曖昧な「ちょっと・・・」は丁寧か?

こんにちは。あとテストが2つ残っているにもかかわらず、すっかり春休みモードになってしまっている昼ゼミ2年の鹿野です。
しっかりやり遂げてから春休みを迎えたいものです。

さて、本題ですが、私は後期のグループでも調べた曖昧な言葉に興味があるので、今回は、以下の論文を要約しました。

マスデン眞理子(2012)「曖昧な「ちょっと・・・」は丁寧か? : 言わないことと聞き手の負荷をめぐって」『熊本大学国際化推進センター紀要』第3号、pp.63-75.

A:「今日、飲みに行かない?」
B:「今日はちょっと…」

このように、「ちょっと…」という言葉は、ソフトで手軽な断りとして頻繁に日常的に使われている。
しかし、「ちょっと…」という言葉を使って理由を素直に述べないで断ると、言われた側は「遠ざけられた」と不快に感じることもある。
このことから「ちょっと…」は、使い方を考えないと対人関係を悪くする可能性もある言葉なのである。

この論文では、まず、外国人日本語学習者のための日本語初級テキスト(6冊)で「ちょっと…」がどのように教えられているのかを見ている。

これらのテキストは誘いの断り表現として
1)「ちょっと…」を全く教えないもの
2)「ちょっと…」のような曖昧な断り表現のみを教えるもの
3)「ちょっと…」は意味の理解にとどめ、あえて練習はさせないもの
の3パターンに分けられた。

この結果に対して、マスデンは断り表現の導入では、以下の3点に留意するべきだと述べている。

①「ちょっと…」に断りの表現があることを教えること。
②「ちょっと…」だけで、明確な理由や代案が述べられないと、相手のことが嫌で断っていると思われる可能性があること。
③明らかに失礼な表現(「○○は嫌いです。」「行きたくありません。」など)に対する注意を喚起すること。

一口に日本人と言っても価値観の違いなどにより「ちょっと…」の解釈は違う。それ故、安易な「ちょっと…」の導入は控えた方がいい。

次に、話し手の発話責任と聞き手の負担という視点から「ちょっと」を「思いやりの『ちょっと』」と「逃げの『ちょっと』」の使い分けについて述べている。

「ちょっと…」には、相手に配慮して、敢えて言わない「思いやりの『ちょっと』」と、自分が言いにくいことを避ける「逃げの『ちょっと』」がある。
「遠ざけられた」と感じる一因に、この「逃げの『ちょっと』」も作用しているとマスデンは考えている。
なぜなら、「ちょっと…」と断られた側は諦める以外に仕方がないからである。断る側には使い勝手がいい言葉だが、言われた側は言われっぱなしになってしまうのである。
曖昧な断りは、話し手にフェイスリスクはなく、聞き手ばかりに解釈の負担がのしかかってしまうのである。

マスデンは、「ちょっと…」を使いたくなる場面で、「思いやりの『ちょっと』」なのか「逃げの『ちょっと』」なのかを区別し、
発話の責任の所在を明らかにする話し方をし、発話の責任をとる話し方がますます重要になっていくとまとめている。

この論文を要約して、曖昧な言葉には相手を尊重して、語気を和らげるために使っているものが
相手を傷つけている可能性があるということを確認した。

今回「ちょっと…」を調べてみて、他の曖昧言葉にも興味を持った。
これからも曖昧な言葉について研究していきたい。

オノマトペ(擬音語擬態語)について

夜分遅くに失礼します。
先日ばっさりと髪を切った昼ゼミ2年の秋山です。
20センチ切った髪の毛は乾くのが早く、毎日ドライヤーをかけるのが楽しくて仕方がない今日この頃です。皆さん、大幅にイメージチェンジをした私に会える日をどうぞお楽しみにしてください。

さて、今回はこちらの論文を要約しました。

田嶋香織(2006)「オノマトペ(擬音語擬態語)について」『関西外国語大学留学生別科日本語教員論集』第16号,pp.193-205

この論文では、オノマトペについてその分類、用法、また日本語学習者のオノマトペに対する理解度について考察しています。まず、オノマトペとはどんなものなのかが説明してあり、以降は具体的な例を挙げながらオノマトペの活用などについて述べられています。以下その流れに沿ってまとめていきます。

オノマトペは大きく3つに分類される。鳴き声や人の声を描写した擬声語、擬声語以外の音を表した擬音語、そして動作、事物の様態、状態を表した擬態語である。擬態語の内、特に人の感情、心理状態を表したものを擬情語と呼ぶこともある。ここでは擬声語と擬音語をまとめて擬音語、擬情語を含む擬態語を擬態語としている。
オノマトペと呼ばれる表現は日本語には数多くあり、日本語を豊かにする一つの要因となっていると言えるだろうと筆者は考えている。
「フカフカのベッド」、「カサカサの肌がツルツルに」をオノマトペを用いずに表現すると、「弾力があってしかも肌触りのよいベッド」、「水分の不足した肌が柔らかで滑らかな肌に」となる。オノマトペを使用した後者のほうがインパクトがありわかりやすく伝わるのではないかと筆者は考えている。
オノマトペには同じ文字を繰り返さず音や様子を表すものが数多くあり、その文字の組み合わせの法則により、47もの型に分類されている。繰り返しだけではなく、促音、濁音、り音、などを入れることで様々な音や様子が表すことができるのである。これらの数あるパターンの中で一番多いのは、繰り返しの表現で、これは全オノマトペ表現の約3割を占めている。

ここからはオノマトペの活用について着目している。

①動詞として
・ニコニコする・ペコペコする・ムカムカする
⇒一部の擬音語を除き、大部分は擬態語表現から成る。

②形容詞として
・ツルツルのお肌・ピカピカの一年生・水がこぼれて床はビチョビチョだ

③副詞として
・ガタガタ言う・キラキラと輝く・ピカピカに磨く
⇒「―と」をつけて副詞となるものは「と」がなくても自然な文であるが、「―に」が付く表現は「―に」を抜くと不自然な表現になる。

④名詞として
・ドキドキが欲しい・ヌメヌメの原因
⇒「ドキドキする物事」「ヌメヌメになってしまった原因」の後半部分を省略し「ドキドキ」「ヌメヌメ」の部分だけで全てを表す名詞的な用法。
・ノロノロ運転・カンカン照り
⇒他の名詞と結びついた複合名詞としての新しい名詞

