示す「国語表記基準」や出版社や新聞社が独自にしてしている表記の基準を参考にしている。その基準をまとめると、外来語と外国の地名、人名は片仮名で表記するのが文化庁、新聞社のどちらの基準でも一致している。しかし擬態・擬声語などについては平仮名表記とする基準、片仮名表記とする基準が存在している。臼木は、外来語と外国の地名、人名を除いたものを「外来語以外」と呼び、外来語以外の片仮名表記についての考察を行った。またこの論文では、片仮名表記を正式名称とする人名、店名、映画や漫画の題名は外来語以外に含めていない。

調査

臼木は前述した「外来語以外」の片仮名表記の用例を集めるために、『キネマ旬報』『サンデー毎日』『週刊朝日』『婦人公論』『文芸春秋』の雑誌5誌と『CanCan』『SEVENTEEN』『non-no』『荘苑』の女性向けファッション誌4誌を対象に年代ごとにおける片仮名表記の用例調査を行った。この調査で雑誌5誌で4500文、ファッション誌4誌で2400文の用例を集めている。

※雑誌5誌は1926年から10年ごとに1冊ずつ、ファッション誌4誌は1981年から5年ごとに1冊ずつ資料としている。

結果と考察

まず雑誌5誌の用例調査の結果は1950年1960年代と全用例ののべ数は増加し、一旦は減少したものの再び増加をつづけている。しかし外来語以外の用例数は1980年代を境に減少している。この結果を受け臼木は、1980年代以降に限れば外来語以外の片仮名表記は多用、多様化しているとはいえない。むしろ用例は減少傾向にあるということが出来る。また外来語を含めた片仮名表記全体についてものべ数の増加に異なり語数が比例しなくなってきていることから、記事の中で同じ片仮名表記が繰り返し用いられていると考えられ、片仮名表記の多様化は近年収束しつつあると推測している。

次にファッション誌の調査の結果だが、全用例数、異なり語数の増減の傾向は雑誌5誌の結果と近似している結果になった。またファッション誌でも全用例ののべ数の増減に関わらず異なり語数が横ばい状態であることから雑誌5誌同様に同じ片仮名表記が繰り返し用いられる傾向にあると臼木は述べている。

片仮名表記の使われ方については、文末詞の「ね」「な」「よ」や長音、促音、撥音を片仮名表記する用例があるが、どの用例も1996年ごろから減少傾向にあり、文末詞の片仮名表記は現在では使用されない傾向にあると述べている。また表記の基準により表記法が分かれていた擬態・擬声語の片仮名表記は資料とした範囲の中では擬態語は平仮名、擬声語は片仮名で表記するなどといった厳密な書き分けは見られず、擬態語擬声語どちらにも片仮名表記を確認している。年代による用例数の変化を見ても調査した年代全ての年代で用例を確認でき、長期間に渡って片仮名での表記が続けられていることがわかった。それに加え、前述の文末詞や長音、促音等と違い減少傾向もなく、片仮名表記が多く用いられていることもわかった。

まとめ

臼木は長期間に渡って発行されている雑誌を中心に片仮名表記について用例数の変遷を見るとともに、外来語以外の片仮名表記を主とした考察を行いました。限られた範囲での調査なので、より多くの資料を用いた調査が不可欠ではあるが、今回調査対象とした範囲では1986年以降、外来語以外の片仮名表記が減少し続けているということが明らかになり、外来語を含めた片仮名表記全体についても同じ表記が繰り返されることが増え、片仮名表記の多様化は収束しつつあると臼木は結論づけています。