空間から時間への意味変化について

こんばんは夜ゼミ3年の方の齋藤です。今日は財布を家に忘れ王将から家に取りに戻り、あげく手袋をスーパーに落とし探し回りました。たぶん厄日だったんだと思います。あとこれだそうとしたらパソコンがバグりました。

本日紹介する論文は砂川有里子「空間から時間へのメタファー―日本語の動詞と名詞の文法化―」です。私の研究する「ところ」の外縁として空間から時間への意味変化したものについて触れていたので紹介します。

砂川は動詞や名詞といった自立語の空間概念を表す言葉が、付属語に変化していく様子について論述している。
まず文法化の特徴について砂川は

1. 意味変化とともにさまざまな形態的・統語的変化がおこる。
2. 意味変化はランダムなものでなく、認知的に動機づけられている。
3. 意味変化は具体的な意味から抽象的、一般的な意味にすすむ。
4. 変化は段階的・連続的なもので明確な線を引くことができない。

としている。(ここは文法化を簡潔にまとめてあり、素晴らしいとおもいます)
砂川は動詞、名詞を形で区分しました。

(1)格助詞+動詞テ形:にかけて、にしたがって、をつうじて、など
(2)動詞連用形:おり、きり
(3)動詞連用形+格助詞:おりから、おりに
(4)名詞単独:あと、かたわら、すえ、など
(5)名詞+格助詞:うちに、そばから、ところに、など
(6)名詞+指定辞ダ:一方だ、ところだ

ここで空間をあらわす名詞や動詞が変化していくなかで名詞らしさや動詞らしさが希薄化し脱名詞化、脱動詞化が見られる。そして次のような性質が見られます。

1. 動詞は述語に名詞は主語、目的語にたたなくなる。

(7)本日をもちまして、当劇場は閉館します。
*当劇場の閉館は本日をもちます。
(8)長時間の協議のすえ、やっと結論がでました。
*長時間の協議のすえを待つ。

2. 動詞はガ格補語などが取れなくなり、ニ格やヲ格補語に限られる。

(9)母が針に糸を通した。
(10)5日間を通しての会議でさまざまな意見が交換された。

3. テンス・アスペクト・ボイスなどの文法カテゴリーがなくなる。

(11)その国は一年を通して暖かい。
その国は一年を通じて暖かい。

また時間概念を空間の意味から動詞を分類すると次のように、

(12)随伴…にしたがって、にともなって、につれて、をもって
(13)接触…おりから、おりに、きり、にあたって
(14)設置…において、にかけて
(15)存在…にあって、にさきだって、にひかえて、にめんして
(16)移動…にいたって、にいたっては、にいたっても、にわたって、をつうじて、をとおして

また名詞では

(17)場所一般:ところ、ところだ、ところで、ところに、など
(18)相対的位置関係:まえに、をまえに、あと、かたわら、など
(19)空間の形状:あいだ、あいだに、うちに、すえに、など
(20)その他:いっぽうだ、いっぽうで、とともに

であるとした。ここで動詞の場合動きや変化に関わる意味や変化の過程意味が関係し時間関係に影響があるとした。また名詞の場合も位置関係や空間の影響が時間関係に転写されるとした。
この論文は空間から時間への意味変化が概観でき役立ちました。

現代大学生における言語の性差意識 ー男女の書き換えの課題からー

こんばんは。昼ゼミの兪です。勤務先の塾で、春期講習をなかなか申し込まない生徒たちに「締め切りギリギリに提出する癖は直そうね。」と言っているにも関わらず、自分のギリギリに提出する癖はなかなか治せません。私が愛してやまない嵐の相葉くんに「明日やろうは馬鹿野郎だよ!」と言われない限り、直らないと思っています。相葉くん、腕を広げて待ってるからね♡

さて、以下は私が今回ご紹介する論文です。

菊地悟(2007)「現代大学生における言語の性差意識 -男女の歌詞書き替えの課題から-」『岩大語文』Vol.14(2007),pp.101-109
 
これは、昨今薄れてきたといわれる男女の言葉の性差についての論文です。筆者は「三年目の浮気」という昭和57年にヒットした男女のデュエット曲の歌詞を用いて、担当する授業の学生に男女のパートを書き換えさせ、現代における言語の性差意識について考察しています。判断のポイントとしては、とくに一人称・二人称の代名詞と文末の終助詞であるとしています。
全員で15名であるが、うちの2名は留学生なので分析から除外し、11名の女子学生と2名の男子学生の書き替えで考察をしています。また、女子のうち1名は社会人入学生であり、二十歳前後の学生との異同が注目されるとしています。

書き換えの結果を大別すると以下の4種類でした。
1. 人称代名詞
2. 終助詞
3. 命令・依頼表現
4. その他(授益表現)