次に、オノマトペの使用例が挙げられている。
まずは、幼児に対してである。大人が幼い子どもに話しかけるとき、「犬が来た」の代わりに「ワンワンが来た」、「しっかり噛みなさい。」の代わりに「よくクチュクチュしなさい」と、子供がわかりやすい様に言い換えることがある。大人がこれらを使うことにより子どもたち自身も真似して使うようになる。このことから一般的にはオノマトペは幼児語として捉えられ、幼く子供っぽい表現だというイメージがあるのではないかと筆者は考えている。
次の使用例として商品や会社名、漫画などの身近なものが挙げられている。
・ほっかほか亭・プッチンプリン
日本語話者はオノマトペを用いた会社名からその会社がどのような商品またはサービスを提供するかを容易に想像し、またオノマトペを用いた商品名、宣伝文句、キャッチフレーズからはその商品がどういった性質のものであるのかを瞬時に把握する。買い手に自社をアピールするための手段としてオノマトペ表現は便利な表現方法である。
また、インパクトを求め視覚に訴える漫画では、このオノマトペがあらゆる場面で使われ、その文字の大きさや配置の工夫も加わり、あたかも映画やテレビを見ているかの様な臨場感を出す効果を与えているようであると筆者は述べている。

このようにオノマトペは様々な場面で使用されているが、教材ではあまりとりあげられていない。その理由として、①オノマトペが幼児語だと捉えられ語学の学習として学ぶに適当ではない語彙だと考えられているから。②擬音語は学び記憶する表現だと捉えられていないから。であると筆者は考えている。

以上から筆者は、オノマトペ表現は簡潔でインパクトがあり、目の前にその音、様態が体験できるかのような描写力であるが、日本語学習者にとってはなかなか学習する機会の少ない表現であると考えている。

小説に見られる女性語の文末表現

こんにちは。夜ゼミ2年の廣瀬です。成人式で長野の実家に帰り、東京に戻ってきて、東京の暖かさを感じています。成人式では母の振り袖を着ることができ、良い思い出になりました。

今回は以下の論文を要約しました。

川上恭子(2006)「小説に見られる女性語の文末詞」そのだ語文(5),PP.25-38

  川上は、近年あまり使われなくなってきたと言われている、いわゆる「女性語」について川端康成の小説『雪国』の中での女性のことばを用いて検証している。この『雪国』は昭和12年に発表されたものである。

 川上は、『雪国』の主人公「駒子」の会話で用いられる女性専用表現のあり方を観察し、次の3点に注目して具体的に考察している。「島村」というのは中年の男性である。

  ①「駒子」と「島村」との会話では、両者はどのような会話のスタイルで話しているのか。

 ②「駒子」は、男女共用、あるいは男性的な文末表現を使うことがあるのか。あるとすればそれはどんな場合か。また「駒子」の女性語の使い方には、何か特徴が見られるか。

 ③「駒子」は、どのような種類の女性専用の文末表現を多く使用しているのか。

 まず①である。「駒子」と「島村」の会話の例を挙げているが、ここでは「駒子」「島村」どちらの会話であるか明記はされていないが、その文末表現から特定することができるとしている。

  A「どうして帰るんだ。」

 B「帰らない。夜が明けるまでここにいる。」

 A「つまらん、意地悪するなよ。」

 B「意地悪なんかしない。意地悪なんかしやしない。」

                                (会話例一部抜粋)

「駒子」の発言は、女性的な文末表現を多用するBの方であり、二人の言葉遣いにその性差ははっきり現れていると述べている。ここで挙げられている会話例の中で、駒子が用いた文末表現は、「わ」「の」「なさい」の3種類の形式であった。なかでも「わ」「の」は女性専用の文末表現であるとされることを指摘している。よって、ここでの「駒子」の発話は、女性的な文末表現が基調となっていることを確認している。次に「島村」は、終助詞のない言い切り表現を用いたり、「どうしたんだ」のように「のだ」で終止する不定語疑問文を使って強い詰問調の表現をするなど、直接的で男性的な表現をしているとまとめている。

 続いて②である。筆者は、「駒子」が状況によってどのように話し言葉のスタイルを変えているかを観察し、「駒子」の女性専用の話し言葉の二つのスタイルを提示している。その一つは、先に挙げた会話例で使われたような女性専用の文末表現を使うタイプ、もう一つは「ですわ」「ますのよ」のように、「です・ます」という丁寧体に女性専用の文末表現を使うタイプである。この使い分けは、話し手同士の間柄の親密度によると筆者は述べている。単なる話し相手の場合は、丁寧体の後に女性専用の文末表現を用いているが、話し手の間柄が親密になると、やがて丁寧体ではない一般的な女性の文末表現を使うようになるとしている。 また、「駒子」が常に女性語を使っているわけではなく、男性的といえる表現を使っていることもあると言及している。「駒子」が男性的な表現を使うのは主に酒に酔ったときで、酔いが醒めてくると、再び女性的な言葉遣いに戻っていくようである。

  最後に、③では、「駒子」の使う女性専用の文末表現の特徴について観察している。筆者は、尾崎(1999)の女性専用の文末表現の分類をもとに、「駒子」の女性専用の文末形式を整理した。

 (1) 「わ」の有無に関わらず、全体を通して「よね」の形式は使われていない。

 (2) 「だわ」「んだわ」が用いられる際は、「だわ」で言い切る形が用いられ、「よ」「ね」などの助詞を下接した形式は見られない。

 (3) 最も多いのは、「動詞/形容詞」に続く「わ」の形式で、「わよ」・「わね」の使用はかなり少ない。

 (4) 「だわ」「んだわ」のようなダワ形式が用いられることは少なく、ダワを介さずに「よ」「ね」「ゼロ(助詞がつかない)」「のよ」「のね」「の」の形式が使われる傾向にある。

 しかし、「よね」が使われていないことに対しては、小説全体を通して「よね」が使われていないことから、はっきりした結論を出しておらず、今後の課題としている。また「だわ」「んだわ」に終助詞「よ」「ね」がつくものが見られないことに関しても結論は見いだせないと述べている。

 結論として、この小説では「駒子」は基本的に女性語を使用しているとした。しかし、「駒子」が酒に酔った時などは、男女共用・男性的な会話のスタイルを使うこともあった。また「駒子」が使用する女性的な会話スタイルには、丁寧体を含む女性語の使用もあり、これは相手との心的距離によるものだとしていた。小説『雪国』の主人公「駒子」の会話スタイルを観察した上で、昭和初期の女性語の使用について言及している。昭和初期の女性語の使用者においても、生活の中で常に女性語を使っていたわけではなく、相手との距離を測りながら、さまざまに表現し分ける道具として、女性専用の文末表現を使い分けていたのだろう、と結論づけている。

 

敬語のイメージの世代差―大学生の「です・ます」への意識を中心に―

日付が変わってしまいました。期限内に提出出来ず、申し訳ございません。

こんばんは。昼ゼミ3年の早川美華です。
相変わらず寒いですね。通学に使っている路線の沿線に、一週間ほど前に降った雪が未だに残っている場所があって驚きました。
我が家周辺では次の日にはもう雪がなかったんですが……私が知らない間にまた降雪してたりするんでしょうか?

