濁音と鼻濁音について

 みなさんこんにちは。昼ゼミ二年の東森です。先日、妹が我が家に持ち込んだらしいノロウイルスに苦しめられました。詳しい検査はしていないので断定はできませんが、家族中に感染するのではと心配しましたが、幸い父にも母にもうつらずほっとしました。まだ寒い日が続き、ノロウイルスに限らずインフルエンザも流行しているようなので、こまめなうがい手洗いを続けようと思います。

 さて、今回私が紹介する論文は、坂本武(1984)「日本語における軟口蓋破裂有声子音[g]と軟口蓋通鼻有声子音[ŋ]再考:濁音/鼻濁音の面から」(駒澤大学文学部英米文学科pp.19-pp.31)です。この論文では、いわゆる「日本語の乱れ」のうち、話し言葉における濁音・鼻濁音の混同について音声学的な見地から稿を進めていくものです。ただし著者は保守的な立場をとり、「美しい日本語」と呼ばれるものとの比較において論じることを断ったうえで論じています。

 日本で共通語の「鶯」は、〔ウク゚イス〕([ uŋuisu])と発音され、音楽は〔オンカ゚ク〕([oŋŋaku])であって、〔ウグイス〕([uguisu])、〔オンガク〕(oŋgaku)ではない。もし後者であれば、「鶯」はその美しい鳴き声も〔ゴーゴゲギョ〕となってしまいまさに怒鳴り声であって、鳴き声や囀りとはおよそ縁遠いもので、「音楽」は♯も♭もなかろう。挙げれば際限なく、この濁音と鼻濁音の混同は、最近訳10年間にわたって特に顕著であり、日本語教育における「音」に対する比重が低いためであろうか。
 しかしこの問題は、日本において分布圏をもっている。したがって鼻濁音の発音が困難な分布圏に住む人々にまで本論を強制するものではなく、論点はあくまで東京を中心として話される言葉、いわゆる共通語の中にまで、歓迎されざる発音を持ち込むのは考えなければならない。
この論文の分布図によれば、鼻濁音の発音される地方は、北海道・東北・東京・関東の大部分・愛知岐阜を除く中部・兵庫県周辺等である。その他の地域は濁音圏か両方混ざる地域である。少なくとも従来、日本語の規範としては前者と可とし、後者は避けられてきたにもかかわらず、共通語として存在すべき鼻濁音が、非共通語圏の濁音に圧倒されようとしている現状に著者は疑問を抱いているのである。

 そこで、軟口蓋有声子音としての[g]と[ŋ]の現れる位置について総括再考してみたい。
 (1) 破裂音[g]は語頭(または第一音節)に立つ。/濁音
   「外苑」〔[ga]ien〕、「画家」〔[ga]ka〕、「楽屋」〔[ga]kuja〕、「瓦石」〔[ga]seki〕、「学科」〔[ga]kka〕等。
 (2) 文節の中に入ると(または第二音節以外は)通鼻音[ŋ]となる。/鼻濁音
   「愛玩」〔ai[ŋa]n〕、「鋳型」〔i[ŋa]ta〕、「威厳」〔i[ŋe]n〕、「銭形」〔zeni[ŋa]ta〕等。
 (3) 助詞、助動詞等は通鼻音[ŋ]である。/鼻濁音(助詞の〔ガ,が〕、格助詞、接続助詞、終助詞等すべて[ŋ]となるのが原則である。)
   〔日〔ガ,が〕[ŋa ]出る〕、〔君〔ガ,が〕[ŋa]代〕                              以上格助詞
   〔咲く花のにほふ〔ガ,が〕[ŋa]ごとく……〕、〔行ってみた〔ガ,が〕[ŋa]、その通りであった〕 以上接続助詞
   〔老いず死なずの薬も〔ガ,が〕[ŋa]〕                                      終助詞
   〔落下雪の〔ゴ,ご〕[ŋo]とし〕、〔おまえの〔ゴ,ご〕[ŋo]とき大馬鹿者〕                以上助動詞
 (4) 接続詞は通鼻音[ŋ]である。/鼻濁音
   〔その花は白色です〔ガ,が〕[ŋa]、こちらは赤色です〕
 (5) 複合語の下接語が、〔カ行〕で始まる語であっても、連濁の場合は通鼻音[ŋ]。/鼻濁音
   〔電力+会社〕→〔電[den]力会[ŋai]社〕
 (6) 語頭以外にあっても、次のような場合には、通鼻音[ŋ]/鼻濁音ではなく、破裂音[g]/濁音となるのが普通である
   ㋑複合語の下接語が〔ガ,が行〕ではじまっても、その複合度または音義的熟度は薄いときは、硬化作用は示される。
    〔日本+銀行〕→〔日本銀[gin]行〕(このような例では例外なく[gin]が普通)
    〔音楽+学校〕→〔音楽学[gaku]校〕(高等学校、外国語学校も例外ではない)
    〔前+外務大臣〕→〔前外[gai]務大臣〕等。
   ㋺数詞の五(5)
    十五、二十五、三十五(15、25、35)……等の五(5)。但し十五夜、七五三、七五調など、数詞の意義が失われつつあるものは通鼻音[ŋ]/鼻濁音である。
   ㋩同音を繰り返す擬音・擬態語の場合。
    ガ(が)ヤガ(が)ヤ、ギ(ぎ)ラギ(ぎ)ラ、グ(ぐ)ズグ(ぐ)ズ、ゲ(げ)ラゲ(げ)ラ、ゴ(ご)シゴ(ご)シ
 (7) 外国語は原発音通り。但し、〔イギリス〕は例外で[ŋi]である。→〔イキ゚リス〕