 まず、人称代名詞の書き換えでは、すべての学生が男性から女性への書き換えを「俺→私」、「お前→あなた」、女性から男性へは「あなた→お前」「私→俺」で一致し、元歌の表現を踏襲していました。
終助詞では全員が「ぜ」→「わ」(男→女)。⒓名が「んだぜ」→「のよ」(男→女)、「わ」→「よ」(女→男)。11名が「のよ」→「んだぜ」(女→男)。
命令・依頼表現では「みてよ」→「みてよ」(男→女)。10名が「よ」→「わ」(男→女)。9名が「みろよ」→「みてよ」(男→女)、「なりなよ」→「なりなよ」(男→女)。8名が「だよ」→「よ」、「のかよ」→「の」、「だぜ」→「だよ」(男→女)。
授益表現では、「許してあげない」→「許してやらない」(女→男)に書き換えられていました。

以上のことから、従来男性専用、女性専用とされてきた語は一致度が高いようです。しかし、「みてよ」「なりなよ」のように書き換えのないほうが主流の語は男女の差が見られなくなっていることを表しているのかもしれないと述べています。
 さきに紹介した社会人入学生は、他の学生と違った書き換えも見られる一方で、同様な点も見られました。実際に女性語を使用したことのある学生と、知識だけの学生とは違いが出て当然です。しかし、使用することのない学生も、規範としての認識はある程度保持しているということが、書き換え結果からわかります。考察対象から除外した留学生の書き換えも日本人学生と共通する点が多かったと述べています。

 以上のように、実際に男女の言葉の使用に差があまり見られなくなってきたと述べています。ここで私が興味を持ったのは、留学生にも日本人学生と共通する点が多いというところです。留学生はドラマやアニメ、マンガなどで日本語を習得することが多いので、日本人よりも性差があると考えていたからです。この論文では除外されてしまったので詳しいことはわかりませんが、今後はほかの論文も読み留学生の日本語の性差について考察を深めていきたいと思います。

会話文における「ちょっと」の配慮表現について

 こんばんは、提出が非常に遅くなってしまいました。夜ゼミ2年の五島です。春休みに突入して一週間以上経ちますが、いやあ、休みとはいいものですね。やりたいことが上手くできているような・・・気がします。その割にはこの課題の提出がギリギリでしたね。すみませんでした。

 今回私は、『会話文における「ちょっと」の配慮表現について』鄭栄愛(2012)を取り上げました。タイトルからも分かるように、この論文は私たちが普段何気なく使っている「ちょっと」について焦点をあてたものです。本来「ちょっと」は程度副詞であるはずですが、その枠組みを超えて今や多様な使われ方をしています。その一つに配慮表現があり、日常会話において人とのコミュニケーションを円滑にするために用いられます。鄭はその配慮表現の立場から、文学作品を参考に「ちょっと」の用法について詳しく分析していました。
 まず、大きく6つにその用法は分けられ、①要求②願望③咎め④質問⑤呼びかけ⑥告知とのようになります。ここからさらに詳しく分析しているので、一つずつ紹介したいと思います。

①要求
相手に要求を表す時は、依頼文・勧誘文・命令文の3つに分類できます。長くなってしまうのでそれぞれ例文は挙げませんが、依頼文・勧誘文に使われる「ちょっと」には軽いニュアンスが含められていると考えられます。本来の程度副詞である「少し」の意味がわずかに残っていると考えられ、聞き手への配慮としてそれが使われます。一方命令文で使われる「ちょっと」には、発話意図を強く感じさせるものがあります(例「ちょっと待てよ」等)。そこには聞き手への配慮はなく、自分の意志を通したい気持ちが強く表れるものとなって表現されます。
②願望
 願望を表す文には「ちょっと…したい…」という形で、直接相手に願望を働きかける場合と相手の協力を求める願望意志の二つに分けられます。この時、「ちょっと」にはまだ程度副詞の意味が残っていると考えられ、軽い感じで持ちかけることで相手への負担を軽減しようとする聞き手への配慮が見受けられます。
③咎め
 話し手が聞き手に対して不満や非難などの感情を表している時、これに分類されます。鄭は、中断をする時・提案をする時・間接的な非難・直接的な非難、と咎めについてさらに4つに分けました。それぞれをみていくと中断をする時(例「ちょっと、その辺で止めなさい」等)は中断させる気持ちを強く伝えているため、相手への咎めの感情が強く感じられます。そこに聞き手への配慮はありません。提案をする時は、聞き手への配慮が見られます。この時の“提案”は相手に対して否定的なものであり、それを直接表現するのを避けるため使われます。間接的な非難というのは、疑問文で表されます(例「ちょっと大人気なかったのではないですか?」等)。疑問の形になることで非難が間接的になりますが、「ちょっと」を付加することで相手への非難・不満の気持ちが強く表されます。もちろん聞き手への配慮はありません。直接的な非難というのは、疑問の形で言っていない場合のことです(例「ちょっと大人気ないですよ」等)。この時の「ちょっと」は、直接的な非難を和らげる場合とさらに強める場合とのように、2通りに解釈することができます。よって聞き手への配慮があるかどうかは判断しがたいです。
④質問
 質問をする時、相手に対してその質問が唐突にならないよう軽い感じで持ちかけるために使われます。相手への心的負担を軽減するために用いられるので、聞き手への配慮があります。
⑤呼びかけ
 呼びかけの形として、「ちょっと、(人名)」が多くみられます。これに当てはまるのが、注意喚起を強める場合と直接な面を回避する場合の2つです。呼びかけの場合は、後ろに用いられる内容が話し手の発話意図です。そしてその前に呼ばれる人名が、元々注意喚起の役割を担っています。そのため注意喚起を強める、つまり相手の動作を止めるか相手に何かを強く求める時、「ちょっと」は自分への配慮として使われます。直接な面を回避する場合というのは相手に何かを告知・依頼する時であり、その呼びかけの相手への配慮として使われます。
⑥告知
 話し手が自分の行動を相手に知らせる場合のことをいいます。この時「ちょっと」は動詞の直前で使われます(例「ちょっと出かけます」等)。これは今からする自分の行動が大袈裟なものとならないようにと、その行動自体を和らげるために用いられるので、聞き手への配慮があると思います。