さて、今回はこちらの論文を要約しました。

熊谷智子(2011)「敬語のイメージの世代差―大学生の「です・ます」への意識を中心に―」『待遇コミュニケーション研究』 pp.17-32

まずこの論文は熊谷(2007)でコミュニケーション言語に関する面接調査を行った際のことを引用している。
ある女子大学生が自分の母親からの携帯メールについて「お母さん、最初、敬語しか使えなかったんですよ」と述べた。
そのときに女子大学生が例として挙げた文面が「ご飯、いるんですか?」「わかりました」といったものである。つまり、女子大生は「です・ます」の使用を指して「敬語」と言った、というものだ。
筆者はこれに対し、確かに「です・ます」は丁寧語であり、敬語である。しかし、「ご飯、いるんですか?」を敬語の発話と呼ぶ感覚は、果たして全ての年齢層に共通であろうか。という問いを持った。
この問いを出発点とし、熊谷(2011)では大学生を中心とする若年層に近年見られる「です・ます」への意識に着目し、それをもとに、敬語のイメージあるいは同じ言語形式に対する待遇度意識の世代差を生む要因について考察している。

1.調査
国立国語研究所が1953年、1972年、2008年の3回にわたり、愛知県岡崎市において行っている敬語と敬語意識に関する調査、それに使用されている例文と同じものを用いて筆者が2009年と2010年に行った東京の大学生に対する調査、また文化庁の「国語に関する世論調査」の結果の3つの調査をもとに考察している。
まず、国立国語研究所が使用した例文は以下のものである。

(1)あの人は駅へ行かれた
(2)一つお持ち下さい
(3)きょうはお野菜が安い
(4)ここにあります
(5)これはいただいたものだ
(6)知事のお車はもう駅を出発した

これらの例文から、どれが敬語であるか選択する調査である。
一方、「国語に関する世論調査」では、

(7)私は野菜を食べます
(8)お茶を飲みましょう

というような10個の例文をあげ、それが敬語であるかどうかを問う調査である。

第一次~第三次岡崎調査の結果では、敬語の種類によって指摘率やその経年的な変化に違いがあった。「行かれる」「お持ち下さい」「いただいた」などの尊敬や謙譲の形式は調査ごとに指摘率が伸びる傾向にあった一方、尊敬語や美化語の「お」は指摘率が下がっていた。
「です・ます」の敬語とされる率は岡崎調査でも「世論調査」でも低く、この指摘率の低さは「です・ます」がそれだけ文末形式として日常的に広く用いられ、敬語としての印象が非常に希薄になっている可能性を強く示唆している、と熊谷(2011)は述べている。

2.大学生の「敬語」への意識
以前筆者が参加した研究で、秋田、東京、大阪の大学生計88人を対象として面接調査を行い、日頃のことばの使い分けについて話を聞いた際の事例を取り上げ、論じている。

前述した母親の携帯メールについての発言は、「ご飯、いるんですか?」を「敬語」と言及していることから、「です・ます」のみの(尊敬語や謙譲語のない)形式を敬語として認識していることを示す事例であった。大学生への面接調査で得られた発言の中には、「です・ます」の発話形式を「敬語」で言い換える、あるいはその逆のパターンが少なからず見られた。彼らにとって、敬語というときにはまず、尊敬語や謙譲語よりも「です・ます」使用を典型的にイメージしていたと熊谷()は考えている。
しかし、だからといって、「です・ます」を敬語のすべてだと思っているわけではない。さらに「丁寧な」敬語形式との対比も意識しているのである。

(1)やっぱり、塾での保護者の対応ですね。<中略>その、丁寧語じゃなしに、尊敬語であれ、謙譲語であれ、ちょっと、もう1個レベルの上がったやつを使おうと(うん、)しますね。

こういった発言からうかがえるのは、敬語の中にも異なるレベルがあり、「です・ます」は尊敬語や謙譲語や「ございます」などと比較するとレベルの低い敬語であるという認識である。このような敬語の種類間のレベル差に関する意識は中高年層も同じと考えられる。
しかし、大学生はまだ社会人ほどに日常生活の中で多様な敬語形式と接する機会がなく、多くの大学生にとっての敬語は「丁寧でない形=タメ口」とそれに対する「丁寧な形=です・ます」がレパートリーの主たる構成要素となっているようだと熊谷(2011)は述べる。

3.考察
実際に用いることばにおいて「です・ます」が丁寧さの代表とも言うべき話者にとっては、「です・ます」を敬語とするのは自然なことである。また、さらに丁寧な形式として尊敬語や謙譲語、「ございます」などもレパートリーに含む社会人の年齢層にとっては、「です・ます」は相対的に丁寧さの印象が低くなるはずである。そして、「丁寧な形=尊敬語、謙譲語、ございます」と「くだけた/ぞんざいな形=タメ口(普通体)」の中間にあって、「です・ます」のみを使用する形式が「普通の(特に丁寧でもくだけてもいない)形」と位置づけられているとすれば、中高年層にとって「です・ます」が空気のように無色透明な、とりたてて敬語とはイメージされにくい形式であることも理解できる。こうしたことから熊谷(2011)は、若年層は「です・ます」を敬語と指摘する率が高く、中高年層では低いという差が生まれてきていると述べている。

4.おわりに
熊谷(2011)は「です・ます」を「特に丁寧でもくだけてもいない形」とし、「丁寧な形」と「くだけた形」の中間に存在するものだとしました。
敬語という広いくくりの中にも丁寧さの階級があり、場面に応じて使い分けているのです。
これは、私の研究している「っす」にも繋がる部分があるのではないかと考えました。
「特に丁寧でもくだけてもいない形」であったはずの「です・ます」が次第に丁寧で堅苦しい表現であるように思われるようになり、「特に丁寧でもくだけてもいない形」と「くだけた形」の中間に存在する形で「っす」という表現が使われるようになったと思われます。
では、その「です・ます」に対する意識の変容はどうして起こったのかということにも興味を持ちました。