 このような原則が存在し、戦前教育には厳しく教育され、また戦後二十五年間程は、何とか両音の区別が保たれていた。しかしここ十年程前頃から、として昨今における両音の乱れ、不自然な交替はその奇異な点において「日本語の乱れ」の最もたるものの一つと言えるかもしれない。
 これらはなぜ発生したのか、著者の列挙する原因をまとめると、
・近頃の小・中学生に見られる、軟口蓋破裂音[ga,gi,gu,ge,go]一本読みの傾向。
・教育者側に、音の二相、特に破裂音[g]、通鼻音[ŋ]についての充分な理解と注意があるか疑義の残る点。それ以前に鼻濁音圏出身でない教師がかなりいると思われる点。
・NHK・民間放送局を問わずアナウンサーやニュースキャスター、記者にもこの傾向が散見される点。さらにはすべての芸能人にも当てはまる。

 以上がこの論文の要約ですが、この論文はあくまで日本語古来の美しい響きを守ろうとしており、変化しつつある日本語を客観的に捉えたものではありません。ですが論文の最後で、言葉が文化の核心である点を考えると、保守論も大いにさかんであってよいと思われると述べ、著者は言葉の変化に対してもっと人々が関心を寄せるべきだという立場にいると考えられます。また、1984年と少し古い時代に書かれたもので、現在はさらに濁音・鼻濁音の混同が激しくなっている点でも、この論文が正確であるとは決して言えないことも考慮しなければなりません。
 私自身、日常会話でのガ行音の発音において、濁音と鼻濁音を使い分けができていませし、他人の発音が気になったこともありません。しかしこの論文を読んで、日本人が日本語の音の美しい響きを意識しなくなったことに少し危機感を感じました。

「若者言葉」の新語誕生と変化

こんばんは、夜ゼミ2年の竹内です。最近髪をバッサリ切ったことでよく心配されますが、成人式が終わったからです。特に何もありません、元気です。

私は、以前から若者言葉に興味があり、卒論も若者言葉に関係したテーマで進めていきたいと思っています。そこで今回は、永瀬治朗(2002)「若者言葉」の新語誕生と変化」という論文を要約しました。以下要約です。

筆者は1988年から2年ごとに専修大学生田キャンパスで話されている若者言葉の収集と造語の研究を行ってきた。また、これと平行し、若者言葉が全国的にどのように使用されているのかという疑問のもと、1994年は大学に限り、1997年は大学生、高校生、中学生と調査対象を広げ、全国キャンパス言葉調査を行った。この調査結果の一部として「とても」と「うっとうしい」を比較し、3年間の変化を報告している。

【1994年調査(大学生)「とても」】
変種が多く、中でも全国的に一番広がりを持つ語は「チョー」と「ムチャクチャ」、「バリ」の3語である。また、その他の語形はほとんどが孤例であることから、この時点では「とても」の若者言葉の全国共通語は「チョー」である、と述べている。

【1997年調査(大学生)「とても」】
94年と比較して変種が半分に減少した。また、今回初めて「ゴッツ」、「メチャ」、「メチャメチャ」、「ムチャ」が出現したため、3年間で発生し、定着したものとみられる。さらにこの3年間で「ムチャクチャ」が消滅し、「ムチャ」が誕生したことから、「メチャクチャ」は消滅し、「メチャ」へと変化することが予想できる、と主張している。

【1994年調査(大学生)「うっとうしい」】
この年では「ウザッタイ」が中部、関東、東北と九州、「ウットイ」が近畿や中国、四国で定着している。「ウザイ」は「ウットイ」の周辺に分布するが、出現数はまだ少ないことから、次第に「ウットイ」から「ウザイ」に変化していくことが予想できる、と述べている。

【1997年調査(大学生)「うっとうしい」】
「ウザッタイ(テー)」、「ウザイ(ゼー)」、「ウットイ」の3語が定着している。94年と比較して「ウザッタイ」から「ウザイ」への変化が多くなり、さらに「ウザイ」の方がより多く使用されていることから、今後は「ウザイ」が全国的に使用されるようになるだろう。
そして、以上のように3年間の「うっとうしい」の変化を踏まえると、94年では「ウットーシー」から「ウットイ」に、97年では「ウットイ」は関西で使用され、「ウザッタイ」から変化した「ウザイ」が全国的に広まりつつある。そのため、「ウットーシー」→「ウザッタイ」→「ウザイ」に変化していったと推定できると結論づけている。

今回の調査を受けて、この3年間で誕生した語形と消滅した語形があり、変化の過程であるということがわかったが、3年間でこれほど激しく変化するということは意外であった。これらの若者言葉は新方言というよりも流行語と位置付けた方がよいのかもしれない。
また、マスメディアの発達、電子メールや携帯電話などの普及が背景にあるため、このような変化現象が可能になっているのだろう。
今後はこの2つの調査の比較研究を行い、語の誕生と消滅や変化過程を推定していきたい、と筆者はまとめている。

この論文の面白い点は分布図を用いている点です。そうすることで、語形が変化していく過程がより明らかになり、わかりやすいです。また、筆者の推定も大まか納得できるものであると考えられます。
しかし、筆者がまとめで「若者言葉は新方言というよりも流行語と位置付けた方がよいのかもしれない」と論じている点に関しては疑問が生じます。流行語のように消えていく語もありますが、長く存在し続ける語も少なくないからです。
ところで、筆者はこの調査が一部であると前置きしています。次の論文も読んで、筆者の見解を知りたいです。

”~かな、みたいな”と”~って感じ”の語用論的機能

こんにちは、夜ゼミ2年の東條です。提出ギリギリですみません…。追い込まれないとやる気が起きないところを直さなきゃいけないなと痛感しています。

今回は以下の論文について要約しました。

 