 長くなってしまいましたが、これが「ちょっと」の用法分類です。普段無意識に使っている「ちょっと」が、上記のように細かく分類することができるのに面白みを感じました。本来は程度副詞であったはずが、いつからこのように用法を広げていったかについても興味を持ちました。
 わかりやすい内容の論文でしたが、まだ「ちょっと」の用法を説明するには十分とは言えない点がいくつかあるので、今後の研究の題材にしようかなと考えています。皆さんも機会がありましたら、是非目を通してみてください。

現代日本人の食感表現について

こんばんは。夜ゼミ3年の長谷部です。テストも終わり、学校で知人に会うと異常に嬉しくなり挙動不審になる傾向があります。生温かい目で見守ってやってください。

さて今回は、オノマトペが用いられることの多い食感の表現について少し踏み込んでみました。以下の早川文代(2009)の要約です。

まず早川は、現代日本人の食感表現(テクスチャー)の特徴について自身の先行研究から3点述べている。

①数が多い。 日本語445語

②オノマトペの役割 445語の7割はオノマトペである。

③日本人の粘り気・弾力の表現の多さ

早川(2003)

また吉川誠次(1964)の食感表現データと比較し、このような特徴は日本人の食感表現に変化があってできたものと述べている。

・出現頻度が大きく変化した用語があった。

ⅰ.「もちもち」「ぷるぷる」「ジューシー」「のどごしがよい」などは2003年のデータにしか見られない。新しいオノマトペの登場についてはその推測として以下のように述べている。

→「もちもち」...近年のパンや麺の食感の食感の流行。

→「ぷるぷる」...増粘多糖の開発によってゲル状のデザートが登場したこと。

ⅱ.食感表現としては使われなくなりつつある用語。「ニチャニチャ」「ネチャつく」

→付着するような食べ物は好まれなくなってきている。

→「粘い」は語感が古くなり、代わりに「ねばりがある」や「ねばねば」が使われているのではないか。

これらのように、時代による表現の変化には、新しい食品の登場、食感の流行、食嗜好の変化、言葉自体の変化等、いくつかの要因が背景にあると推測できると述べている。

さらに、上記の食感表現の変化の起きた現代(2004)では、年代別にどのような表現の違いが起こるのかデータを取っている。(2004年6月から10月にかけて首都圏及び京阪神地区の男女3533人にアンケート調査(有効票数2437))