参考文献:熊谷智子(2007)「『敬語』をどうとらえるか」『社会言語科学会第20回大会発表論文集』 pp.288-289

「赤のN」という表現の成立条件について

こんにちは。昼ゼミの石井です。寒い日が続いたためか体調を崩してしまい、自己管理の大切さを痛感しています。

さて今回は、こちらの論文を要約しました。

木下りか(2005)「色彩を表す名詞の連体修飾用法 : 「赤のN」と「赤いN」」『大手前大学人文科学部論集』6号,p.p.29-39

この論文で筆者は、色彩名詞と色彩形容詞の関係を、「赤の/赤い」に絞って取り上げ、「赤のN」という表現を使用する上での条件を考察しています。

まず先行研究として、沢田(1992)を紹介しています。沢田の論文では、名詞修飾の機能を「指定」だとしています。たとえば「赤の太陽」という表現は、様々な色の複数個の太陽が存在し、その中から特定の太陽を選択するという状況を必要とする、ということです。しかし、太陽はふつう赤いものしか存在しないため、「赤の太陽」という表現は不自然だと述べています。

しかし筆者は、名詞修飾の機能である「指定」は、様々な色のNの中から特定のNを選んで示すという意味ではなく、様々な色の中から特定の「赤」という色を選んで示す、という機能だと述べています。

筆者が指摘している、「赤のN」という表現が成立するための条件を、例文を示しながら紹介します。

(1)*東の空に赤の太陽が昇ると、一日が始まる。

(2) その衣装は白地で作られていましたが、表には赤の太陽の絵、後には緑の太陽の絵がありました。

(3) ラベルがオレンジ地に赤の太陽を象ったいかにも太陽の国メキシコのビールといった感じである。

これらは全て「赤い太陽」という表現を使用した文ですが、(1)のみ不適格な表現としています。(1)の文に出てくる太陽は自然物であり、赤以外の色が存在しえないため、様々な色の中から特定の「赤」を選ぶという機能と矛盾してしまうからです。(2),(3)の太陽は絵、つまり人工的に着色されたものであるため、文中に明記されていなくても、別の色の同一物の存在が想像されるため、「赤のN」が使用できる、と述べています。

また、Nが自然物であっても、それが典型的な赤色をしていて、なおかつ文中に対比されるような別の色が登場する場合は、「赤のN」と言えるともしています。

(3)*東の空に赤の太陽が昇ると、一日が始まる。((1)の再掲)

(4)*例えば「赤のルビー=情熱」というように1つの宝石から感じ取るイメージや印象は不思議と皆共通し、その為か宝石言葉も各国でほとんど違いがありません。

(5) 青のサファイアと赤のルビー。

太陽は、赤とよく表現されますが、夕焼けなど特別な場合を除き、厳密には赤とは言いがたい色をしています。しかし、ルビーは典型的な赤色をした自然物で、赤色以外のものは存在しません。また、同じ「赤のルビー」でも(4)と(5)で許容度が違うのは、(4)には比較対象である「青のサファイア」があるのに対し、(5)には比較対象がないからだとも指摘しています。

つまり、以上のことをまとめると、「赤のN」が成立するのは、Nが人工物である場合と、Nは自然物であるが、典型的な赤色をしており、かつ文中に比較対象が明記されている場合の二種類がある、ということになる、と筆者は述べています。

参考文献:木下りか(2005)「色彩を表す名詞の連体修飾用法 : 「赤のN」と「赤いN」」『大手前大学人文科学部論集』6号,p.p.29-39

終助詞「よ」の機能

こんにちは。夜ゼミ3年の阿部千尋です。先週成人式を迎えられた2年生のみなさんおめでとうございます!また今夜も雪が降るとのことですが、風邪をひかないように気をつけましょう!

さて、本題です。私は、接続助詞「けど」の終助詞化について調査を進めておりますが、今回は少し視点を変えて、「けど」と共起する終助詞「よ」について、曺(2000)『終助詞「よ」の機能』を要約しました。

曺(2000)は、終助詞「よ」の機能を明らかにするために、文レベルと談話レベルにおいて考察を行うものです。終助詞「よ」は、しばしば終助詞「ね」と対比されながら考察されるものが多いですが、その大半は文レベルのもので談話レベルでの考察はなく、また、必ずしも「ね」と同じ観点で対比されるものではないと指摘します。そこで、先行研究の問題点を明らかにしながら文レベルでの終助詞「よ」の本質的機能を見直し、談話レベルでの考察へと進みます。

【先行研究の問題点検討】

大曽(1986)

話し手と聞き手の「情報や判断の不一致」を前提に以下の3つの用法を挙げる

①話し手が相手は明らかに自分と違う判断を下していると知って、それに反論する場合

②聞き手が当然知っているはずなのに忘れているようなことを話し手が指摘し、思い出させるような場合

③聞き手が気がついていないこと、知らないことを話し手が知らせる価値があると判断し、伝える場合

しかし、①~③では以下の(1)について説明がつきません。

(1)A:今夜一杯やりませんか

B:a.いいですね。私もそう思っていました。

b.いいですよ。私もそう思っていました。

(1)は「私もそう思っていました」という発話から察するに、BもAと同様な考えをもっていると考えられ、「情報や判断の不一致」には適していません。これに対し、白川(1992,1993)では終助詞「よ」の機能を「その発話が確実に聞き手の耳に入るように聞き手の注意を喚起する」とし、話し手の伝達態度に関連付けて捉えました。曺(2000)は、白川(1992,1993)の考え方を取り入れ、終助詞「よ」の機能を「話し手の聞き手への呼びかけ」と捉えて論じています。

【文レベルにおける終助詞「よ」の意味・機能】

終助詞「よ」=本質的な意味(話し手の聞き手への呼びかけ)+表現効果(念押し・主張etc)

終助詞「よ」の本質的な機能は<聞き手><述べる事柄>に関わりなく、話し手の発話態度を主に表わすものであって、「よ」が無いことで発話意図が変化したり、発話が成り立たないということはありません。発話状況によって様々な表現効果が表れるのです。