洞澤伸(2011「若者たちが使用する「ぼかし言葉」~かな、みたいなと~って感じ用論的機能」『岐阜大学地域科学部研究報告』第28pp.41-49

 

(1)<ミーティングに参加しなかった友達に対して>「本当は参加して欲しかったかな、みたいな

 

(2)<友人に誰かの愚痴を言っている時>「マジうざいって感じ、あいつ」

 

この論文では「ぼかし言葉」のうち、(1)(2)のような否定的な文脈で用いられている「~かな、みたいな」と「~って感じ」という2つの表現の語用論的機能の相違点が述べられています。「ぼかし言葉」とは、相手の感情を害したり、自分が嫌われたりして人間関係が損なわれないようにするために自分の感情をストレートに表現することを避け、相手に与えるインパクトを和らげる表現のことです。分析対象となる用例は、筆者が2006年~2010年の5年間にわたって、毎年、岐阜大学の12年生に対して行った、実際に使用したことのある「ぼかし言葉」の具体的な発話例をそれを使用する場面と共にあげてもらうというアンケート調査によって収集したものです。洞澤は「~かな、みたいな」、「~って感じ」それぞれについて分析したのち、結論として両者の語用論的機能の違いを明らかにしています。以下、両者の語用論的機能の共通点と相違点についてまとめていきます。

 

「~かな、みたいな」と「~って感じ」の語用論的機能の共通点

この2つの表現は、発話者が否定的な感情を抱く事象に対して一定の“距離”をおいて話しているものであると洞澤は述べています。この“距離”は「発話主体のメタ化」(辻1999a)という概念で次のように説明されています。発話者は聞き手と向かい合って話しながらも、対象の事象を第三者の発言として引用するような形で客観的に述べているという状態になります。そのため、発話者はその事象に対して“距離”をおくことになり、聞き手へのインパクトを和らげることができるのです。この「発話主体のメタ化」によって、発話によって作り出される発話者と聞き手の間に生じうる不和や衝突が緩衝されると筆者は主張しています。

 

「~かな、みたいな」と「~って感じ」の語用論的機能の相違点

《事象と聞き手の関係》

「~かな、みたいな」は、(1)の例からもわかるように、否定的な思いを事象に直接関与する本人に伝える表現であるといえます。そのため、冗談ぽく聞き手に注意を与える表現としても用いることができます。

 

一方、「~って感じ」は、(2)の例からもわかるように、否定的な思いを事象に直接関与しない第三者に伝える表現であるといえます。この表現における事象は第三者としての聞き手の関与度が低いため、疑問形で聞き手に共感を求める表現としても用いることができると筆者は述べています。

 

《緩衝機能の相違》

「~って感じ」の用例の中には、事象に聞き手本人が直接関与しているものも見つかりました。

 

(3)<失言をした友達に対し>「それはないって感じ

 

これを「~かな、みたいな」に書き替えてみると、2つの表現の相違が明らかになると筆者は述べています。

 

(3)’ <失言をした友達に対し>「それはないかな、みたいな

 

(3)(3)’を比べてみると、(3)よりも(3)’のほうが友達への非難の程度が軽いものであるといえます。このことから、洞澤は「~かな、みたいな」と「~って感じ」の緩衝機能には明確な違いがあると主張しています。事象に直接関与する本人に伝える表現である「~かな、みたいな」は緩衝機能が大きく、事象に直接関与しない第三者に伝える表現である「~って感じ」は緩衝機能が小さいという両者の違いを明らかにしています。

 

この論文の面白いところは、「~かな、みたいな」と「~って感じ」という似通った表現を、否定的な文脈で使われている場合のみに絞って、両者の相違点を明らかにしているところだと思います。聞き手の違いから緩衝機能の大小を論じている点がとてもわかりやすく、興味深かったです。しかし、一方で肯定的な文脈でこれら2つの表現が使われる場合はどのように変化するのだろうと疑問に思ったので、今後研究していければと思いました。

 

引用文献

辻大介(1999a)「『とか』弁のコミュニケーション心理」『第3 社会言語科学会研究大会予稿集』

)「自然談話における二人称代名詞「あなた」についての一考察―認識的優位性(Epistemic Primacy)を踏まえて―」

  おはようございます。夜ゼミ二年の嶋です。12月はバイト過去最大の約140時間、1月はそれをさらに更新し145時間、2月、3月もこれを更新しそうで絶望しか感じられません。バイト先ではいつでもおはようございますを使うので、日常でも常におはようございますを使っています。

   さて、今回紹介する論文は、おはようございますについての論文ではなく、下谷(2012)「自然談話における二人称代名詞「あなた」についての一考察―認識的優位性(Epistemic Primacy)を踏まえて―」(『関西外国語大学留学生別科 日本語教育論集22号』pp.63-pp.96)です。

  この論文は、二人称代名詞「あなた」について、自然談話に現れた例を詳しく分析することでその多様性、特に「あなた」が聞き手を直接表すか否かに注目し、話者間の認識における非対称性や優位性との関わりを踏まえて、「あなた」の果たす談話・語用論的機能を考察しています。

     二人称代名詞「あなた」に関する先行研究としては、他にも橋口(1998)や大高(1999)などが挙げられます。しかし、大高らは、友好関係における親愛表現以外で「あなた」は使われないという点が不十分であり、敵対している話者間にも使われることは橋口も挙げています。