・若年者の食感表現

「ぷにぷに」「シュワシュワ」などは低い年齢層で認知度が高い傾向にあった。

「シュワシュワ」は1996年に行った先の調査でも同様の傾向であった。

→「シュワシュワ」は炭酸飲料、「ぷにぷに」はグミやゼリーなど、低い年齢層の食経 験が多い可能性が高いため認知度に影響しているとも考えられる。

「口どけがよい」「もっちり」等も低い年齢層の認知度が高い。

→新しい食品の商品名や宣伝文句に使われる、テレビや雑誌などで頻繁に用いられたりする等の結果から語彙の定着につながったと推測。

・高齢者の食感表現

「乳状の」、「糊状の」のような「○○状の」といった表現が多く見られた。

「ぶりんぶりん」、「かちんかちん」のような表現も同様の傾向。

→「○○ん○○ん」という形のオノマトペは、語感が若年層には受け入れにくいという可能性を推測。

「汁気が多い」、「水気が多い」といった「○○気が多い」と言う形の表現、「かみ切れない」、「芯がある」といった食べにくさの表現も年齢が高いほど認知度が高い傾向。

→語形による要因、食経験の差による要因等が背景にあると推測。

消費者のテクスチャーの認知状況を調査した早川は、日本語のテクスチャー表現が極めて多彩であり、その文化圏、言語圏の食の特徴を強く映していると結論付けている。

参考文献

早川文代(2009) 「現代日本人の食感表現」日本家政学会誌 Vol.60 No.1 pp.69-72

間投助詞のスタイル切り替え

 こんばんは、夜ゼミ3年の栗田です。就活でさっそく説明会を二社ほど間違え、行きそびれました。しかしその代わりに学内企業説明会に飛び込み、全く知らなかった会社の人事の方と1対1で楽しくお話しできたので、±ゼロかと考えております。しかしながらスケジュールやメール、持ち物の管理の大変さを痛感しています。今後はより一層気をつけたいです。 さて、今回は卒論のテーマにしようかと考えているものに関わる、以下の論文をご紹介したいと思います。

篠原玲子(2005)「間投助詞のスタイル切り替え:方言間の対象研究」『阪大社会言語学研究ノート』(7)、pp39-50、大阪大学大学院文学研究科社会言語学研究室

篠原は、津軽方言話者、東京山の手方言話者、京都市方言話者が用いる間投助詞を取り上げ、フォーマル場面における間投助詞の使用に注目して、「ネ」を用いる場合、「ネ」以外を用いない場合に大別し、以下のように分析している。ちなみに「ネ」以外の形式として、「ナ」「サ」(津軽、東京山の手、京都市)「ヨ」(津軽)があらわれたとしている。
定義:対若者への会話→カジュアル 対調査者への会話→フォーマル
結果:
①津軽→場面に関わらず、ネを全く用いない
(1)ま、高校ほどで ねーはんでな。つーが、高校にも よるけどよ。 それによ、中学校、軟式だばな。高校の 野球ど 全然 違うしよ。(カジュアル)
(2)あの、硬式は わかんないですけど。軟式野球は、その、その年に よって 全国大会の やる 場所が 違うんですけど。いろんな 地区で。はい。(フォーマル)
②東京山の手→カジュアル・フォーマル両場面でネを用いる
(3)え だって お前 そのままさー ち、忠実に 実行して どーすんだよ お前 そのままさ 直江津支社からさー(カジュアル)
(4)あー。でもなー、そっか そー 考えると きついよなー 確かになー あーゆー あんまりねー 強い 建物 建てる っちゅうのもねー、(カジュアル)
(5)一時期 すごいね、1年 2年ぐらい 前はね すごぃ ぐっと あがったんですよ。(フォーマル)
③京都市→フォーマルな場面でのみネを用いる
(6)そんで もー 俺 古典はなー、授業は き、あ、最初 聞ーとって、で、ある程度―、わかるやん。ほなら もー 自分でな 別のー そーゆー、教材を、自分で 買って 読んでんねん。(カジュアル)
(7)あのねー、西陣織ー、関係でですね、金襴 って ゆーのが あるんですよ。(フォーマル)
分析:津軽方言ではフォーマルであってもネを全く用いないことから、間投助詞自体がぞんざいさを表しているか、使いにくいと考えられる。東京山の手方言でも、ネを含む間投助詞の使用はぞんざいさを表すが、フォーマルな場面でデス・マスとネが共起されることから、ぞんざいさを表すマーカーにはならない。京都市方言では、カジュアルな場面では方言系ナを使用し、フォーマルな場面でネを単体でも用いることから、共通語形ネは方言形ナよりも丁寧な語形である。

 以上が要約になります。京都市方言でネが優位に立っているというのは面白いと思いました。しかしこの論文は対調査者=フォーマルとしており、その中の例文でフォーマルとは言い難いものもあったため、結果がもう少し変わるのではないかと考えられました。しかしながら、方言の面から口語的な間投助詞を見ることが出来たため、卒業論文に役立てればと思います。

程度副詞「とても」の肯定用法―「表出」について―

こんばんは。こうなることは課題発表のときから分かっておりました、夜ゼミ2年加藤(聡)です。ゼミ長ではない方です。締め切りをぶっ飛ばす勇気も出ないので、日付が変わらないように祈りながらタイピングに励みたいと思います。セイッ!