(2)(友達に無理なことを頼まれて)「僕にそんなことできるかよ。」

(2)のような反問を表わす場合にも「よ」は用いられますが、不可欠な要素ではありません。しかし、終助詞「ね」の場合は、相手の情報や知識などが想定されるため、「ね」がなくなると反問として機能しなくなり、話し手の表現意図が変わってしまうことがあります。終助詞「よ」は、その有無によりニュアンスの差はありますが、文の意味内容に変化はありません。

(3)(落し物をしたことに気づいていない主婦に後ろから声をかける)「もしもし、何かものを落とされましたよ。

しかし、(3)の場合「よ」は不可欠な要素となります。これは、会話の冒頭部の発話であることがポイントになります。これから会話が始まるというところでいきなり話し手の判断や情報を述べることはできないということです。ゆえに、終助詞「よ」が発話においてどのような意味機能をもつか、談話レベルでの考察が必要になります。

【談話における終助詞「よ」の機能】

①会話促進

ⅰ)誘導機能

(4)今晩わ。そうだ、高倉さんとこ毎日でしたよね。どうです、ここらでサンケイ?新聞なんてどこでも同じですよ。

ⅱ)予告機能

(5)あそこ、一人じゃ絶対行けませんよ。遠いし、道曲がりくねるし、夜まで着かないですよ。

②ポライトネス

(6)無理言わないでくださいよ。

会話促進とは、聞き手の注意を向けさせるための機能であり、誘導機能と予告機能に分かれます。(4)は、あまり乗り気でない聞き手に自分の話を聞いてもらうための誘導として「よ」を用いています。(5)のような「よ」は、聞き手の知らない情報をもちこむ発話、特に前後で倒置が起こる際に用いられます。その機能は話し手の提示する情報に理由や保証の発話を続けることを予告するものです。(6)のポライトネスの例は、対人関係の調節として用いられるものです。言い切ってしまうと断定となるところ、「よ」を付けることで懇願を表しています。

【終助詞「よ」の機能】

以上をまとめると、文レベルにおいて終助詞「よ」の本質は「話し手の聞き手への呼びかけ」にあり、二次的に念押し・主張・強調・反問などの表現効果を生じるものであります。談話レベルにおいては、聞き手に注意喚起しながら会話を促進する機能として「誘導機能」「予告機能」といった談話形成のストラテジーと、「ポライトネス機能」といった対人関係のストラテジーがあるといえます。

長くなってしまい、申し訳ありません。終助詞「よ」と「ね」は対比して捉えられていますが、対比するだけでなく一つ一つを見ていくことでわかることもあるのですね。曺(2000)は、「けど」の意味が共起する語の影響を受けているものであるか、「けど」自体が有する意味かを見ていくうえで役に立てばよいなと思います。

参考文献

曺 再京 2000.「終助詞「よ」の機能」言語科学論集4 pp.1-12

ポライトネスから見る若者ことばの機能

今年のセンター試験の数ⅠAが死ぬほど難しいと巷で話題ですが、どこがどう難しいのかすら分からなかった文系脳の夜ゼミ2年の小川です。文系バンザイ。スピンアトップ・スピンスピン。

さて、今回要約したのは村田和代の「ポライトネスから見る若者ことばの機能―龍谷大学キャンパス語の分析を通して―」『龍谷大学国際センター研究年報』 4, pp.25-37です。

この論文は、「龍谷大学キャンパス語」の分析を通して、若者ことばの機能をポライトネスの観点から考察することが目的。語の収集には米川(1996:13)の若者ことばの分類を参考にしている。その分類とは、若者ことばは①キャンパスことば・学生語、②OLことば、③若い男性社会人のことばの3つに分けられるとするものだ。「キャンパスことば」とは、一般に大学生がキャンパス内で使用することばで、「学生語」とは、それよりも広い概念で、キャンパス外や学校に関係すること以外のものも指す。本稿で収集した語はそれぞれ両方に及ぶので、「龍谷大学キャンパス語」という名称を使用する。

はじめに収集した語の造語法に見られる特徴を米川(1996)、中東(2002)を参考に分類する。

①省略→語句の一部を省略したもの。一番数が多い。上略、中略、下略、複合語の各要素の後半部分の省略の4つのパターンがある。 (例)英文、日文、卒論など

②合成→語句を補うと元の意味が復元できるもの。 (例)合コン、自主休講、徹マンなど

③名詞の動詞化→名詞等の一部に「る」を付加し、「○○る」と動詞化したもの。全て3拍のラ行五段活用だった。 (例)拒否る、コピる、ブチるなど

④英語を取り入れた造語→英単語をそのまま使うもの、語の一部に英単語を用いるもの、英単語の一部を使った造語、英語の接尾辞を単語に付加したものなどがある。 (例)じもティー、チャイ語、フル単など

⑤語呂合わせ→頭文字を組み合わせたり、オノマトペ等で語呂合わせした造語。 (例)シャカシャカ、チャリ、連チャンなど

⑥イメージからの語→既存の語の持つイメージを利用した語。 (例)大宮マジック、緑の監獄、祇園精舎など

⑦元の意味とは異なる意味で用いられる語→マイナスの意味を持つ語に、元々はプラスのイメージのある語が使用されている場合が多い (例)エース、キックする、ブッチするなど

1~7には、その語を理解するためにその語の元の語やその語の意味を復元するのに十分な既知知識が必要だということが共通している。そのため、話し手は聞き手が共通の既存知識を有していると考える際に、このような語を使用すると考えられる。

次にそれぞれの語が表す対象による分類を中東(2002)を参考に行う。

①龍谷大学に直接関係する語→全体の64%を占める。大部分が龍谷大学の独自の言葉であり、米川(1996)のキャンパスことばにあたる。これらの語を理解するには、龍谷大学について様々な既存知識を必要とする。 (例)大宮マジック、祇園精舎、ラブスペースなど

②日常生活等に関係する語→一般的に他大学の学生も利用しているような語、つまり、米川(1996)の学生語にあたる。どの語も日常生活に深く関わるもの・人・概念等を表す。 (例)オール、コピカ、プリンなど