   そこで著者は、二人称代名詞「あなた」について実際にどのような談話環境でどのように使われるのか、具体例とその使用頻度について考察しています。

   「あなた」がどう使われるのかに関して、まず、ある話題に関して、話し手が聞き手より認識的に優位であるというスタンスを持っている際に使われることが挙げられています。たとえば、他社との共同プロジェクトで、前々から小さなミスを繰り返していたが、とうとうプロジェクトの存続の危機に立たされるほどの大きなミスをしてしまった人に対してそのプロジェクトの企画者が、「いったいあなたには何ができるというんだね?」というような使われ方です。「あなた」は、ある話題に対して何らかの判断や評価、決定のできる側がそうでない側に対して使うので、多くの場合、話者同士の年齢や社会的地位、上下関係などが絡んできます。

    この認識的優位性を示唆する「あなた」はそのため、日常会話で使用すると、上から目線的で、相手への批判、非難や威圧感のあるイメージ、冷たく相手を突き放すような発話になりやすいため、避けられます。逆に、使用する場面では、たとえば、喧嘩してしまった恋人同士でよく見られ、これは、もともと近い関係にある相手との会話で、特に話者の相手に対する心理的な距離を露骨に感じさせます。よって、通常、日常会話ではあまり使われないと著者は述べています。

    しかし、「あなた」は、ドラマやアニメ、映画などの「仮想現実」の世界では頻繁に使用されています。でも著者はこれは、キャラクターの特徴を色づけしたり強調したりする「役割語」として使われているもので、実際の会話で使うと違和感を覚えやすいと述べています。これはたとえば、夫婦間で妻が夫に対して「あなた」は、保守的で控えめな妻という女性的なキャラクターを強調しますが、現代の現実世界では、日常会話ではほとんど使われず、上にも書いたように、喧嘩などをして相手を突き放したい時に使われることが多いように見受けられます。

    また、「あなた」は、日常会話の中では、体験談を語る際に、引用発話内で使われることがしばしば見受けられます。しかし、引用発話内で自分自身や第三者を指す「あなた」の使用は、聞き手を直接表す「あなた」より威圧的なイメージを与えづらく、不自然な使用もさけやすいので、自然な形で使われやすい発話環境として示すことが可能だと著者は述べています。  たとえば、「いや~、この前学校で、初めて会った人に、「あなたかっこいいわね」って言われちゃってさ。そんなこと言われたことないからびっくりしちゃったよ。」など、言われて驚いたこと、ショックだったこと、困ったことなどのようなトピックで体験談を話す場合には有効に使用できる可能性が高いと著者は述べています。

     最後に、「あなた」と同じ二人称代名詞である「おまえ」とを比較しています。「あなた」と「おまえ」の違いについて著者は、「おまえ」は情動的な動機によって使用され、書き言葉には用いられないのに対し、「あなた」は話者の認識における中立性や客観性という要素を持つため、日常会話では避けられあまり使われず、書き言葉に使われることが多いと述べています。

    以上がこの論文の大まかな内容ですが、この論文の面白いところは、やはり何よりも、「日常会話では「あなた」は避けられる傾向にある。」という点です。確かに普段あまり使うことはなく、皮肉を込めたりする際に使うことが多いなと思いました。そして、同じ「あなた」でも、引用発話内で用いられる「あなた」は何故あまり違和感を覚えないのかが不思議に感じました。また、初対面の時に、「あなたのお名前、お聞きしてもよろしいですか?」のように「あなた」を使ってもそう不自然ではないのは、話者の心理的な距離が近くないからなのかと思いました。

    しかし、ではなぜ英語の授業では、和訳するときに、「あなた」がよく使われるのでしょうか?日常会話ではあまり見られないし、特に同級生での設定が多いと思うので、「君」とかでも良いと思うのに、ほとんど必ず「あなた」が使われています。これは何故なので省か?また、「君」を使う場合との相違点は何でしょうか?「君」も、日常会話、特に親しい者同士では「あなた」ほどではないが、あまり見受けられないような気がします。第三に、「あなた」は「役割語」のところで女性的なキャラクターを強調するとあったように、男性より女性の方が多く使うように思うのですが、実際はどうなのか?そして私の今後のメインである、歌の世界ではどうなのでしょうか?ドラマやアニメ、映画などのように、歌もある意味では「仮想現実」の世界のように思います。しかし、これらとは違い、役割語としての機能はないように思われます。また、歌詞においての「君」と「あなた」の使われ方の違いについて、今後見ていけたらと思います。

引用文献

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奥秋義信(1988)『日本語よどこへ行く-まちがいだらけの言葉づかい』リヨン社
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金水敏(2003)『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店
鈴木孝夫(1999)『ことばと文化 私の言語学 鈴木孝夫著作集1』岩波書店
中等教育学会(著)(1933)『中等学校作法要項解説:文部省調査』西東社出版部
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三輪正(2000)『一人称、二人称と対話』人文書院
三輪正(2005)『人称詞と敬語 –言語倫理学的考察』 人文書院
横谷・長谷川(2010)呼称が示す談話モダリティ –無規定な呼称とそれ意外の呼称との比較- 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第59集・第1号 pp. 275-292.
礼法研究会(著)(1941)『礼法要項解説』帝国地方行政学会
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『広辞苑』(2008)新村出(編)第六版 岩波書店
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「~的」に関する考察

みなさまこんにちは、夜ゼミ2年の齋藤です。いよいよ春休みに突入いたしましたが、いかがお過ごしでしょうか。私齋藤は、自堕落な惰眠貪り生活を送りたいという思いと、せっかくの春休みを有意義に過ごしたいという思いに揺れております。おそらく前者の誘惑に負けると思いますが、やるべきことはしっかりやり、この論文レポートもしっかりと期日を守りたいと思います。(1月31日現在)

 