では今回は以下の論文を紹介していきます。

森下訓子(2004)「程度副詞「とても」の肯定用法―「表出」について―」(同志社女子大学大学院 文学研究科紀要 第4号 p53-67)

この論文では、「とても」の類義表現である「非常に」と「たいへん」に目を向け、この3つの語の使用される場面、付属する語についての調査・比較を行い、最終的には「とても」の肯定用法の感情表現の特徴を捉えることを目的としています。

(1)東西のハイサイドライト(採光窓)から部屋の奥まで日が注ぎ、{とても・非常に・たいへん}明るい。

(2)「{とても・非常に・たいへん}疲れた。3回くらいから何も覚えていない」。

(3)彼女は{とても・非常に・たいへん}すべすべとした綺麗な身体をしていた。

(4){とても・非常に・たいへん}美人ですね。

以上の例文を見て分かるように、「とても」は「非常に」「たいへん」と同様に、係り先の単語の状態・属性の程度のはなはだしさを特徴づけることがきますが、その使用には差異があります。筆者が3語の用法の実例を調査し、係り先の単語の品詞によって整理したところ、3語は共通して形容詞、動詞を修飾する用法が中心であるが、「とても」は形容詞、「非常に」「たいへん」は動詞に偏って見られるという結果が得られています。更に形容詞を属性形容詞と感情形容詞に分けると、「とても」が形容詞に偏っているのは、感情形容詞の力が大きいということが分かる、という結果も得られています。また、動詞との共起関係について見てみると、3語は共に感情表現を深くかかわりを持っていることも述べられています。そんな中でも例を見ていくと、「非常に」「たいへん」が「とても」に比べて客体化された感情表現をあらわしやすく、相対的に「とても」と棲み分けて使用される傾向がうかがわれています。これの例として、お礼やお詫びには「とても」が使用されにくいことが挙げられています。

これらのことを踏まえ、森下は「とても」は話し手を中心とした感情の発露と関わりあうこととを示し、「表出」といったムード性をもつ単語である、とまとめています。

以上が要約です。「とても」「非常に」「たいへん」の3語とも、文語的で、口語で使用した場合には改まった丁寧な表現、ということになると思います。「とても」を研究するにあたって、数ある程度副詞の中からあえて「非常に」「たいへん」を選ぶことによってより細かい部分での比較が可能になっていると感じました。個人的にはこの論文を受けて、「すごく」や「超」なんていう口語でよく使用される程度副詞にも今後触れてみたいと思いました。

「普通にかわいい」考

皆様、こんにちは。昼ゼミ2年の鳥居由紀です。テストが終わり、長い春休みですね。毎日好きなだけ遊んで、たくさん食べて、飲んで破産するぞ。と言いたいところですが、先日一年続けていたバイトをやめてしまい、どうやら節約生活のはじまりとなりそうです。働かざるもの食うべからずというのは、まさにこのことですね。
さて、今回私が紹介する論文は、井本亮(2011)『「普通にかわいい」考』(商学論集 第79巻第4号pp.59-pp.75)です。近年、若者を中心とした話者に見られる、「普通においしい。」や、「普通にかわいい。」など、副詞的成分「普通に」が被修飾成分の高い程度を表す用法について論じてます。
辞書の定義では、「普通」は、「他の同種のものと比べて特に変わった点が無いこと。特別でなく、ありふれていること」とされています。井本はまず、「普通に」がどのような修飾関係を構成しているかを確認した上で、考察として「スケール構造」を用いた分析を行っています。
以下が、「普通に」の修飾関係の構成です。
1.動作様態副詞的用法
(1)演技をせずに、普通に話してください。
2.注釈副詞的用法
表される事柄に対する話者の評価・注釈を表す。
(2)ひとりカラオケも普通に行くよね。
3.程度副詞的用法
ほかの一般的な程度副詞と同様に、段階的程度を有標的に定めることができる。
(3)学食のラーメン{すごく/とても/普通に/まあまあ/そこそこ}おいしいよ。
段階制をもつ属性は、その属性の程度をスケールとしてもっており、その値が定まることで初めて実現するものであり、無標の段階的属性の程度はスケールの文脈的、あるいは語彙的な標準値を取ることによって定まります。ここで「おいしい」が含意するスケール的属性の程度値が無標の標準値ではなく、「すごく・普通に・まあまあ」が定める値であることが表されます。ここでの「普通に」は、スケールの中間点、つまり、標準値よりも高い程度を指しています。