1と2に共通しているのは、やはり聞き手と話し手が知識を共有しているという前提で、使用、理解されているということである。

以上をまとめると、造語法の特徴は、省略が多いこと、イメージからの語や語呂合わせの語にユーモアな表現が見られる。マイナスイメージな語(概念)をプラスイメージな語で表すなどが挙げられる。これらの特徴は、会話を面白くユーモラスにしたり、発話内容を和らげたりする機能を持っている。またどの造語法に関係なく、話し手と聞き手に共通する既存知識が必要になる。意味対象からの特徴は、学生生活に密接に関わるもの、人、概念等を表現することであり、キャンパス語を使用することは相手との会話を楽しみ、連帯感を得たり、親近感を分かち合う機能があると考えられる。

これらの機能をポライトネス理論から考えると、全てポジティブ・ポライトネスだと言える。つまり、話し手がこのようなキャンパス語を用いる目的は、聞き手の対人関係上の基本的欲求(ポジティブ・フェイス)に配慮していることを表すことで、円滑な対人関係を作り上げ、それを維持していくことにあると考えられる。

会話に不可欠な「言い淀み」機能の一考察

こんばんは。昼ゼミ2年の相川です。
初春とは名ばかりで、まだまだ寒い日が続いていますが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。体調など崩さぬよう、ご自愛ください。

ちなみに、私は天気のいい日に成人式を迎えることができました。
14日の方は大変だったのではないかと思います。実家は千葉県ですが、私のところは雪が降っていなかったので、東京に残る雪を見て、不謹慎かもしれませんが、「雪だるま作りたかったなー・・・」なんて思ってたりしてます。

では、本題に参ります。私は前回の課題同様、言い淀みに興味があるので、以下の論文を要約しました。

***

池田佳子(2008) 「会話に不可欠な「言い淀み」機能の一考察」 『言語文化研究叢書 v.7、2008、p.1-13

 言い淀みとは、「アノー」「エー」「ソノー」などのことであり、広辞苑によると「ことばがすらすらと出ず、とどこおること」と解説されている。言い淀みは「無意味で排除されるべきもの」と考えられるのが一般的であるが、池田はインターアクションの言語学という分野から、言い淀みの「魅力」を再考している。

・言い淀みの機能

 池田は、実際の自然談話データの分析を通して、「言い淀み」がどのようにコミュニケーションの一端をなしているのか分析している。

①デリケートな発言内容を和らげるために発される「言い淀み」
 「徹子の部屋」で黒柳徹子と内田有紀が対話をしている場面である。

 例1、
 内田:アノーマー、うちの母は、・・・色々ありましたね。
 黒柳:ねぇ。でもお小さい時は、ソノ、お、ソノ、お別れになったお父様とお母様とが、六本木で。

 ここでは、私生活に関わるデリケートなトピック(母親の離婚)であるため、言い淀み「ソノ」を何度か挿入し、さらに言い始めで自己修正「お、(ソノ)、お別れになった」をしながらやっと発話を産出するという形を取っている。
話者がこのように言い淀むことで、聞き手にその気遣い・配慮の意図が伝わる。

②類似対話臨場感を作り出す「ですね」
 言い淀み語の中には終助詞と共起してある一種の固まり表現が成立しているものがあり、「ですね」や「そうですね」がそれにあたる。
 例文は、政治家の経験のある都議会議員立候補者の演説である。

 例2、
 西:町会委員会、あるいは、
   様々なボランティアの人たちがですね
   自分たちの町は自分たちで守るんだ。
   そう言うことで献身的な
   活動をしてきた成果がですね
   大きな地域の安全安心が広がる原因を作ってきているわけです。

 3行目の引用的発話の直前に「ですね」が挿入されている。5行目にも「ですね」があり、その直後に、5行目までに提示された名詞句を受けての述部が続いている。つまり、主語部と述部で区切る役目として「ですね」が使われている。

 「ですね」に組み込まれている終助詞「ね」は、聞き手との相互行為(インターアクション)を強く意識し、会話の参与者の参加を促す相互行為助詞である。「ですね」を使うことで、演説者は聴衆に対し「私はあなた方を強く意識していて積極的にアピールしていますよ」と暗に伝えることができるのではないか、と池田は見ている。

③発話行為を執行する上で不可欠な「言い淀み」
 言い淀みは、依頼、褒め、謝罪などさまざまな発話行為と共によく観察される。

 例3、
 A:それ、ちょっと、協力してもらえない?
 B:エートネ、おれ、ちょっとねー、明日ぐらいからしばらくいないんだわ。

 Aの依頼が既に行われているので、Bの返答が産出されるべきである。すぐにその依頼を受ける回答が来る場合は言い淀みと共起することは少ない。聞き手が望む行為以外の返答を行う際に、これらの言い淀みを先に行い、相手に返答の方向(断り)を指標している。つまり、非嗜好的返答の示唆をする談話標識として、言い淀みが機能している。

 例4、
 A:それで、アノ、時間がね、15分くらいで。
 B:はいはい。
 A:アノネソノー、謝礼、アノ、お礼がもらえるらしくて。
 B:うん。
 A:で、それが、500円の図書券なんだって。

 1行目では、情報提示の前置きとして言い淀みが使用されており、受け手は次に来る重要な内容への心の準備が出来る。
 5行目の具体的な内容を言う前に、3行目では一度引っ込め、遅延させて提示している。デリケートな情報を言い淀む形でほのめかし、うまく受け手に伝達したのではないか、と池田は見ている。

④発話の進行過程を修正する言い淀み
 ある大学で日本語教師をしていたRが、担当した授業風景をビデオに撮って、それをEが見ている状況での会話である。

 例5、
 R:だけどドイツ人の子だけいつもボタンダウンのシャツ着て
 K:黒人の子もきっちりしてる。
 R:あ!黒人の子も結構きっちりしてたね、そう言えば。
   あ、アレハネ、アノ、ソレヲ、やんなきゃいけない、ロールプレイの日だったから。

 Rが言及したドイツ人の学生に加え、黒人の子もフォーマルな格好であることに気付いたKがそれを指摘する。Rは、Kの指摘通りではなく、実は特別な日であったのだという「不同意の意見表示」を行う前に、言い淀みをしている。一度同意した後に軌道修正を行うのはポライトネスの視点から見てもかなりの負担であるが、この言い淀みを行うことで軌道修正がうまくなされている。

⑤発言権を主張する言い淀み政治討論談話
 「サンデープロジェクト」という番組での討論場面である。Kは自民党衆議院議員、Tは田原総一郎で司会である。

 例6、
 K:それはないです[ね、それは]
 T:       [医者や  、] 医者や

   薬屋[や、それらを守るために]
 K:   [負担をきちんと]
 T:ちょっと待って
 K:         はい、はい
 T:あなたがいるから、言ってんの、前で。