 さて、今回私が紹介する論文は靳園元(2012)「「~的」に関する一考察」(『北海道大学大学院文学研究科研究論集』(12), pp.235-248, 2012)です。この論文では本来、語の接尾辞として、次に続く名詞・助詞を連体修飾するものであった「~的」が、語だけでなく句や文に後続するようになり、さらには「~的な」の形を取り、文末表現として使われるようになったことを指摘しています。

 

(1)義務的に活動させる必要がありますね。

(2)黒は黒でもスウェードっていうのが「冬物」的なイメージにどうしてもなっちゃいますよね。

(3)私的にはそう思います。

(4)最初は「新人のくせに」的な感じでしたが、間違っているものは間違っている。

(5)もし、「そこに行くならこっちの方がいいんじゃない?」的な情報を頂ければ幸いです。

(6)「何あれ、ハイヒールハマってる的な?」

 

一気に6つも例文をあげてしまいましたが、変化の流れは(1)から(6)の順に進んだと主張しています。まず、「義務的」、「恣意的」など<漢語+「的」>の形で使われていた「~的」が(2)のように「冬物」など漢語ではない名詞や、「私」など人称名詞にまでつくようになりました。変化は進み、(4)、(5)のように句や名詞にまでつくようになり、いよいよ(6)では、言いさし文のように「的な」で文を終わらせるように変化を遂げているのです。靳(2012)では、(1)から(5)までの用法を接尾辞、(6)の用法を付加句と分類し、特に付加句としての用法を中心に、同じように文末で使われる「みたいな」と比較しながら「的な」の機能について分析をしています。この付加句「的な」ですが、靳(2012)では先行研究としていくつか論文を紹介しているものの、新しい表現のため、付加句や文末表現として「~的」を取り上げている論文がほぼないことを指摘しています。唯一「的な」、「みたいな」の意味機能に関連するものとして、加藤(2003)の「メタ的言及」を挙げています。この「メタ的言及」とは、要する「的な」の前接部分の要素が句であれ文であれ、名詞として扱われるようになるとしており、この作用が文末表現として使われるようになった起因ではないかと分析しています。

 さて、早速結論に移りますが、付加句「的な」は「メタ的言及」することによる凝縮、さらには言いさしの形で終わらせることによりぼかし表現としての機能を持っているとしています。文末に「的な」をつけることにより、それまで話していた部分を「的な」の前接部分として括ることができ、「メタ的言及」によって名詞、つまり語として捉えられるようになります。そうすることにより、事実上は完璧な文なのですが、長い文が語として一つにまとめられます。これを凝縮と靳(2012)では定めており、簡潔的な表現を使いたいという話し手の使用心理によってこの凝縮作用が使われていると分析しています。また「みたいな」のように断言しないことによるぼかし表現としても機能しているとしています。これは若者言葉に関する論文ではよく目にするかと思われますが、物事を断定しない曖昧な言い方をする表現であり、靳(2012)では日本独持のあいまいにして、相手を責めず、場の雰囲気を穏やかに保つための処世術として、これが日本人らしさであると述べております。

 以上この論文では、今まであまり研究されていなかった文末表現「的な」の機能についてまとめていました。この論文ではいわゆる少納言をデータベースとして取り扱っていたのですが、実際の会話文で研究したら、より面白い用例が見つかるのではないかと思いました。

接続助詞「シ」の機能

こんばんは。夜ゼミ3年の山崎です。寒い日が続いていますね。最近はスーツを着て、都内の知らない場所に行くことが多くなり、なかなか新鮮です。でもこの間は、某地下鉄内で迷子になって駅員さんに助けられたあと、会場に向かう道を逆走してしまいました。春までに方向感覚を養いたいです。

さて、今回紹介する論文は、白川博之(2001)「接続助詞「シ」の機能」(『意味と形のインターフェイス 中右実教授還暦記念論文集』pp.825-pp.836.)です。私は、理由や並列を表すわけではない終助詞「シ」の意味や機能について研究をしてきました。しかし、実際に集めたデータを分析する際、同じ文末に位置する「シ」でも、言いさしの「シ」と、終助詞として機能する「シ」の区別が曖昧な用例があり、言いさしについても理解を深める必要があると感じました。今回の論文では、接続助詞「シ」の言いさしを中心にその談話機能が考察されています。

まずはじめに、白川(2001)は、接続助詞「シ」の言いさしではない主節を伴った表現を、並列の在り方から見て大きく2つに分けている。

①併存用法 「PQRシ。」型…シ節の文内容と主節の文内容が並列されている用法。「たり」「て」といった他の接続表現とは異なり、一方が成り立つのではなく他のことも成り立つ事柄を並べている。

②列挙用法 「PQX。」型…シ節の文内容と主節の文内容が並列されているのではなく、主節の文内容が*1統括命題である用法。何らかの統括命題を共有している事柄をシ節の文内容として列挙している。(*1統括命題…寺村(1984)文として現れているかいないかは別として、話し手の意識に存在するあるひとつの命題。)

ここで白川(2001)は、①と②は統括命題の有無が異なるとし、統括命題を常に伴うのは②の列挙用法のみだと述べている。そして、これらの分類を踏まえた上で、言いさしはどちらにも位置づけられるとして言いさし(③~⑥)について説明している。

③併存用法の言いさし「PQRシ。」型

1)一人でできるスポーツじゃないですか。だからやりたい時にできるでしょう。

しかも誰の邪魔にもならない、お金もそんなに掛からない

この③はただの倒置用法とは異なり、「しかも」「も」が共起していることからも、シ節は先行の独立文とは並列的に並べられるべく、別に追加して発話されているとしている。

④併存用法の言いさし「PQシ。」型

2)手紙だと、何かことばが違っちゃう、電話ってのも雑ださ―――そのうち、そのうちって言ってたんだよな。

④はシ節同士が並列されているだけで、それらが他の独立文と関係づけられてさえいない。意味的に③とは、同時に成り立つ文内容を並列するのではなく、併存する相容れない文内容同士を対比的に並列させているところが異なっている。