井本は、段階的属性の「スケール構造」を区別する二種類の標準値を用いて、こうした「普通に」が高い程度をあらわあすメカニズムについて論じています。
スケール構造において、程度副詞は、スケール上の標準値を更新して、程度副詞が表す値を指し示します。
例えば、(4)「とてもかわいい。」では、程度値が無評の標準値から、有評の[とても]の値に更新されます。しかし、(5)「普通にかわいい。」では、「普通に」が程度修飾をする際には、「程度値の更新」は行われません。これは、「普通」が無標の標準値であるからです。しかし、次の例は、文脈的標準値が(4)の「とても」によって更新された例と相似しています。
(6)学食のラーメン、まずいって聞いてたけど、普通においしかった。
ここでは、「おいしい」のスケールにおける文脈的標準値は、「まずい」によって負の方向に動いており、文脈的に程度値が低くなっています。そこに「普通に」が程度修飾することで、程度値は「普通」に更新されます。
このことから、「普通に」が高い程度を表すと解釈される用法は、標準程度否定文脈によって述部の程度値が、無評の標準値よりも低く設定されていることで「普通に」の表す程度が、相対的に、正の方向に更新されているためであると考えられます。つまり、高い程度を表すという解釈は、スケール上で正の方向に更新することによる、見かけ上の解釈なのです。

以上が、要約です。この論文の面白いところは、「スケール構造」という、段階制の構造化を用いての考察を行っているところにあります。「普通に」の他にも、近年取り上げられている、「全然かわいい。」の「全然」の肯定的用法も、スケール構造による考察が可能なのではないでしょうか。また、程度副詞について調べていくと、副詞の意味変化における程度的意味の発生課程についての研究もあるため、それも踏まえて今後の研究に役立てたいと思いました。

モダリティ形式としての「そうだ」

こんにちは、昼ゼミ二年の田口です。2月の一週目は2月4日以外ゲレンデにいるというハードスケジュールを組んでしまったため、荷造りが大変です。

 さて、今回わたしが紹介する論文は、龐 黔林(2004)『モダリティ形式としての「そうだ」について』です。モダリティ研究の先行研究において、様態の助動詞「そうだ」の位置づけが曖昧なため、新たに位置付けてみようという論旨です。「ようだ」「みたいだ」「らしい」といった表現は判断のモダリティとして認められていて、過去形のあとにも接続でき、対応する否定表現がありません。一方「そうだ」は過去の事柄に対する判断をあらわすことができず、さらには幾つかの否定形も持ちます。このような形式的な特徴からモダリティとして認められませんが、「そうだ」には、話し手の事柄に対する推測的判断を表す働きもあるので、モダリティとしての位置づけも考えなければならないと龐は述べています。

 龐は、様態の「そうだ」の意味に影響する重要な要素は、話し手の心的態度であるとしています。そして、「そうだ」の意味分類として「状況把握」と「予想」を挙げています。前者は、話し手が単純にものの外への表れ(状態)を述べること、後者は、ものの外への表れに基づいて自分の推測的判断を述べることです。

(1) この金魚は死にそうだ。
(2) (自分の身体の調子について)腹がへって死にそうだ。

例文(1)は金魚の状態を見て「まもなく死ぬだろう」という事態を推測しているので「予想」、例文(2)は単純に自分がどんな状況かを述べただけであるので「状況把握」となります。しかし、宮崎(1993)では『「そうだ」は外観的な判断を表すため、判断の主体となる人物と判断の対象となる人物とは、必ず別人でなければならない。』と述べています。寺村(1984)は、これが「客観的な様態の表現を自分のことにいう誇張表現」としていますが、龐は寺村のいうような特殊な用法ではなく、「状態把握」にまとめています。

また龐は、「そうだ」は主観性と客観性をあわせ持つとしています。

(3)(花瓶がテーブルの端からはみ出ているのを見て)花瓶が落ちそうだ。

この例文(3)では、二つの解釈が考えられます。というのも、話し手が、ただ花瓶がテーブルからはみ出ている状態を述べているのだとしたら「状態把握」だし、眼前の状態により花瓶が落ちることを推測して述べているのだとしたら「予測」に分類されます。つまり、話し手が現実の事柄をどう把握するのかという心的態度によって、「そうだ」が「状況把握」を表すのか「予測」を表すのかが決まるのです。
「状況把握」の意味の時、「そうだ」は客観性を帯び、「予測」の意味の時主観性を帯びますが、このように話し手の心的態度を考えないといけないため、意味分類が難しいのです。

最後に、龐は、「そうだ」を簡単にモダリティ形式から排除すべきでもないが、単純にある特定のモダリティ形式を表す形式とみることもできない。「そうだ」は「状況把握」と「予想」という基本的意味により二種類のモダリティを表すことができる。また、この二つの意味を持っているということは、主観性と客観性が相連続していることのあらわれであると述べています。