 2行目で田原は「医者や」と繰り返している。1行目でKは田原の指摘を受け、まだ発話の途中であるTのターンに強引に割り込んで発話を始めている。発話を妨害されてはならない場所でそれが起こってしまったため、TはKが割り込んできた重なり部分を、再度クリアな状態で同じ発話を繰り返している。
 田原の言い淀みは、Kのターン略奪行為に対する防御策となり、ターン維持に貢献している。

 池田は、以上のような言い淀みの機能を、会話に不可欠と考えている。そこで、その言い淀みに関する理解をどのように日本語教育へ応用していくべきかを考えたい、としている。断りを示唆する談話標識としての言い淀みなどは、そのタイミング、音質、会話構造の理解などすべて理解し処理しなければ駆使出来ないため、学習者には大変なスキルが必要とも述べている。

***

 論文の要約は以上です。以下は今後の研究への指針のメモですので、論文要約の字数には含めません。

例3の「ちょっと」も言い淀みの一種に見えるのだが、この論文では言い淀みとされていなかったので、他の論文とも比較して、具体的にどの表現が「言い淀み」として研究されているのか調べたいです。

同じく例3で、非嗜好的返答でなくても、例えば「好きだよ」と言われた時に、答えがイエスでもすぐに返事をしない場合はあるのではないかと思いました。「えっと・・・」と溜めた方が、聞き手の注目を集め、その後に続く言葉により重みが出るとも思います。大事なことは即答出来ないのではないかとも思います。「結婚しよう」と言われて即答で「いいよ」と言ったら、文面だけ見たら冗談にも聞こえるほど軽い会話になってしまいます。ですので、言い淀みの後に非嗜好的返答が来ない「例外」についても調べたいです。手元にあった本で、以下のような会話シーンがあります。

 A:なんというか、私がここに居るとご迷惑かな、と思いまして・・・。
 B:いっ・・・いやっ、そんなことは全くないというか・・・。
   僕の方こそ、ここに居ると邪魔かなと・・・っ。
 A:え・・・そんなことは、全くありません。

 最後の「え」は言い淀みと取れるはずですが、後続の文脈は、聞き手にとって望まない返答ではありません。日本人の会話において、言い淀み同様、「間」はとても重要であると感じました。自分自身も小説の創作をする際、会話シーンの「間」をものすごく大事にしているので、「間」と言い淀みの関係も調べてられるのか、資料を探そうと思います。

③に例4があるが、これは①の「デリケートな内容」と言えると思います。一つの言い淀みが一つの意味合いとも限らないので、複数の意味を持つ言い淀みについても例を集めたいです。

②で、「ですね」や「そうですね」は類似対話臨場感を作り出す役割があると書かれていますが、「そうですね」の例がありませんでした。「そうですね」だと、聞き手との対話臨場感と言うよりは、話者が何を言うか頭の中で一人で勝手に整理しているという印象を受けます。ですので、「そうですね」が臨場感を作り出している例を探したいです。

②は、政治家としての経験の有無よりは、話者のトークスキルの問題と言える気がします。新人でも、公の場で話すことに慣れていれば使いそうです。テレビタレントが「~ですね、・・・」と発言している場面をよく見るので、具体的にどういう人が多く使うのか等、データがあれば使いたいし、なければ集めたいです。

⑤は、「たけしのTVタックル」でもよく見かける光景なので、納得がいきました。今まであれは、他の人の言うことは興味がなくて、自分の話したいことだけを好き勝手に口にしているように見えていたので、そういう分析の仕方があったのかと思いました。でも、「ターン略奪行為に対する防御策で、ターン維持に貢献している」というよりは、「自分の発言にみんなを注目させたい、カメラに映してもらいたい」というエゴの表れという意味合いの方が強く、むしろ他人のターン略奪のための言い淀みとも言えるのではないかと感じます。ターン防衛できる確率と、譲ってもらえずターンを略奪されてしまう確率とどちらが高いのか統計を取ってみても面白いかもしれません。いずれにせよ、「今オレが言ってるんだからみんな聞けよ!」という意味の言い直しに見えて仕方がないので、言い淀みの一種として捉える「言い直し」ではなく、「言い直し」そのものの機能についても興味が沸きました。

整理のためにやたらと今後の指針を上げた気がしますが、とりあえず資料を探してみて、どれに重きを置くか考えていきたいです。

長々と失礼いたしました。

発話末の「みたいな」の表現方法

こんにちは。最近は就活で、今まであまり使用しなかった地下鉄、丸ノ内線などに乗るのですが、丸の内線から銀座線の乗り換えでいつも迷い、上手く乗り換えが出来なく苦労しています。また、部活では今週から6時開始になって、今までより30分起きるのが早くなり本気でインカレ優勝に向けて活動し始めた水泳部の3年古瀬です。

さて、話は変わりますが、以下、読んだ論文について簡潔に報告したいと思います。

星野祐子 「人間文化創成科学論」『コミュニケーションストラテジーとしての引用表現―発話末の「みたいな」の表現方法―』第11巻2008 133‐142

引用機能を持つ発話末の一つとして「みたいな」に注目し、話し言葉に特徴的な引用マーカーであり、若年層の会話にみられるものとされる、大学生の話し合いの場面を用い、「みたいな」を発話末におく発話が円滑なコミュニケーションを保つためにも役立つことを示している。

① 発話末の「みたいな」に導かれる内容例

(1)内容がもともと「話し手」に属する場合
Y「個性あふれる教授」
 K「ちがう、だからこれは
 Y「うん。」
 K「キャッチコピーの下でしょ、したっていうかさ、だから紹介することの」
 Y「ああ、うん」
 K「一番大本がこれで」
 Y「うん。で、その次にこう枝葉としてみたいな」

ここでは、Kが試みた第一の説明としてとらえられるが、Yの理解度が低くかったので新たな説明を試みるにあたって「みたいな」を補足的に用いた。

(2)内容がもともと「聞き手」に属する場合
S「初心者用【学科名】」
 Y「初心者用【学科名】?」「できないよ」
 S「そっちで攻めるならなんか、単位取りやすいとか。入ってもそんなそんな厳しいことありませんよみたいな」
 Y「なるほどね~」

ここでは、「みたいな」が括る範囲を相手の意識を伺うことのできる発話の音調的特徴から「入ってもそんな厳しいことありませんよ」というのみ限定した。あたかも眼前にいるような発話スタイルを採ることで、考案すべき内容のサンプルを直感的に理解できるようになった。