⑤列挙用法の言いさし「XPQシ。」型

3)いや、ここでもあまり役に立てなくて。故障はする、大会には勝てない

統括命題の後に、個別の事象を並列させる用法。並列関係にあるのはシ節同士のみで、先行文はシ節の文内容と「統括命題と個別事象」という関係にある。ただし、白川(2001)は、倒置されているのではなく、あくまで統括命題が先行文に言語化されて現れただけだとしている。

⑥列挙用法の言いさし「PQシ。φ。」型

4)そうだけど……純子さんにはいつもこの人がついてる、僕の前からさらってっちゃう…。

⑥はシ節の統括命題が言語化されておらず、言外に暗示されたケース。外見的には④と同じだが、統括命題を伴う点で異なる。

以上から白川(2001)は、いずれの場合においても、あるはずの主節が立ち消えになっている訳でもなければ、倒置によって前に出ているわけでもないと述べている。そして、言いさしとされるシ節の文内容は、先行する独立文の文内容と追加的に関係づけられるもの(③)か、もしくは他のシ節の文内容(明示・暗示の両方の場合がある)と関係づけられるもの(④⑤⑥)があるとしている。そして、接続された前後の文内容を関係づけるという構文的な機能ではなく、その文内容を前後や言語化されているかされていないかを問わず、他の文内容と関係づける談話的な機能を持つとした。最後に、「接続助詞「シ」の機能:「Pシ」は、文内容Pが成り立つだけでなく、それ以外にも成り立つような文内容Xが併存することを示す。」として締めくくっている。

他の先行研究において意味から理由用法と並列用法のふたつに分けられていることが多いのに対し、白川(2001)では並べ立てるという「シ」の根幹にある機能と統括命題の有無に注目して、①の併存用法と②の列挙用法に分けている点は新しいです。しかし結局は、①の併存用法が一般的に言われる並列用法、②の列挙用法が理由用法に該当するのではないかと感じました。また、②の列挙用法に統括命題が常に伴うのは納得ができますが、①の併存用法は存在しないと述べている点が説明不足で、そうとは言い難いと思えます。なぜなら、①の併存用法で並べた立てる事柄も、文脈が無いと不自然なものが多いからです。文を越えた何らかの条件、ようするに統括命題のようなものを必要としていると考えた方が妥当ではないでしょうか。言いさしの構文の分類(③~⑥)についても、今後の分析において参考にしていきたいと思います。


「だろう」についての近年のモダリティ研究

こんにちは。夜ゼミ2年の高谷です。最近、咳が止まらず苦しんでいます。暖房を付けっぱなしにして寝てしまったせいか、舞浜で叫びすぎたせいか分かりませんが、とりあえず明後日またミッキーに会いに行ってきます。明々後日は富士急です。声が出なくなる日も、そう遠くなさそうです。 

さて、私が紹介する論文は大島資生(2002)「現代日本語における「だろう」について」『東京大学留学生センター紀要第12号』です。「だろう」の用法は、と聞かれてまず思い浮かぶのは「推量」でしょう。しかし、近年「だろう」の「確認」「疑念」という用法が注目されているのをご存知でしょうか?それぞれの用法の例文を挙げておきます。

(1)あしたはたぶん雨が降るだろう。(推量)
(2)田中さんは本当に来るだろうか。(疑念)
(3)この本、おもしろいだろう?(確認)

大島(2002)は「確認」「疑念」の用法と「推量」の用法とが関連付けられるかどうかについて先行研究を基に検討しています。用法の違いから、次のようなことが見られます。

「明日はたぶん雨がふるかもしれないだろう。」というように「推量」用法の「だろう」として「かもしれない」などの認識モダリティと「だろう」は共起しにくいですが、「確認」用法の「だろう」は共起します。「明日はたぶん雨がふるかもしれないだろう?」という文に違和感は覚えません。また、「たしか」との共起関係にもこの2つの用法の間では同じような違いが見られます。これを、大島は意味的な理由によるものからだと考えています。「推量」の用法で「Sだろう」と言うとき、それは話し手自身の判断の一種であるため、「S」は確実な事柄ではありません。したがって、その内部にさらに「不確実」を表すモダリティ形式は入りにくいということになります。「確認」の「だろう」は、話し手の判断を示しはするものの、文の機能の中心は相手にその判断を認めるように要求することです。この、話し手自身か相手かという文の中心の違いから、共起するモダリティに差が見られのではないかと大島は指摘しています。

大島はこれらのことから、「推量」を「直接に確認することができないことがらを、データによる検討や直観などに基づいて記述すること」とし、さらに「だろう」の基本的な機能を「答えを出すべき課題に対し、その時点で持っているデータをもとに出した結論を提示する」とまとめました。このことを基にして、「だろう」が「確認」の用法をもつことを次のように考えています。話し手は「答えを出すべき課題」に対して自分の結論を示し、相手にその結論を認めるように促す、つまり話し手の結論を聞き手が共有するよう要求するので、そこから「確認」の意味が生じたとしました。

さらに「疑念」の用法についても「Sは_だ」という結論の「_」に入る真偽値が決められないということで、結論が不明ということを表します。つまり、「ある課題について結論が「不明瞭である」ということを表す」と大島は述べています。