論文を読んでいて、最初は龐が示している例文(1)と(2)は、「状況把握」と「予測」のどちらとも取れるのではないかと考えながら読んでいました。「この金魚は死にそうだ。」というのは、単に状況を述べているだけともとれるし、目の前の金魚の受胎を見て、死にそうだと推測しているとも考えられたからです。しかし、論文を読み進めていくと、「そうだ」には主観性と客観性をあわせ持っているという記述が出てきたので納得しました。その時の話者の心的態度を読み取らないと意味分類は難しいのです。前後の文脈を踏まえないとどちらのモダリティか判断できないので、龐が挙げている例文では短すぎると感じました。

文末に用いられる「みたいな」

こんにちは、夜ゼミ3年の小川です。さすがにネトゲをする時間もなくなってました。なので、これからはコンシューマゲーに切り替えていきます。辛い就活を生き抜くためには息抜きが大事ですからね、ということにしておきます。

さて、今回私が紹介するのは、大場(2009)「文末に用いられる「みたいな」」です。これは、昨年後期に私が個人研究を進めていくのに使用した論文です。非常に分かりやすく、かつ面白いので紹介したいと思います。
まずはじめに、大場は文末の「みたいな」の特徴について、「(Ⅰ)発話相当を受ける、(Ⅱ)文末に置かれる」の2点を挙げています。そして文末の「みたいな」には2つの用法があることと、それらの用法は「αみたいなβ。」という名詞一語文相当の構造を仮定することによって説明できることを主張したい、と述べています
次に大場は先行研究について触れています。Suzuki(1995)と加藤(2005)を取り上げて、文末の「みたいな」には先行文脈の言い換え・解説の機能があると述べています。さらに、Suzuki(1995)では上記の1種の用法を述べるのみでしたが、加藤(2005)では「亜種」と呼ばれる用法が挙げられていることに触れています。その「亜種」というのは、自分の考えを明確に述べることを避けるために使用されているといいます。これらをまとめて、大場は次の2種類の用法が文末の「みたいな」には指摘されてきたとし、この2つを文末の「みたいな」の用法として認めることにしました。
用法1:先行の文脈を受けて、そこで述べられている状況を別の言葉(その状況に置かれた場合に発せられそうな発言の一例)で言い換えたことを表示する。
用法2:自分の意見を述べる際、断定を避けていることを表示する。
続いて大場は「みたいな」の通常用法(「αみたいなβ」)について触れています。「みたいな」の通常用法とは、文末に用いられない場合の「みたいな」で助動詞「みたいだ」の連用形だとされています。「みたいな」の後ろには、通常は名詞が接続されます。この「みたいな」の通常用法には<比況><例示><推量>の3つの用法があり、これらは「βはαと類似している」ということが述べられている点で共通していると言えます。この「みたいな」の通常用法は「ような」ととても似た用法を持っていますが、「みたいな」が独自に獲得した機能として発話を直接受けることが出来るということが挙げられると大場は言っています。以下の例を見てください。

(1)S君が、犯人は絶対あの人だよ、というようなことを言っていたよ。

(2)S君が、犯人は絶対あの人だよ、みたいなことを言っていたよ。

「ような」は発話を直接受けることが出来ず、引用の助詞「と」が必要になります。この特徴を泉子・メイナード(2004)は「類似引用」の形式と呼んでいます。そしてこの引用句を受ける「みたいな」が、文末の「みたいな」へと変化していったのだと大場は主張します。
大場は文末の「みたいな」は、「αみたいなβ」という名詞句からβが脱落したものであると言っています。何故、βが脱落するのか。それはαが発話相当の場合、名詞βは「こと」「考え」「感じ」といった漠然とした語が圧倒的で、さらに「みたいな」はα≒βということを示しているので、βが脱落しても文の情報に不足が生じることはないからだとしています。
最後に、大場は文末の「みたいな」が何故2つの用法を持つようになったかについて述べています。それは名詞一語文というものを想定すると説明が出来ると冒頭でも述べていました。名詞一語文とはその名の通り名詞が一語で文になっているものです。例えば、

(3)「あそこに誰かいない?」「え?幽霊?」
(4)「あ、ちょうちょ!」

などです。(3)の例文では先行文脈で「誰かがいる」と示されたのに対して、「それは幽霊なのか」と述べています。これを「(先行文脈)XはYだ」型といいます。一方で(4)では、先行文脈Xは存在せず、ただ「ちょうちょがいる」と述べているにすぎません。これを「Yがある」型といいます。さらに「αみたいな。」という文も名詞一語文であると考えられ、この2つの形式にあてはめることが出来ます。つまり、用法1(言い換え)は「先行文脈Xは、αみたいなβだ」と述べていて、用法2(やわらげ)は「αみたいなβがある」と述べているのだとしています。このように考えることによって、用法2を「亜種」として捉えることなく、独立した用法だと考えたほうが妥当だと大場は締めくくっています。