(3)内容がもともと「第3者」に属する場合
C「【キャッチコピー】」
 T「【だってボン】ボンってやった後にビデオが流れるとしたらは?」
 C「ああいいかも」
 T「ちょっと見てみようかなみたいな」

ここでは、キャッチコピーの後に大学紹介のビデオが流れると想定した上で評価し、実際に見るであろう受験生の立場になって評価を与えることで「みたいな」が現れている。

このように引用マーカーである以上、「みたいな」は、話し手・聞き手・第3者の誰の発話を引いてもよく、話し手は「みたいな」を用いて、現発話にいろいろな人の声を取り入れることが出来、引用部分の再現性、適切性はそれほど問われないことより、想定場面における架空の発言を導きやすく発話を活性化させるためにも「みたいな」は効果的に使用されることが推察される。課題解決場面に関して言えば、「みたいな」に導かれた発話は、聞き手に具体的な場面を想起させ、自分の意見をわかりやすく説明して、聞き手を納得させうるものとしても捉えることが出来る。

今後、研究するにあたって必要なのは、多数の例文集めに限ると思うので、そこを徹底してやっていきたい。

にもつをもってもらいました.– 国立国語研究所; 1987.—

お疲れ様です。昼ゼミ3年の山口です。

前回、「『~てくれる』を含む文も依頼的テモラウ文というの?」という質問を受けて、明確な答えが出せなかったため、今回は「~てもらう」と「~てくれる」の徹底的な比較の導入としてこの論文を取り上げました。

にもつをもってもらいました.– 国立国語研究所; 1987.—

この論文では、やり・もらい表現の3類7種(「~てやる/~てあげる/~てさしあげる」「~てもらう/~ていただく」「~てくれる/~てくださる」)から、代表的な「~てやる」「~てもらう」「~てくれる」の使い分けを、授与者に関する話し手の視点・授受の移動の方向・行為の内容・表現場面・待遇度の視点から考察している。

  1. 話者の視点と授与者

C<行為の内容>

A                    B

<行為の与え手>             <行為の受け手>

S

<話し手の視点>

この図はS<話し手の視点>により表現法が異なることを表す。つまり、SがA側であれば

[1]AガB二Cヲシテヤル

という表現になり、B側にSの視点があれば、

[2]BガA二/カラCヲシテモラウ

という表現になる。これを踏まえると、「~てやる/~てあげる/~てさしあげる」は、行為の与え手側に話し手の視点がある場合に用い、「~てもらう/~ていただく」は、行為の受け手側に話し手の視点がある場合に用いると分類できる。次に、話し手自身が授与行為の当事者(行為の与え手)である場合は以下の図になる。

C<行為の内容>

S  =  A                B

<話し手><行為の与え手>         <行為の受け手>

[3]私ガB二Cヲシテヤル

[4]Bガ私二/カラCヲシテモラウ

[3]と[4]の文では、「私」にはSかAの視点が含まれている。また、話し手自身が授与行為の当事者(行為の受け手)である場合は以下の図になる。

C<行為の内容>

A               S  =  B

<行為の与え手>        <話し手><行為の受け手>

[5]Aガ私二Cヲシテクレル

[6]私ガA二/カラCヲシテモラウ

となる。しかし、「私が父を送ってやった」の文のように、受け手が目的語そのものである場合、「父が私を送ってくれた」の文のように、話し手である受け手が行為の目的語となる場合は、二格がヲ格となり、以下の形式となる。

[3]’私ガBをシテヤル

[5]’Aガ私ヲシテクレル

このことから、話し手自身(S)が行為の与え手(A)である場合、表現形式が[1]=[3]、[2]=[4]であることがわかった。だが、話し手が行為の受け手(B)である場合は、与え手の行為の補助動詞は「~テクレル」が用いられる。

  1. 移動の方向と話し手の意識

M(第三者)=「あの人」

S                     H

(話し手)=「私」             (聞き手)=「あなた」

テヤル         テモラウ       テクレル

授受表現の用法には、行為の結果が影響を及ぼす移動方向と、授与者に対する話し手の区分意識が関与しているとし、上の図とともに検討している。

ア.(S→M)

1-a 私はあの人に日本語を教えてやった。

2-b あの人は私に(から)日本語を教えてもらった。

イ.(S→H)

2-a 私はあなたに日本語を教えてやった。

2-b あなたは私に(から)日本語を教えてもらった。

ウ.(H→M)

3-a あなたはあの人に英語を教えてやった。

3-b あの人はあなたに(から)英語を教えてもらった。

エ.(H→S)

4-a 私はあなたに(から)英語を教えてもらった。

4-b あなたは私に英語を教えてくれた。

オ.(M→S)

5-a 私はあの人にフランス語を教えてもらった。

5-b あの人は私にフランス語を教えてくれた。

カ.(M→H)

6-a あなたはあの人に(から)フランス語を教えてもらった。

6-b あの人はあなたにフランス語を教えてくれた。

6-c あの人はあなたにフランス語を教えてやった。

実際に発話場面において、「~テヤル」「~テモラウ」「~テクレル」のどれを用いるかは、話し手が聞き手や話題の人物間の関係をどのようにとらえているか、文脈や話題に応じた話題の設定の仕方をどのようにするかによって決まる。

まとめ

この論文は、「~テクレル」「~テモラウ」の二つの比較として取り上げたが、「~テヤル」も含めて、三項対立の視点からもう一度考えてみる必要があると思った。これまでの研究では、依頼的文脈や指示的内容を含む文において使われていた授受表現を、依頼的テモラウ文や指示的テモラウ文としていたが、この論文でも述べていたように、話し手が行為の受け手である場合は、与え手の行為の補助動詞は「~テクレル」が用いられる。つまり、

「(あなたは)私に日本語を教えてくれる?」のような文のように「~テクレル」は可能である。だが、「(あなたは)私に日本語を教えてもらってもいい?」のような「~テモラウ」との明確な区別がない。依頼的テクレル文としても何ら遜色ないのである。ただ、「あの人に日本語を教えてやってくれ」という依頼的表現は可能であっても、「私に日本語を教えてやってくれ」とは言わない点が面白いと思った。

今後は、前回の発表で述べたように、アンケートの実施や敬語表現も含めた考察、今回取り上げたやりもらいの表現を再考察するなどして研究を進めていきたい。