 この論文でおもしろいと思ったのは、以上のように一見まったく違う3つの用法を機能の面で結び付けようとしたところです。「確認」も「疑念」も、「推量」とのつながりがあると見るのは興味深くこのような見方もあるのだなという発見にもなりました。これは「だろう」に関してのみ言われたことなので、ほかのモダリティ形式との比較によりさらに発見があるのではないかと感じました。

 参考文献

大島資生(2002)「現代日本語における「だろう」について」『東京大学留学生センター紀要第12号』pp21-40

談話標識「なんか」について

 こんばんは。昼ゼミ2年の芝崎です。つい最近新年を迎えたと思っていたらいつの間にか1月も残すところあと1日となってしまいました。この調子でいくと2014年もあっという間に終わってしまうのではないかと、恐怖を感じています。

 さて、私は最近、会話の中で「なんか」という言葉を頻繁に耳にするなと思いました。そこで、この「なんか」という言葉には何か意味があるのか、また使用される規則などはあるのかという疑問を抱いたため、以下の論文を読み、要約しました。

飯尾牧子(2006)「短大生の話し言葉にみる談話標識「なんか」の一考察」『東洋女子短期大学紀要』38巻pp67-77 東洋学園大学

 この論文ではSaito(1992)を先行研究として紹介しています。Saitoは20代の若者がどのような談話標識を使用するのかを調査し、談話標識(だから、でも、なんか、だって、それでも)の中で「なんか」が突出して多いことを指摘しています。そして、その主な機能として、会話を和らげる、つなぎ語、発話権の獲得を挙げています。そこで筆者は、Saitoの先行研究から10年以上経った現在でも、談話標識「なんか」が若者の間で頻繁に使用されているのか、また、同じ機能や役割を持っているのかについて実際の会話のデータを基に論じています。

 調査方法としては、東洋女子短期大学の2年生5名(この5名は友人同士)の会話を90分録音し日常的な会話のデータを収集するという方法を用いています。
この調査によって以下のことがわかりました。
・「なんか」には強形(「なんかぁ」「なんかさぁ」)と弱形(「な(ん)か」の2種類がある
・「なんか」が一番多く使用されるのは節中であり、次に節頭、節尾と続く
・「なんか」の弱形が一番多く使用されるのは節中である
・節尾において強形が使用された例は一例もない→曖昧さを残しながら発話を終えるため
・節頭では強形と弱形が同じくらい使用される→強形はほとんどの場合発話の順番を獲得するマーカーの役割で使用
 される
・節中と節尾は弱形が中心に使用される
ここでの「節」とは会話文の中で分けられる単位のことであり、大抵1つの情報を持っているものをいいます。

上の調査結果から、筆者は話し言葉における談話標識「なんか」の機能や役割について次のようにまとめています。
①節頭において強形の「なんか」は、次の発言は自分の番であることを他の話者に知らせるマーカーあるいはきっか
 けのような役割
をしている。また、節頭の弱形で使われるときは、強形の場合ほどの強い意志は感じられないにして
 も、前話者の意見の補足や同意的な意見を述べるきっかけとなっている。
②節中で弱形で使われる「なんか」は、主につなぎ語(フィラー)の役割をしたり、発話を和らげる役割をしている。この
 用法の「なんか」が今回のデータの7割を占めていた。
③節尾の弱形「なんか」は曖昧に会話を終わらせるときに使用される。これは「~だ」と発話を言いきらずに終え、その
 後を誰かに委ねるという役割を持っている。
以上のように「なんか」における機能はSaitoの研究と大きく変わったところはなく、多様に変化し続ける若者語の中でも、談話標識というのはあまり影響を受けない分野なのではないかと筆者は考えています。
 
 この論文の面白い点は、「なんか」を強形と弱形という発音方法によって分類したことと、節の中のどの部分で用いられているのかに着目している点です。また、今回データとして用いられた会話では「なんか」が100回以上用いられており、普段無意識のうちに多用していることに驚きました。日常会話を用いたからこそ、発音や使用回数などのデータを得ることが出来たので、今後自分の研究の調査方法の参考にしていきたいです。

引用文献
Saito,Makiko(1992)  A Study of the Discourse Marker Nanka in Japanese. MA Thesis.Michigan State
   University

音響メディアを利用した盲人の情報活動に関する一考察

こんばんは。春休みも終わると3年になる恐怖に怯えています、夜ゼミ2年加藤です。

今回は全盲の方と同音異義語に関する論文「音響メディアを利用した盲人の情報活動に関する一考察:駒場恵・西澤文範・小林賢治・鎌田一雄」について要約しました。
以下要約です。

 視覚に障害がある人たちは、日常生活で必要な情報の獲得・発信などにおいて、通常の人たちが視覚を利用する部分を聴覚などの他の感覚で代用する感覚代替を行っている。しかし、単純に視覚的な部分を聴覚を通し利用できるように代替すればよい、とだけ考えて支援技術を議論することはできない。
 本稿では、先天的に視力を失っている人(先天全盲者)を対象とし、日常生活において音響・聴覚メディアを利用する情報活動に焦点を当て、技術的な支援、あるいは環境の整備が意図した通りの効果をあげているかどうかを議論する。(1)朗読システム(2)移動に関する位置情報獲得における周囲の音環境(3)テキスト理解における同音異義語の課題に関連し新聞記事の同音異義語出現頻度の調査結果などに関して様々な議論がされているが今回私は(3)の同音異義語に関する点に絞ってまとめていくこととする。

まず、音響メディアについてまとめておく。上記にも書いたが、盲人者は通常の人たちが視覚を通している情報をそのまま同じように視覚情報として獲得することができない。そのため代わりの感覚器官を用いた情報需要が必要となる。文章情報獲得支援としては、音声を利用する朗読システムがある。しかし、音声の読み上げによって視覚を通した通常の人たちのテキスト理解と同じような情報活動ができるかどうかについては検討が必要である。
  