長くなりましたが以上です。初めてこの論文を読んだ時は、とてもじゃないが文句のつけようがないんじゃないかと思ったほど論の運び方が綺麗で、理路整然としているなと感じたほどです。しかしながら、実際に研究を進めていき、先生やみんなの意見なども取り入れていくと、この論文でも足りない部分もあるのかなと感じる点が出てきました。特にそれを感じるのが用法の部分で、この2つだけで十分なのか、そもそもこの2つの用法は当たっているのか、などまだまだ検討する部分は多いと思います。それらを突き詰めていって良い卒論が書けたらなぁと思いますが、それよりも何よりも、兎にも角にも、就活が終わらないと話が進まないので、就活を頑張りたいかなーって思います、まる。

参考文献
大場美穂子 2009. 「文末に用いられる「みたいな」」、『日本語と日本語教育』Vol.37, pp.43-59.

ガ行鼻濁音の消滅について

 こんにちは。昼ゼミ2年の田代衛です。憧れだった都会の一人暮らしが始まりました。新しい街は日大生・明大生が多く住む学生街であり、決して広くはないアパートですが、今までよりはるかに快適な毎日が送れることを楽しみにしています。
 さて、今回はガ行鼻濁音について、次のレポートを要約します。

 永田高志(1987)「東京におけるガ行鼻濁音の消失」『言語生活』No.430 筑摩書房
 
 戦前まで「日本語らしい美しい発音」として教育や音楽、放送などの場で積極的に指導されながらも、戦後になってからは東京において消滅しつつあるガ行鼻濁音(ŋ)。
 金田一春彦氏は昭和16年、15~17歳の学童70人を対象に行った調査で、漢語にガ行鼻濁音を用いない〔g〕と発音する傾向が盛んであることを示しており、戦中からすでに鼻濁音の消滅が始まっていたことが分かっています。

 そこで筆者は、
①鼻濁音の消えやすいごと消えにくい語という語彙上の区別はあるのか
②あるとすれば、いったい何を基準に消失したのか
という2点に焦点を絞り、昭和59年3月、次の調査を行いました。

対象:中野区在住の東京都生まれの10代~80代以上の男女
方法:なぞなぞ式質問(発音に無意識になりがち)と、字に書いたものを読んでもらう方式(発音を比較的意識しやすい)ふたつの方法を併用。
ⓐ複合語、ⓑ外来語、ⓒ漢語、ⓓ和語、ⓔ母音の広狭、ⓕアクセント核の有無、ⓖ格助詞の「ガ」、ⓗ/-ng/(ガ行の直前にn音がある)の音環境を基準に選んだ以下の単語を発音してもらう。
   十五、窓ガラス、ゴロゴロ、エネルギー、エゴイスト、ヨーグルト、オルゴール、洋画、詩吟、会議、英語、鏡、柳、あご、鍵、これが、考える
   回答を世代別に分ける。
 
 調査の結果
・複合語である「十五」「窓ガラス」「ゴロゴロ」はほぼ全員が鼻濁音を使わない〔g〕で発音する。
・外来語については、60代くらいを境に〔ŋ〕から〔g〕へと使用率の高さが逆転している。
・漢語は40~50代を境に〔ŋ〕から〔g〕に変化をしている。
・全体として和語のほうが漢語より〔ŋ〕の使用率が高い。
・格助詞「ガ」では〔ŋ〕と発音される率が高い。
・/-ng/という発音をする「考える」がすべての語の中で〔ŋ〕と発音される率が高い。

 以上の結果をもとに、統計学で用いられる重回帰分析という方法で分析した結果、ガ行鼻濁音〔ŋ〕を用いるかどうかには和語、漢語、外来語という要因が大きく関わり、またその中でも回答者の年齢が高いほど鼻濁音を使う割合が高くなるということが判明しました。
 また、母音の広狭、アクセント核の有無は、ガ行鼻濁音の選択にはおおきく関与はしていないということです。

 以上が今回の論文の要約です。
 私は趣味で、昭和初期~20年代までの歌謡曲を聞きますが、たしかに、現代のJ-POPと比較するとガ行鼻濁音を用いる歌手はずっと多く存在します。中でも、昭和の歌姫として名高い美空ひばりの鼻濁音は大変美しく、これが正しい日本語の発音なのか、と聞くたびに感心させられます。それが今日において失われつつあるという事実について考えると、少しさみしい気持ちにもなります。言葉は絶えず変化し続けるといわれていますが、発音も50~70年ほどでこれほどにまで変わってくることに驚いています。
 今回の論文の調査は昭和59年(1984年)に行われました。30年も前のことであり、当時10代だった人は現在は40代、当時80代以上だった人すでに亡くなっていると予想されることから、現在、同様の調査を行うとしたら、当時とは大きく違った結果が得られることでしょう。次回の研究の参考にしたいと思います。