  
  同音異義語についてであるが、文献「現代言語研究会:ワープロ時代の同じ読みで意味の違う言葉の事典、あすとろ出版部(1994)」に記載されている同音異義語1,176組を対象としている。それによると同音異義語では平均として2つから3つの意味が異なる単語を持っていることがわかる。本稿では、この単語リストを基礎とし、新聞記事を対象として、どの程度の同音異義語が存在するかを調査している。
 
  
〈調査1〉
下野新聞社のホームページに掲載されている記事(2002年)を対象とし、無作為に抽出した12日分の記事を解析し、記事文章中にどの程度の同音異義語が存在するかを調査している。その結果3.15%の出現頻度であるっことが分かった。

〈調査2〉
  下野新聞社の記事をジャンル別(経済・社会・政治・地域・スポーツ)に1週間分を無作為に抽出し、それぞれにおける同音異義語の頻度を計数した。これの結果によると、経済分野の記事における出現頻度が大きく、逆にスポーツでの頻度が低い事がわかった。

  これらの調査から考察すると、同音異義語は記事のジャンルによって変動するが、ほぼ3パーセント程度の頻度で出現することがわかった。朗読システムを実際に使った場合、同音異義語を含む文章の理解にどの程度の支障が生じるかどうかは言葉の知識、文脈などに依存するため一般的な議論にはなじまない、とされている。
  しかし、新聞における表記ルールではテキストを音声化したときの理解の度合いという視点はないようだ。
  情報技術を有効に活用し、情報獲得に大きな障壁が存在していた人たちに対して、その障壁を弱めることができる。しかし、単純にメディアの変換だけで解決するわけではないという視点が重要であると考える。けれども、視覚情報の聴覚情報による代替を考えるうえでも、それぞれの感覚器官の特性も考慮しなければならないし、読み上げシステムの長時間使用による難聴などの障害なども報告されている。

  同音異義語についてまとめてはあるが、同音異義語と全盲のひとに関する関わりは書かれていなかった。しかし、全盲の人と同音異義語というものは音に関する判断基準の大きな特徴をもっていると思うので、この他の全盲と同音異義語に関する論文などがあれば研究していきたいと思いました。

「女ことば」の成立と国民化-ジェンダーから見えてくる新しい日本語のすがた-

こんばんは。夜ゼミ3年の廣瀬です。もうすぐ2月ですね。最近生活リズムがものすごく乱れているので、2月は早寝早起きを心がけて、朝から元気に就活したいと思います。

さて、今回要約した論文は、中村桃子(2004) 「女ことば」の成立と国民化-ジェンダーから見えてくる新しい日本語のすがた-」です。以下要約です。

ジェンダーは、一般には「女らしさ・男らしさ」と呼ばれるもので、「社会文化的役割」を指すために提案された用語である。まず中村は、「本質主義」と「構築主義」という2つのジェンダー観を示している。

「本質主義」のジェンダー観

 ①ジェンダーには「男」と「女」の二種類しかなく、両者はあらゆる点で対極にある。

 ②ジェンダーはその人に内在している属性である。私たちは、ジェンダーを「持っている」から特定の言語行為を行う。

  つまり、女が男と違う言葉遣いをするのは、「女だから」である。

 ③ジェンダーは言語行為以前に存在する。

  そのため、言語の役割は、あらかじめ決まっている話し手の属性(男か女か)を表示する機能しかないことになる。

しかし、研究が進むにつれて、私たちは本質主義のジェンダー観では説明がつかないほど多様な言語行為をすることが明らかになってきた。女性の場合では、年齢や家族関係、上下関係、世代、学歴、職場の役割などによって異なるし、同一人物が場面のあらたまり度や相手との上下・親疎関係によって言葉を使い分けていることが指摘されている。そこで「本質主義」の行き詰まりを打開したのが、「構築主義」のジェンダー観である。

「構築主義」のジェンダー観

 私たちは、関わり合う中で互いのアイデンティティを構築していくが、そのうちジェンダーに関わるものをジェンダー・アイデンティティと呼ぶ。

 ①「女らしさ」にも様々あり、人種や年齢、職業によって異なるため、「男/女」という二項対立ではなく「男性性/女性性」が使われる。

 ②ジェンダー・アイデンティティは属性ではなく主体が「行う」行為である。つまり、多様な男性性/女性性を表現するのである。

 ③よって、ジェンダーは言語行為の原因ではなく結果である。

次に中村は、「女ことば」を歴史的に見ている。

江戸期 「女訓書」という規範的言説の中で女の話し方の規範が長期間にわたり語られている。

     これにより女と言語の関係がカテゴリー化された。

     「家」の妻・嫁としての規範。女の言葉遣いが支配の対象として語られた。

明治期  天皇の臣民としての「女の国民」としての規範という価値を与えられた。

     しかし江戸期と同様、女の言葉遣いは支配の対象として語られ続けた。

     言文一致論争では女ことばについて言及されず、この論争はあくまで「男」の

     「国語」を作るための論争であった。

戦中期  文法書では、男の言語を標準口語の基準としながら、女の言語にも言及。

      (中でも「教育のある」女学生ことばを採用)

     →標準語における性別の構築を目指したものであった。

      これによって、女の言葉遣いが「婦人語・女性語・女ことば」としてはじめて「国語」の中に位置づけられた。

中村は本論文で、「構築主義」に着目し、女ことばの位置づけを歴史的に見ていくことで、「女ことば」は女たちの実際の言語行為や女の特質から自然に成立したものではない、と結論づけている。